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偽日記 2

9月某日

シフトが入ってなかったので、思い切って都内の美術館へ出掛けた。
以前からファンだったおじいちゃん画家の回顧展をしていたからだ。教科書にも載っている有名な絵がずらりと並んでいた。彼の作品は全部同じテーマだ。『人の不幸』。
たくさんの不幸が黒いインクと信じられないほど精密な線で描き出されていた。
訪れる人は女の人が多かった。みんな熱心に画家のプロフィールを読んでいた。絵が展示されているガラスケースの前は、なぜだか足早に通り過ぎて行った。
私は気に入った絵だけ食い入るように観て回った。でも途中で実際に使われていた絵道具の展示の前で、動けなくなった。
使い掛けの道具がそのまま残されてた。すり減ったペン先には黒インクが付いたまま錆びていた。ちびた消しゴムはまだその役目が途中だと主張していた。几帳面にナイフで削られた鉛筆は、先が少し丸くなっていた。
おじいちゃん画家は20年前のある朝、散歩中に車に轢かれて死んだそうだ。
でもみんなまだそれを知らない。長い時を経て今でもおじいちゃん画家の帰りを待っている。


9月某日

夜、利夏ちゃんの同棲している彼氏から電話が来た。
挨拶もなしにいきなり「利夏をどこへ隠しているか正直に言え」とものすごい剣幕でまくし立てて来た。
かねてからこの男は暴力的だと聞いていたが、やっぱりそうなのかもしれない。少なくとも初めて電話で話す相手への態度ではない。
「知りません」
「嘘つくな。あんたら友達皆で匿ってるんだろ。正直に話せよ」
「本当に知りません」
あの日、待ち合わせの場所に利夏ちゃんはやって来なくて、そのままこちらも連絡が取れないのだ。いくらそう私が説明しても男は納得しなかった。
「実家にでも行ったんじゃないんですか」
「聞いてみたけど帰ってないって言ってる。あいつはあんたと会うって出て行ってから戻って来ないんだ。そんなのおっかしいだろ。仕事にも行ってないらしいし。絶対隠してんだろ」
「知らないったら、知らないってば」
電話を切ったらすぐさままた掛けて来た。本当にうっとおしい。ブロック。こんなだからあんたは彼女に愛想を尽かされるんだよ。
そう言えばこの前も変な人が電話で絡んで来たな。今月はこういう月間なのか。
暗澹たる気分だ。


9月某日

今、思い出したんだけど、どうして美術館のトイレの鏡に映った自分の顔はあんなにきれいだったんだろう。
実家の洗面所で見たのとはまるで別人だった。
薄暗かったせいかな。照明の色のせいかな。鏡が高級なせいかな。
それともきれいなものを見たせいで、顔つきも変わってしまっていたのかな。
目に光が灯っていて生き生きとして見えたのだ。
立ち上がって自分の部屋の鏡で確認してみた。
そこには身も蓋もない、むき出しの中年女のくたびれきった顔しか映っていない。


9月某日

快晴。布団を干す。シーツも洗う。枕カバーも洗う。
明け方に何度も猫に足を噛まれた気がする。ふくらはぎを見てみる。うっすらと赤く小さな歯型が付いていた。やっぱり猫は実在するんだ。どうして顔を見せてくれないのかな。


9月某日

昨日は残業だった。
10時過ぎに施設を出て真っ暗な駐輪場に行くと、私の自転車の前かごに何かメモのようなものが放り込まれていた。真四角にきちんと畳まれた白い紙。時々こういうことがある。
最初は利夏ちゃんの暴力彼氏が嫌がらせをして来ているのかと思った。でも違う。開いてみてすぐに分かった。そこにはヘタクソな女の子の絵が描かれている。頭だけが妙に大きくて、棒みたいな腕の先にはたぶんお花が握られている。それからメッセージと。
『イツモアリガト』
暴力彼氏にこんな繊細なことはできない。
「こちらこそありがとうね」
私はスマホのランプでそれを確認すると、また丁寧に折り畳み鞄の中にしまった。お手紙はいつのまにかかなり溜まってきていた。
今度のお休みにまとめて、近所の神社にでも持って行こうと思う。


9月某日

あまり好きではない人がとても嬉しそうにしているのを見た。
この前見た時は、その人はひとりで泣いていた。
どっちもイライラする。
消えてなくならないかな。
利夏ちゃんみたいに。







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