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Photo by
akikawamotomi
芸術の秋だったかもしれない
知人が某デパートの画廊に出展していたので見てきた。
絵のことは、よく分からないので毎度毎度色々質問してしまうのだがいつも快く教えてくれる。
今回の作品の多くは紙ではなく絹に描いていること。
作画をするに当たってどういったプロセスで描いているのか。
構図の基本。
などなど。
一枚の絵が完成するまでには膨大な理屈が詰まっていた。見たものを“絵”として表現するためにどれくらいの時間と集中力を費やしてきたのだろうか。そして、その基礎の上で磨いてきた感性を乗せて作品として目に見える形にしいく。もしかすると目に見えない部分にこそ芸術があるのかもしれない。
しかも、芸術家は仕事だ。作品は飯の種である。
どれだけ見えない部分で努力や研鑽を重ねたとしてもそれが実らなければ生活の糧は得られない。
本人も言っていたが、パパパっと描いた絵の方がすぐ売れたりすることもあるそうだ。
販売する絵に関しても「こういうのが売れやすい」というものもあるらしい。
しかしながら、商業よりになりすぎるとそれはそれで目の肥えた人には見透かされてしまうようで、そのバランスもまた難しい。
子供でも出来る、“絵を描く”という行為を突き詰めた人たち。言い換えれば、誰でも出来ることを誰よりも尖りながら続けてきた人たちが芸術家なのだろう。
そんな人たちが作った作品を、
すげぇ!とか
なんかいい!とか
でしか言い表せないのは幾分情けない。
せめて、自分が感じた良さを言語化して表現できるようになりたい。
普段の仕事から言葉を丁寧に扱おう。
表現についての理屈を学ぼう。
そんなことを感じさせられた芸術の秋だったかもしれない。