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【『百人一首』と人生と】笑われたって、私は、私の信じる道を行くさ(喜撰法師)


わが庵は 都のたつみ しかぞすむ
  世をうじ山と 人はいうなり

喜撰法師(きせんほうし)

【意訳】
 私の庵(いおり)は、都の東南の宇治山(うじやま)にあり、このように、心安らかに暮らしています。
 それなのに、都の人々は、「あいつは、つらいことが続いて、この世が嫌(いや)になったので、山奥へ逃げていったのだ」と笑っているようですね。

【解説】
 喜撰法師とは、どんな人だったのでしょうか。
『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の序文には「六歌仙(ろっかせん)」の一人として名が挙がっています。平安時代の前期を代表する歌人の一人だったのです。
 周囲から注目される歌人でありながら、ある日、突然、都を去って、宇治山(現在の京都府宇治市)で暮らし始めたのでした。
 世間の人々は驚き、動機を推測します。
「喜撰法師は、何も告げずに宇治山へ行ってしまった。しかし、住み始めた地名『宇治』に、その理由が暗示されているぞ。『宇治』と『憂(う)し』をかけて、憂(うれ)い、悩み、苦しみが多いこの世が嫌になったと言いたいのだろう」
 こんなうわさが飛び交ったのでしょう。
 喜撰は、
「人は人、私は私だ。好き勝手に、何とでも言って笑うがいいさ。私は宇治山で、こんなに自由に、心安らかに暮らしているのだから」
と言い切っているのです。
 今も昔も、周りの人の目を気にしたり、無責任な批判を浴びせられたりして苦しんでいる人が多いのではないでしょうか。
 だからこそ、自分の信じる道を貫く喜撰法師の生き方にあこがれる人が増え、この歌の人気が高まっていったに違いありません。
 後に現れた歌人・鴨長明(かものちょうめい)も、
「御室戸(みむろど)の奥に、二十余丁ばかり山中へ入りて、宇治山の喜撰が棲(す)みける跡あり。家は無けれど、堂の礎(いしずえ)など定かにあり」
と書き残しています。喜撰法師が住んでいた庵の跡を訪れる人が多かったのでしょう。
 この歌が有名になったことで、「宇治山」は「喜撰山(きせんやま)」と呼ばれるようになり、今日に至っています。

宇治川に架かる宇治橋(京都府宇治市)

喜撰法師
 平安時代の前期の歌人
 宇治山に住んでいた僧というだけで、生没年も、経歴も詳しく分かっていない。

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