こどもはいつも新しい

 悲しみを忘れたひとは、悲しむひとに気づかない。
 痛みを忘れたひとは、痛がるひとを見て笑う。

 悲しみを知るおとなは、さびしい目をして笑う。
「努力しても報われないことってあるんだよ」と笑う。
 そうして、悲しみを忘れようとする。

 痛みを知るおとなは、あきらめることをすすめる。
「あんな痛みを味あわせまい」と、がんじがらめに抱きしめる。
 そうして、痛みを忘れようとする。

 けれど、こどもはいつも新しい。

 悲しみを知らないこどもは、まつげをひろげて笑う。
「報われないかもしれなくても努力してみたい」と笑う。

 痛みを知らないこどもは、あきらめることをこばむ。
「どんな痛みが待っていてもいいから」と夢を語る。

 もしもこどもを気づかうおとながいなかったら
 こどもは傷ついてしまうかもしれない。

 もしもこどもをたしなめるおとながいなかったら
 こどもはひとを傷つけてしまうかもしれない。

 それでも

 もしもこどもがいなかったら
 あたらしい知識も、記録も、技術も、思想も、制度も、文明も、生まれなかったろう。

 人間は人間になれなかっただろう。


――後記――

GATTACAという映画を観ました。

この映画は、子供が生まれる前に遺伝子を調べつくすことが当たり前になった少し先の未来が舞台です。潜在的な病気の可能性や、性格や外見上の問題や、予想される死因や寿命までをあらかじめ判定したうえで子供を産むことが普通になった時代が描かれます。

主人公の青年は、事前の選別なしで生まれました。その時代としては珍しい存在であり、遺伝的に劣った人として社会的に冷遇されます。それでも幼いころからの宇宙飛行士になりたいという夢を捨てず、自分の遺伝情報を偽ってまで宇宙飛行士への道を進みます。その手段として、事故で水泳選手の夢をあきらめた遺伝的なエリートと契約してその人物の血液や尿や毛髪やふけを携帯し、日々自分の生体認識情報を偽るという不法行為をつづけています。

映画のストーリーとしてはそこに殺人事件が発生し、殺人の容疑を受けた主人公が追いつめられるという展開になります。そこでは、遺伝的な欠陥を持って生まれてきた主人公と、遺伝的に完璧でないエリートを認めようとしない社会との葛藤が描かれます。

でも、観ていて心に残ったのは、単に遺伝的な欠陥の有無がどうこうではなく、画一的な判断基準を適用しようとする社会とそれに抗う主人公の姿でした。そしてそのなかでときどき、ルール違反をこっそり見逃したり、それとなくかばったりしようとする、主人公に好意的な人たちが描かれていることでした。

社会にはルールが、なにかしらなくては成り立ちません。でもそのルールはひとがつくったもの。なにからなにまで普遍的で公正なものであることはありません。ひとりひとりのひとは、そのルールに基本的にはしたがうことが多いけれども、個人的な良心とえこひいきにもとづいて、重罪ではないささやかなものがほとんどでしょうけれども、逸脱を試みることがある。

それがいいことかわるいことか、というとき、社会規範に照らすなら、逸脱はわるいことになるはずです。でも、そうした逸脱を完全に排除することができ、そして実際に排除するようになったとしたら、おそらく社会はゆがみ、行きづまるでしょう。ほとんどのひとが個人的な良心とえこひいきにもとづく自己判断ができないような社会は、けっきょく、残りのごく少数のひとたちの個人的な良心とえこひいきにもとづく社会になるでしょうから。

だから、少し無茶なくらいのことをいうひと、しようとするひとが、社会にはあるていど必要だと思うのです。それは、打ちのめされたり失望したりして疲れてしまった「おとな」ではなく、経験不足ゆえの野心、知識不足ゆえの無際限の好奇心をもつ、けれどけして愚かではない、利発な「こども」(生活年齢には制約されないかもしれません)だろうと思います。いつの時代にも、あとからあとから生まれてくる「こども」。

ときには、ちいさな生傷の絶えないこどもの活動が、おとなの古傷をうずかせることもあるかもしれません。そうした乱流がない社会は、むしろ不健全なんじゃないか――と思ったりするのです。


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きむらしんいち
スキひとつじゃ足りないっていう気持ちになることがもしあったら、考えてみていただけると、とてもわかりやすくてうれしいです。