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歎異抄の旅(9)「世の中は、うそ、偽りばかり」と教える聖徳太子の古墳を訪ね、大阪へ。

 私たちは、抱えきれない悩みがあると、信頼できる人に相談したい、と思います。
 19歳の親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、暗い心を抱え、大阪の聖徳太子(しょうとくたいし)の御廟(ごびょう・墓)へ向かわれました。現在の叡福寺(えいふくじ)です(大阪府南河内郡太子町)。
 親鸞聖人の悩みとは、何だったのでしょうか。
 私たちも、聖徳太子の御廟へ向かい、親鸞聖人の足跡を訪ねてみましょう。

太子町のマンホールに、意外な仕掛け

 JR大阪駅から大阪環状線に乗り、天王寺駅で下車。目の前に「あべのハルカス」がそびえています。日本で最も高いビルです。
「あべのハルカス」に直結する近鉄・大阪阿部野橋駅(おおさかあべのばしえき)から、30分ほど電車に揺られると喜志駅(きしえき)に着きます。

大阪阿部野橋駅から喜志駅へ向かう
喜志駅(大阪府富田林市喜志町)

 駅の東口には「聖徳太子御廟」と刻まれた石碑がありました。目的地が近いことを表しています。

喜志駅の東口に「聖徳太子御廟」の石碑
東口のロータリーからバスに乗って「聖徳太子御廟前」へ

 ここから、さらに10分ほどバスに乗って、「聖徳太子御廟前」で降ります。叡福寺の目の前でした。

バス停から見た「聖徳皇太子磯長御廟」叡福寺

 発車するバスを見送って、足元に目をやると……。
 なんと、道路のマンホールのふたに、
「和(わ)を以(も)って貴(とうと)しと為(な)す」
と書かれているではありませんか。

「和を以って貴しと為す」と書かれたマンホールの蓋

 これは、聖徳太子のお言葉です。
 聖徳太子は20歳で、推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)となり、政治に力を発揮されました。その業績として、高く評価されているのが十七条憲法の制定です。
 この「和を以って貴しと為す」は、憲法の第一条に記されている言葉なのです。
「仲良くすること、和する努力をすることが、最も大切な心得である。争ってはいけない」
と戒められています。
 これは政治の場だけでなく、職場でも、家庭でも大切なことです。だから太子町では、
「聖徳太子のお言葉を、足で踏む可能性もあるけれども、人々が幸せに暮らすために大切な心構えだ」
と考え、思い切って、汚水マンホールのふたにまで記したのではないでしょうか。それほど、人間関係は難しいからだと思います。

憲法に記された大切な宝物とは

 聖徳太子から、私たちへのプレゼントがあります。とても大きな宝物です。しかも、確実に届くことを願って、文章で明記されているのです。
 十七条憲法の第二条は、
「篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬(うやま)え。三宝とは仏法僧(ぶっぽうそう)なり」
で始まります。
「ここに、三つの宝がある。心から敬いなさい。三つの宝とは、仏・法・僧である」
と宣言されているのです。
 宝の内容は、次のとおりです。
「仏」……最高の覚りを開いた方
「法」……仏の説かれた教え
「僧」……教えのとおり実行し伝える人

 地球に現れた仏は釈迦(しゃか)だけですから、釈迦の説かれた仏教こそ、最高の宝であると教えられたのです。
 でも、「僧」が宝と聞くと、ちょっと疑問に感じる人があるかもしれません。
 鎌倉時代の兼好法師(けんこうほうし)も、その一人でした。『徒然草(つれづれぐさ)』に、こう記しています。
「清少納言(せいしょうなごん)が、『僧侶とは、つまらないものですね。人から、木の切れっ端のように、役に立たないものと思われていますよ』と書いています。なるほど、そのとおりですね」
 清少納言や兼好法師が、「つまらないもの」と笑っている「僧」とは、釈迦の教えを正しく説かず、名誉や地位、金を集めることばかり考えている者のことです。
 聖徳太子が、「僧を敬いなさい」と教えられたのは、あくまで仏教を正しく伝えている僧に限るのです。

 ではなぜ、聖徳太子は「仏法僧」が宝だと言われたのでしょうか。
 十七条憲法の第二条には、続けて、
「則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国(ばんこく)の極宗(ごくしゅう)なり。いずれの世、いずれの人か、この法を貴(とうと)ばざる」
「それ三宝に帰せずしては何をもってかまがれるを直らせん」
と書かれています。
「仏教は、すべての人が最後に心のよりどころとする教えであり、世界でただ一つの真実の宗教である。いつの時代の人であっても、どこの国の人であっても、仏教を信じなければ、本当の幸せになることはできない」
と、聖徳太子は教えられたのです。

聖徳太子の墓は、なぜ、トンネルの奥なのか?

 叡福寺の山門をくぐると、真っ正面の、こんもり盛り上がった山へ向かって参道が続いています。
 実は、この山全体が、聖徳太子の墓なのです。
 つまり古墳(こふん)です。
 直径約54メートルの円墳(えんふん)です。

叡福寺の山門。真っ正面の山が、聖徳太子の古墳

 内部は横穴式石室(よこあなしきせきしつ)になっています。山から突き出ている部分が、古墳の入り口です。
 親鸞聖人は、建久(けんきゅう)2年(1191)9月13日から3日間、聖徳太子の御廟へ参籠(さんろう)されました。
 比叡山(ひえいざん)へ登られて、10年が過ぎていました。しかし、今、死んだらどうなるのかと考えると、真っ暗な心しか出てきません。親鸞聖人は、どうすれば「後生の一大事」を解決できるのか、聖徳太子にお尋ねしたいと思われたのでした。
 現在、古墳の前にはトンネルの入り口のような建物があるだけで、礼拝するための御堂はありません。親鸞聖人は、どこに参籠されたのでしょうか。

聖徳太子御廟(古墳)の入り口

 寺の関係者に尋ねてみました。
「親鸞聖人が参籠された建物は、どこにありますか」
「今はもうありません。織田信長(おだのぶなが)による焼き討ちで全焼してから、再建されていないのです」
 なんと! 信長の仏教弾圧は、比叡山だけではなかったのです。
「焼かれる前は、どんな建物があったのですか」
「室町時代の古絵図を見ると、御廟(古墳)の入り口に礼堂があります。古来、多くの僧侶が、聖徳太子のお導きを受けようと、この礼堂に参籠したといわれています」

聖徳太子の古墳の断面図(想像)

夢の中で、余命宣告を受けた衝撃

 残念ながら、当時の建物は残っていませんでした。
 親鸞聖人は、この地で、
「聖徳太子さま。煩悩(ぼんのう)に汚れ、悪に染まった親鸞、救われる道がありましょうか。どうか、お教えください」
と、祈願(きがん)を続けられたのです。
 そして、第二夜の深夜のこと。
 親鸞聖人は、夢を見られました。聖徳太子が現れ、次のように告げられたと、書き残しておられます。

我が三尊(さんぞん)は、塵沙(じんじゃ)の界(かい)を化(け)す。
日域(じちいき)は大乗相応(だいじょうそうおう)の地なり。
諦(あきらか)に聴け諦に聴け、我が教令を。
汝が命根(みょうこん)は応(まさ)に十余歳なるべし。
命終りて速やかに清浄土(しょうじょうど)に入らん。
善(よ)く信ぜよ、善く信ぜよ、真(まこと)の菩薩(ぼさつ)を。

 このお言葉は、当時の地名をとって「磯長(しなが)の夢告(むこく)」といわれています。
 意訳してみましょう。

阿弥陀仏(あみだぶつ)は、すべての者を救わんと、力、尽くされている。
日本は、真実の仏法が花開く、ふさわしい所である。
よく聴きなさい、よく聴きなさい、私の言うことを。
そなたの命は、あと、10年なるぞ。
命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。
よく信じなさい、深く信じなさい、真の菩薩を。

 夢だとしても、
「そなたの命は、あと、10年なるぞ」
の余命宣告は、親鸞聖人にとって、大きな衝撃でした。

「私の命は、あと10年……」
 19歳の親鸞聖人は、迫り来る「死」を前にして、再び比叡山へ戻り、厳しい修行に身を投じられるのです。

聖徳太子の名言「世の中は、うそ、偽りばかり」

 聖徳太子の有名なお言葉に、
「世間虚仮(せけんこけ) 唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」
があります。
「世の中のことは、うそ、偽りばかりである。いつまでも続く幸せは、どこにもない。ただ、仏の教えのみが真実なのだ」
という意味です。
「ひどいなあ! そこまで断言されなくてもいいのに……」
とささやく声が聞こえてきそうです。
 そういう人には、興福寺(こうふくじ・奈良県奈良市登大路町)の僧侶でありながら、源平の動乱を戦い抜いた男、覚明(かくみょう)の経歴をお話ししたいと思います。
 覚明がいた当時は、平家が権力を握り、日本中を思いのままにしていました。
 平清盛(たいらのきよもり)は最高の官職である「太政大臣(だじょうだいじん)」に上り詰めました。清盛の子や孫も次々に昇進し、平家一門は「わが世の春」を謳歌していたのです。
 出世を願う人たちは、清盛に近づき、少しでも気に入られようとします。清盛が右へ行けば、皆、右へ行きます。左を向けば、皆、左を向きます。まさに、風の吹く方向に、すべての草木がなびくような光景でした。
 そんな中、源氏の一派が「平家打倒」を旗印に掲げて決起しました。源氏は、奈良の興福寺へ協力を求めます。
 これを受け、興福寺を代表して返書を書いたのが覚明でした。
 源氏を応援することを約束し、
「清盛入道(きよもりにゅうどう)は平氏の糟糠(そうこう)、武家の塵芥(ちんがい)なり」(清盛は、平家のかすであり、武家のごみくずである)
と酷評したのです。
 これを知った清盛は激怒します。
「ただちに覚明を捕らえて、死刑にせよ」と命じます。
 覚明は奈良から逃げ出し、信濃(しなの・現在の長野県)へ向かいました。平家打倒に決起した源(木曽)義仲(よしなか)の軍勢に、書記・参謀として加わったのです。

 誰もが、「あの巨大な平家が、倒れるはずがない」と思っていました。
 ところが、義仲が、源氏の軍勢を引き連れて北陸から京都へ破竹の勢いで迫ると、状況は一変します。
 恐れをなした平家一門は、自らの屋敷に火を放ち、都から西海へ逃げていったのでした。
 都の人々は、大歓声で源氏を迎え入れます。歴史が大きく変わりました。
 義仲の快進撃の陰には、覚明の働きが大きな役割を果たしました。
『平家物語(へいけものがたり)』は、覚明を指して、
「あっぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける」
と記しています。

 義仲は、平家に代わって京都で権力を握ります。太陽が昇るような勢いで現れたので「朝日将軍(あさひしょうぐん)」と呼ばれるようになりました。
 ところが義仲の栄光も続きません。
 都の人々から、「平家の時のほうが、まだよかった」と苦情が出てきます。
 貴族からは「田舎者!」と嫌われます。
 後白河法皇(ごしらかわほうおう)は、義仲に「平家を討て」と命令したはずなのに、気が変わってしまいます。今度は関東にいる源頼朝(みなもとのよりとも)に、「義仲を討て」と命じたのです。
 関東から、義仲を討伐するための軍勢が京都へ迫ってきます。源氏同士で戦いが起き、義仲は敗北します。
 それでも義仲は、
「同じ死ぬならば、よい敵と合戦し、大軍の中で討ち死にしたい」
と言って、少人数で突き進んでいきます。
 最後には、義仲と、腹心の部下の2人が残りました。
 義仲は、つい、
「日頃は何とも思わない鎧(よろい)が、今日は、重くなったぞ」
ともらします。
 部下は、主君を励まします。
「お体は、まだお疲れになってはおりません。どうして一領の鎧を重く感じられることがあるでしょうか。そのように弱気になられるのは、味方に軍勢がないので、心がひるまれたのではないでしょうか。たとえ私一人であっても、千人の武者がいるとお思いください。まだ、矢が七、八本ありますので、ここでしばらく防ぎましょう。あそこに、粟津(あわづ)の松原が見えます。あの松の中で、ご自害ください。無名の武者に討たれては残念です」

追い詰められた義仲と励ます部下  イラスト・黒澤葵

 名誉の死を重んじる部下の言葉に、
「そのとおりだ」
とうなずき、義仲は、ただ一騎で粟津の松原へ向かって馬を走らせました。
 1月21日、肌寒い夕暮れ時でした。
 薄氷が張っていたので、途中に泥沼のような深い田があることに気づかず、馬を乗り入れてしまったのです。
 ざぶんと、馬の頭が見えなくなるほど、沈んでしまいました。腹を蹴っても、鞭で打っても、馬は動きません。
「しまった」
 義仲が振り向いた瞬間に、一本の矢が飛んできて、兜(かぶと)の内側に立ったのです。
 朝日将軍・義仲は、名もない武者が射た矢で討ち取られてしまったのです。
 それは、義仲が天下の実権を握ってから、わずか数カ月後のことでした。
『平家物語』の冒頭には、
「おごれる人も久しからず。唯(ただ)春の夜(よ)の夢のごとし」
と書かれていますが、あまりにも急速な没落でした。

 主君・義仲が戦死した後、覚明は比叡山へ入ります。落ち武者として身を隠したのかもしれません。
 覚明が、興福寺を代表して平清盛を糾弾する書状を書いてから、わずか4、5年の間に、世の中が激変しました。
 清盛は熱病で死亡し、平家一門は壇ノ浦(だんのうら)で滅びました。
 都から平家を追放した源義仲も、同族の頼朝に殺されました。
 一般の人々にとっては、平家と源氏、どちらの時代が幸せか、分かりません。
 聖徳太子が「世間虚仮」と教えられたように、世間事は、ころころと変わり、長続きしないのです。覚明は、まさに、うそ、偽りの世の中と知らされるのでした。
 そんな覚明は、比叡山で親鸞聖人に出会います。
 釈迦の教えに従って仏道修行に励まれる親鸞聖人の姿に強く引かれ、
「私を、弟子にしてください」
と願い出たのです。
 覚明は、後に「西仏房(さいぶつぼう)」と名を改め、親鸞聖人に従って生涯を歩むことになります。
 聖徳太子の、
「世間虚仮 唯仏是真」
の御心を、親鸞聖人は、『歎異抄(たんにしょう)』に次のようにおっしゃっています。

(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。

『歎異抄』後序

(意訳)
火宅(火のついた家)のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。

意訳は、高森顕徹著『歎異抄をひらく』より

義仲、最期の地へ

 朝日将軍・義仲が最期の時を迎えたのは、滋賀県大津市の琵琶湖(びわこ)のほとりです。義仲が最期の場所に選んだ「粟津の松原」を訪ねてみましょう。
 京都駅からJR琵琶湖線で大津方面へ向かいます。
 大津駅の次が膳所駅(ぜぜえき)。
 ここで京阪電車に乗り換え、石山寺方面へ進むと、五つめの駅が粟津です。
 駅から10分ほど歩くと琵琶湖のほとりに出ます。
「粟津の松原」は、旧東海道沿いにあったようです。今では湖岸が埋めたてられ、当時の面影は残っていません。
 しかし、江戸時代の浮世絵師・歌川広重(うたがわひろしげ)が「近江八景(おうみはっけい) 粟津の晴嵐(せいらん)」と題して、この辺りの風景を描いています。とても美しい松林であったことが想像できます。
 大津市は、名勝の復活を目指して、平成10年に、湖岸に松を植えました。「大津湖岸(おおつこがん)なぎさ公園」として整備されています。
 琵琶湖から吹く風を感じながら、松の並木が連なる遊歩道を歩くのは、とても気持ちのいいひとときです。

琵琶湖のほとりに植えられた松の並木

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