親切なお節介
もうひとつ覚えている光景がある。
車椅子で某所に通っている時、うっかり混雑時に帰宅が合ってしまった。コロナ前の通勤電車は(今もまたそうかも知れないが)ぎゅうぎゅうの鮨詰め状態だったから車椅子は内心、ごめんなさい!な気分なのだが、物理的に結構場所を占める。
満員電車に、乗客がさらに乗り込んでくる。車椅子の私は上方がポッカリと空く。ちょうどアラビア数字の6みたいな感じ。両手でリュック的な重そうなバッグを抱えた人が私の隣に立ったので、私の眼前にそのバッグが来る感じになる。
そのかたは下げるわけにも行かず空中に持ち上げたままで、いかにも大変そうである。そこで「持ちましょうか」と声をかけた。昭和世代の私にとって、それはごく自然なことなのだ。混雑した電車やバスの中では、席にかけている人が前に立った人のカバンが重そうだったら、それを見かねて声掛けして持つという親切は、私が子どもの頃はよく見る光景だったから。
でも、返ってきた返事は「大丈夫です」だった。そのお声は恐縮したふうに聞こえたので、ああ、そうか。私が時代遅れになっているのか!と咄嗟に思った。それとも車椅子の人に持たせるのはまずかろう、という配慮なのかな。
でも、私の膝はがらんと空いていて、いつも孫が乗ったりするくらいなんだけどな。続けて思ったのは、なんだか、みんな遠慮しいしい生きているみたいだな、ということ。誰かに迷惑をかけるのをとても恐れている。
私なんぞは車椅子利用者になったことを(最初はもちろん苦しんだが)視野が広がったなんて考えているのに。誰もが迷惑をかけずに生きてなんかいけないんだ知ったことはとても良い経験だったのだけど。
友人が「最近の若い人はとても礼儀正しくて良いよ」という話を、彼女なりの驚きと好感を持って伝えてくれた。それはとても素晴らしいことなのだけど、もしもだよ?そういう若い人々が小さく縮こまっているのでなければいいけどな、と思い出したりした。
ふと、松坂桃李さんが主演した数年前のNHKのドラマ「今ここにある危機とぼくの好感度について」も頭に浮かぶ。脚本は渡辺あやさんだ。嫌われるのを極度に恐れる若い男性が、それを優先するあまりに失うものがあることを知る話(大雑把!)。
親切は、過ぎるとお節介というが、今は「お節介」という単語自体をあまり見聞きしない。この「お節介」は過干渉とかお門違いという厄介な側面を持つ。好意の押し付けとか余計なお世話とも親和性が高い。お節介は嫌われたのだ。きっと多くの人が代わりに「無関心を求めていたのだろう。
私だって目立たないでいること、その無名性はひっそりと過ごしやすい。大勢の中に紛れて静かに縮こまっていることを望んでいるのかも知れないのだ。だから「お節介」は廃れて、悔し紛れに「親切」も連れて行ってしまったのかも知れない。