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歎異抄の旅(2)小野小町、平重衡の旧跡、そして法界寺へ
「なぜ、小野小町(おののこまち)が出てくるの?」
「『歎異抄(たんにしょう)』と関係ないじゃないか」と、思われるかもしれません。
それは、松若丸(まつわかまる・親鸞聖人の幼名)が9歳で出家した動機を知る手がかりになるからです。
青蓮院(しょうれんいん・京都市東山区)の庭園には、
「明日ありと 思う心の あだ桜
夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」
と刻まれた歌碑があります。わずか9歳の松若丸が詠んだ歌です。
「明日まで自分の命がある保証はない」
と無常を見つめ、仏門に入る決意を示した歌でした。
歌の意味を解くため、親鸞聖人(松若丸)生誕の地、日野(ひの・京都市伏見区)へ向かいます。
地下鉄東西線の小野駅で降り、旧奈良街道を南へ歩くと、小野小町ゆかりの随心院(ずいしんいん)が見えてきました。小町は平安時代の女流歌人です。
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境内に「小野小町 化粧(けわい)の井戸」があります。
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立て札には、
「この付近は小野小町の屋敷跡で、この井戸は小町が使用したものと伝う」
と記されています。
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誰が言い始めたのか、
「世界の三大美人」
に小野小町が入っています。
クレオパトラ、楊貴妃(ようきひ)と並ぶ女性ともなると、化粧に使う水をくんだ井戸までが旧跡になるのか……。
小町に恋する深草少将「百夜通い」
美人と評判の小町に、プロポーズする男性が多くありました。中でも有名なのが深草少将(ふかくさのしょうしょう)です。
少将は熱烈な恋文を送ります。
小町にとっては、男性からの一方的な申し出は迷惑だったに違いありません。しかし、ハッキリ断るのではなく、
「私の住まいを100夜、訪ねてくださったら、お心に従いましょう」
と伝えます。
少将は、大喜びです。
「あなたと結婚するためならば、何日でも通います」
彼は、雨の日も、風の日も、雪の日も、夜になると自宅から約5キロの道を歩いて小町の屋敷へ通い始めたのです。
しかし、100回になるまで小町は会ってくれません。それでも少将は、訪問したあかしに、毎晩、カヤの実を一つずつ、門前に置いていきました。
苦労して通えば通うほど、小町を恋い焦がれる思いは、激情となって高まっていきます。
そして99日めの夜。
都は深い雪に覆われていました。
「あと2回で、願いがかなう」
と、心が弾む少将にとって、大雪など物の数ではありません。しかし、これまで、あまりにも無理を重ねてきました。寒さが身にこたえ、体が弱っています。
雪をかき分け、ようやく小町の屋敷にたどり着くと、疲れ切って倒れてしまったのです。
音もなく、夜の雪が降り積もります。
深草少将は、そのまま門前で凍死してしまったのでした。彼の手には99個めのカヤの実が、しっかりと握られていたといいます。
深草少将が倒れた場所も、この井戸の近くだったと伝えられています。
彼は「恋」に、身も心も、命までも焼いてしまいました。
「恋」は煩悩(ぼんのう)の一つです。少将と同じように、金、名誉、地位、財産などの煩悩にとらわれ、命を奪われていく人が、どれだけあるか分かりません。
少将は、まさか自分が100日以内に死んでしまうとは、夢にも思っていなかったはずです。
彼が、99個めのカヤの実を握って、雪の中に倒れた時、
「目的は果たせなかったが、恋に人生をかけて悔いはない」
と思えたかどうか……。それは誰にも分かりません。
親鸞聖人は『歎異抄』に、
「万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなし」
と断言しておられます。煩悩に振り回されて終わる人生ほど、むなしいものはないと、知っておられたのです。
では、絶世の美女ともてはやされ、歌人としても有名な小野小町は、幸せだったのでしょうか。
深草少将が、99回も通ったのに、小町は顔も見せませんでした。そのことから、「冷たい女性だ」と世間から非難されるようになったといいます。
彼女としては、少将を傷つけずに、あきらめさせようとして、
「100夜、通ってくだされば……」
と言ったのでしょう。でも、そんな優しさを理解してくれる人は、ごくわずか。皆、自分の勝手な思いで、褒めたり、責めたり、笑ったりします。世間の評価は、コロコロ変わっていくものなのです。
小野小町は才媛なるがゆえに、苦しみが増えたともいえます。
彼女は、歌います。
「花のいろは 移りにけりな
いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」
(美しかった花の色も、すっかり衰えてしまいました。私も、いつのまにか年をとってしまったのです)
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若さも、健康も、才能も、ずっと続くものではありません。遅いか、早いかの差はあっても、確実に衰えていくのです。
小野小町も、
「万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなし」
という『歎異抄』の言葉を聞けば、
「そのとおりですね」
と、うなずいたに違いありません。
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平重衡「死んだら、どこへ行くのか」
小野小町の旧跡・随心院から、旧奈良街道をさらに南へ歩きます。
間もなく、とても大きな寺が見えてきました。世界文化遺産の醍醐寺(だいごじ)です。
ちょうど、紅葉の美しい季節でした。道路沿いの白壁を越えて、赤や黄色に色づいた木々の葉が、日光を受けて輝いていました。
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やがて道は、住宅街を抜けます。
市営住宅と民家の間に小さな公園があり、その中央に石碑が建っていました。
平重衡(たいらのしげひら)の墓、と刻まれています。重衡は平清盛(たいらのきよもり)の五男です。なぜ、こんなところに墓があるのでしょうか。
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親鸞聖人がお生まれになった頃は、清盛が太政大臣(だいじょうだいじん)になり、平家が全盛を極めていました。
重衡も、高い身分に就き、朝廷や院で重きをなした人物です。軍略の才もあり、大将軍として連戦連勝の成果を上げていました。
ところが、一谷(いちのたに)の合戦で源氏に敗れ、捕虜になってしまいます。
重衡には、自分が間もなく処刑されることがハッキリ分かっていました。いざ死を覚悟した時に見えてきたのが、
「死んだら、どこへ行くのか」
という真っ暗な心だったのです。
重衡は、法然上人(ほうねんしょうにん)から仏教を聞いていた武将でした。
「処刑される前に、もう一度だけ、法然上人に会わせていただきたい」
と懇願し、許されます。
法然上人は、あまりにも変わり果てた重衡の姿を見て涙を流されました。
重衡は、法然上人に次のように語ったと、『平家物語』に記されています(以下、意訳)。
「私が合戦で死なず、捕虜になったのは、再び、法然上人にお会いするためだったとしか思えません。
お尋ねしたいのは、重衡の後生(ごしょう・死後)です。死んだら、どこへ行くのでしょうか。どうすれば救われるでしょうか。
私は、都で暮らしていた時は、仕事に追われ、忙しい毎日でした。地位や名誉を追い求め、おごり高ぶる心ばかりが出てきて、自分が死んだらどうなるのか、少しも気になりませんでした。これまで、自分の問題として、真剣に仏教を聞いていなかったことが悔やまれます。
気がつくと私は、間もなく処刑される立場になっていました。
死は、今日か、明日か、必ず近いうちに訪れます。
よくよく私の一生を振り返りますと、犯した罪業(ざいごう)は須弥山(しゅみせん・世界一高い山)よりも高く、善根(ぜんごん)は小さな塵ほども積んでおりません。
このまま命が終われば、私は、地獄、餓鬼、畜生の三悪道(さんあくどう)に堕ちて、苦しみを受けることは間違いありません。
どうか上人さま、お慈悲(じひ)をもって、このような悪人が助かる方法を、お示しください」
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元気な時、平和な時には、
「明日、自分が死ぬかもしれない」
とは、なかなか思えません。
「来月も、来年も生きている」
と信じているからこそ、将来の予定を立てるのです。
ところが、死が眼前に迫ってくると、初めて、巨大な壁に激突したかのような衝撃を覚え、うろたえるのです。
ここで、思い出されるのが、松若丸(親鸞聖人)が青蓮院で詠んだ歌です。
「明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
仏教を聞いていた重衡でさえ、
「明日、自分が死ぬかもしれない」
とは、少しも思えなかったのです。
松若丸人は、重衡と同じような悔いを残してはならないと、わずか9歳で、後生(ごしょう・死後)の一大事に気づき、出家得度(しゅっけとくど)を決意したことがうかがえます。
源氏の捕虜になった平重衡の身柄は、奈良の僧侶へ引き渡されました。そして、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうふくじ)を焼き討ちした時の責任を問われ処刑されたのです。享年29の若さでした。
重衡の妻は、夫の悲報を聞き、日野の法界寺(ほうかいじ)に頼んで遺体を引き取り、この地に埋葬したと伝えられています。
松若丸「次に死ぬのは自分の番だ」
平重衡の墓から、南へ10分ほど歩くと、
「親鸞聖人御生家(しんらんしょうにんごせいか)」
「日野家菩提寺(ひのけぼだいじ)」
と掲げる法界寺に着きました(京都市伏見区日野)。
山門から入ると正面に、国宝に指定されている阿弥陀堂(あみだどう)があります。
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平安時代に、日本の政界の中心として栄えた藤原氏には、多くの支流がありました。その中で、この日野を拠点として、法界寺を建立した藤原氏は、「日野」を姓として名乗ることがありました。寺の看板に「日野家菩提寺」とあるのは、そのためです。
「親鸞聖人御生家」
と書かれていますが、真言宗(しんごんしゅう)の寺院なので、親鸞聖人の教えは説かれていません。
この静かな寺の境内で、松若丸(親鸞聖人)が、楽しく遊んでいたこともあったでしょう。
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しかし、それは平和な日々ではありませんでした。
松若丸4歳の時に、お父さんが亡くなったといいます。
続いて8歳の時に、お母さんが亡くなりました。
相次ぐ父母の死に接し、松若丸は、
「次に死ぬのは自分の番だ」
と驚きが立ったのです。
人は死ねばどうなるのか。
この世が終わったら、どこへ旅立つのか。
死後(後生)は、あるのか、ないのか、さっぱり分からない。
次から次へと疑問がわいてきて、未来が真っ暗になります。
この「死んだらどうなるか分からない心」を、仏教では「後生暗い心」といいます。
「後生暗い心」を解決し、この世から永遠の幸福になることこそ、釈迦(しゃか)が説かれた仏教の目的なのです。
松若丸は、9歳の春に、叔父・藤原範綱(ふじわらののりつな)に付き添われて、青蓮院の慈円(じえん・慈鎮 じちん)を訪ね、
「次は、自分が死んでいかなければならないと思うと不安なのです。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです」
と、出家得度を願い出ました。
慈円は、天台宗比叡山(てんだいしゅうひえいざん)の座主(ざす・最高位)を4度も務める高僧です。
「わずか9歳で、出家を志すとは尊いことだ」
と驚きながらも、
「今日は忙しいので、明日、得度の式を挙げよう」
と言います。
慈円が、
「では……」
と立とうとする時、松若丸が筆を持って紙に書いたのが、この歌でした。
「明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
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歌を受け取った慈円は、
「おお……」
と、心を打たれたのです。
松若丸は、慈円に懇願します。
「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は桜の花よりも、はかなきものと聞いております。明日と言わず、今日、得度していただけないでしょうか」
「そこまで、そなたは無常(むじょう)を感じておられるのか……。分かった。早速、準備しよう」
仏教を聞き始める原点を確認するような、切迫した会話がなされたあと、ただちに得度の式が行われたのです。
松若丸の髪は、きれいにそり落とされました。それは同時に、都の北東にそびえる比叡山での、厳しい修行の始まりでもありました。
(次回は、比叡山へ向かいます)