お金に対する態度を決めかねている
生活のモデルを探している。
じぶんがもっとも居心地よく生きられる方法を探している。
だから、海外の生活をよく調べている。
アメリカは、極端だ。
貧乏人とお金持ちが明確に分かれている。両者は接する文化自体も異なるし、生活圏も重なり合わない。ときどき貧乏人が成り上がってお金持ちの仲間入りをすることはあり、それをお金持ちは歓迎する。
アメリカは、フランクリン以降、理想のじぶんを自助によってつくりあげた人間を、最高のものとする伝統がある。
克己心によって成功を収めた人間は、歓迎すべきということだ。
イギリスの場合、貧乏人とお金持ちとの間には、もっと大きな断絶が存在しているようだ。階級というものがある。どんなに財産を持っていようと、それが古いお金でないかぎり、成り上がりものとされる。
結局は、貴族の国なのだ。
いくら成功を収めていたところで、階級の差は埋まることがない。
イタリア人は、見た目にこだわる。
「お金を持っているように見える」のであれば、実態は問わない。そういう気概があるように見える。だから彼らは高価な服に張り込むし、そのことを誇示してやまない。
成金趣味、ということばは、おそらくイタリアには存在しないのではないか。
対照的に、中流階級に見られたがっているのが、我らが日本人だ。
だから、あまりに高級感のある服装は窮屈に感じるけれども、いかにもお金がなさそうなボロボロの服は避ける。
ブランドを選ぶにも、テイストを選ぶにも、身の丈に合っているか否かを第一に考える。それが悪いとは言わない。過剰に見た目にこだわるのも、まるでこだわらないのも、どちらも多大な努力を要することだからだ。
日本人は、お金に対するアレルギーを持ちながらも、それに疑問を持っているのだ。
アメリカのように成功する国にコンプレックスを持っているから、アレルギーを持ってちゃいかんと思い込んでいる。そして、「お金を持つのはいいことだ」と、自分に言い聞かせているうちに、だんだん、お金が好きになり始めている。
ビジネスの手法として、アメリカをモデルにしているせいもあるかもしれない。
フランス人は一般にお金を汚いものと見なしているようだ。
お金に対するアレルギーは日本人よりも強いだろう。
お金持ちに見られること自体がかっこわるいとされているのかもしれない。彼らはへいきでボロボロの服を身に纏うし、それでいて颯爽としている。
フランス人のスタンスで、生きていきたいなあと思う。
お金がなくてもへいちゃらで、しっかりプライベートを愉しもうと努める。
仕事はてきとうに済ませる。仕事がなければないで仕方ない、と捉える。入るお金が減ってしまうのであれば、生活に掛かる費用を削減してしまえばいい。いまあるもので満足しつつ、じぶんに嘘をつくことなく生きる。
フランス人はしかし、趣味においては高級志向だ。クラシックとか、絵画とか、カンヌ系の映画とか、古い文学に惹かれる。
この「心は錦」的スタンスは見習うべきものだ。
日本人は身も心も中流で、下手をすると、心は下流であったりする。そこそこいい服を着ている人間が、およそ考えうるかぎりもっとも低俗な趣味を持っていたりする。
趣味がいい、というのはなにより大事なことだ。
分かったふりをする必要はないが、アレルギー的にハイカルチャーを避ける必要もないかな、とさいきんは思うようになってきた。すぐれたものは、すぐれているのだ。作品の外側に、よけいな評価軸をつくりあげているひとたちもいるけれど、そんなものには、取り合わなければいい。
虚心坦懐に、作品と向き合う。
すぐれていれば評価し、よさが分からなければ評価しない。じぶんで軸を持ってさえいれば、それができるはずだ。
教養とは、なにもないところで、ひとりで楽しめる能力のことを指すそうだ。
そういう意味で、ぼくは教養を身につけたい。