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暗闇で過ごすというあたらしい感覚


声が灯りのように感じられた時間があります。

そんな体験のお話です。

あなたは光が完全に閉ざされた世界を体験したことがありますか。
目をしっかりと開けているのに、何も見えない世界を知っていますか。

想像するとちょっとコワイ。でもなんか興味ある・・かも。
そんな世界に足を踏み入れたことがあります。

その名も「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」


暗闇の中の対話・・?
なにそれ、どういうこと?

ダイアログ・イン・ザ・ダークは、視覚障害者の案内により、完全に光を遮断した”純度100%の暗闇”の中で、視覚以外の様々な感覚やコミュニケーションを楽しむソーシャル・エンターテイメントです。

ダイアログ・イン・ザ・ダークのHPより


これを読んでも、はて?どういう世界?とイメージしにくいかもしれません。


けれども、これ以上説明のしようがないのです。


純度100%の暗闇のなか、わたしたちは出会ってゆく。
なにもホラーじゃないから、ご安心を。

暗闇に入る前、すべての持ち物を預けることになります。身ひとつで他の参加者の方と一緒に、アテンドの方の明るい声の方へ付いていくのです。

なんにも見えないなか、ただただ、歩みをすすめます。おそるおそる、一歩ずつ。自然とすり足になりながら。

「ひゃあ」とか「こわい」とか3秒毎に、声をださずにはいられません。そうでないと、自分という存在が、真っ暗闇にすーっと吸い込まれてしまいそうなのです。

声をださなくては、他の誰にも認識されないような。自分がここにいることさえ疑いたくなるような、そんな体験でした。


「あ、ごめんなさい」

不意に、誰かとぶつかってしまいました。誰とぶつかったのか、相手のどこにぶつかったのかもわからない。表情もよめないなか、

「いえ、大丈夫ですよ」

と、男の人の声が響きます。


普段なら、同じ状況でも至らぬことを考えてしまうのが常です。


「優しそうな人でよかった」
「ムッとはしただろうな」
「でも別にワザとぶつかったんじゃないし」


一方、暗闇ではそうはいきません。
それよりも、自分の次の一歩をすすめるのに必死ですから。

それに、暗闇で聞こえた「大丈夫ですよ」の声は、ほんとうに大丈夫なような気がしたのです。不思議。

どれほどの時間が経ったのかも、どれほどの距離を歩いたのかもわかりませんが、ただ陽気な声のする方へ、ただ心細く声をだすことを基本に、時が進行します。


そこでは、いくつかのアクティビティがありました。どれも日常でしている簡単なことばかりです。けれどもそのすべてが日常とは異なっていました。

何かが肌に触れるだけで
すこしでも音が聞こえるだけで
なんだか香りがするだけで
ただ温度があるだけで

いちいち「気になる」のです。

それは、わたしという身体を通して、フィルターを通さずに、すーっと入ってくるよう。

思えばそのすべてが、身の安全や安心に関わる大事な情報です。普段は「見えている」というだけで、これらは蔑ろにしがちなのかもしれません。

・・・

ついに時間がきて、暗闇からぱっと抜けたとき、
ふっと魔法がとけてしまう感じがしました。


いつもいる世界を目にしたとき、心なしかがっかりしたことを憶えています。なんと光が眩しくって、ごちゃごちゃしてる世界・・!

そして、もう一つ。自分にもがっかりしてしまいます。暗闇の中で、安心のなか安全に過ごすことができたのは、アテンドさんのおかげです。そのはずなのに・・アテンドさんの姿を光の下で目にしたとき、わたしははっきりと感じました。自分に「差別」という意識があることを。


目の見えない人に対して、自分を委ねること・・見える世界だったら、できない!と思ったのです。暗闇でアテンドしてくれた声の灯りが、見える世界では消え入りそうになってしまう。それって・・なんか変。

いつもの世界は、見えることで全てをわかった気になってしまいます。その見え方は、ぐにゃりと歪んでいるのにね。

一方、暗闇では人や物に対して偏った見方はできません。そこは、身体を通して人や物の「本質」みたいな部分に、そっと触れられるような時空間でした。


体験したのは、5年前の12月。この時期になると思い出します。
その度に、あのとき感じた「本質」みたいなものを、ちゃんと忘れないでいられてるかな?と問いかけています。


暗闇のなか、たしかに触れたであろうツリーを今度は家で目にしながら。



おしまい



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星井きなこ
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