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歎異抄の旅(11)森鷗外が『高瀬舟』に秘めた2つの謎! 「なぜ生きる」と安楽死を『歎異抄』で解く
京都の鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋(しじょうおおはし)。
この橋は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)にとって、忘れられない場所です。
「もし今晩、死んだらどうなるのか」
この真っ暗な心の解決を目指して、親鸞聖人は、9歳で比叡山(ひえいざん)の僧侶となり、厳しい修行を続けられました。
しかし、29歳の春に、とても比叡山では解決ができないと見極められ、山を下りられたのです。
京都の六角堂(ろっかくどう)に百日間も籠(こも)って、
「死んだらどうなるか分からぬ心、この暗い心を解決する道をお導きください」
と一心に祈願を続けられました。
しかし、進むべき方角が見えず絶望されるばかりでした。
夢遊病者のように、京の街をさまよっておられた時に、四条大橋の上で、かつての友人・聖覚法印(せいかくほういん)に出会われたのです。
聖覚法印から、
「親鸞殿、あなたのその苦しみは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)によって、必ず解決できます。ぜひ、法然上人(ほうねんしょうにん)にお会いしてください」
と勧められ、吉水(よしみず)の草庵(そうあん)へ向かわれたのでした。
現在の四条大橋は、鉄筋コンクリート製です。橋のたもとには、河原の土手へ降りる階段が設置されています。
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土手には、散歩したり、川の流れを眺めたりしている人が多くいます。のんびりした時間を過ごすことができるスペースです。
鴨川の流れには段差があり、小さな滝のように、水の音がさわやかに響いています。その流れを、じっと見つめる足の長い鳥がいました。サギが魚を狙っているのです。
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橋の真下に行くと、カモがたくさんいました。すいすい気楽に泳いでいると思ったら、急に水中に首を入れて逆立ち! 魚をとっているのです。
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のどかな河原の風景の中にも、鳥や魚たちの、生きるための闘いがあるのです。
そういう姿を見ていると、「生」と「死」を見つめ、「なぜ生きる?」と考えることができるのは人間だけなのだ、と改めて感じました。
親鸞聖人は、絶対「死にたくない」人間が「死なねばならない」矛盾に驚かれ、仏教を求め始められたのです。
「仏教は、死ぬことばかり言うから嫌いだ。そんな暗い話は聞きたくない」
と言う人がありますが、大きな誤解です。この世も、未来も、本当に明るくなりたいから、死を真っ正面から見つめるのです。また、必ず解決できるのです。
高瀬川のほとりを散策しながら、「生と死」を考える
四条大橋の下で、京都の地図を広げて、ここから法然上人の吉水草庵跡までの道順を確認していました。すると、鴨川と並行して、「高瀬川(たかせがわ)」という小さな川が流れていることに気づきました。
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森鴎外(もりおうがい)の小説『高瀬舟(たかせぶね)』で有名な、あの川です。
『高瀬舟』のテーマは、『歎異抄(たんにしょう)』と深い関係があります。予定を変更して、高瀬川のほとりを散策しながら、「生と死」について考えてみたいと思います。
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森鴎外は、夏目漱石(なつめそうせき)と並んで明治時代を代表する文豪です。
小説家としては、異色な経歴の持ち主でした。東京大学医学部を卒業し、陸軍の軍医となります。22歳から4年間、ドイツへ留学した経験が、後の文学活動に大きな影響を与えています。
小説を発表しながらも、陸軍の中では出世を果たし、軍医としての最高ポスト「軍医総監(ぐんいそうかん)」にまで上りつめました。
陸軍を退官した54歳の時に発表した小説が『高瀬舟』です。とても短く、20分ほどで読める作品です。
しかし、一読後、心に何かが、ずしりと残るのです。
それは、なぜか。
「人間にとって、幸せとは何か」という、とても大きな問いが、二つの角度から提起されているからです。
森鴎外が、『高瀬舟』を発表したのは大正5年。それ以来、さまざまな議論が繰り返されてきました。百年以上たった今日でも、いまだ、解決していない難問です。
小説を要約して、問題を浮き彫りにしていきますので、皆さんも、鴎外が出題したクイズに挑戦してみてください。
小説『高瀬舟』は、こう始まります。
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島(えんとう)を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごい)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻(まわ)されることであった。
桜咲く、春の夕刻。珍しい罪人が高瀬舟に乗せられました。彼の名は、喜助(きすけ)といいます。30歳ほどの、住所不定の男です。
町奉行所の役人・羽田庄兵衛(はねだしょうべえ)は、罪人の護送役を命じられて一緒に舟に乗りました。庄兵衛は、喜助を見て「不思議な男だ」と思わずにおれませんでした。
これまで、島へ流刑になる罪人は、舟の中で夜通し泣いたり、悔やんだりしている者ばかりでした。ところが、喜助は、いかにも楽しそうな顔をしているのです。今にも、口笛を吹いて、鼻歌を歌い出しそうにさえ見えます。
庄兵衛は、罪人と親しく会話をしてはいけない立場でしたが、つい、「喜助、おまえは、何を考えているのか」と尋ねてしまったのです。
喜助は、とがめられたのかと思って、恐る恐る「私は今、懐に二百文の銭を持っているからです」と答えました。
このお金は、島での生活資金として、奉行所が罪人に与えたものでした。
当時は、二百文で米を三升(約5キロ)買うことができたようです。単純な比較はできませんが、今なら、米5キロは、2千円前後で買えることを思うと、大金ではありません。それなのに、なぜ、うれしいのか……。
喜助は、こう説明します。
「これまで、私には居場所もなく、決まった仕事もありませんでした。生きるために、どこかに仕事がないかと、探し回っていました。お金になることならば、何でも、骨身惜しまず働いたのです。それでも、受け取った給料は、いつも右から左へ消えていきました。借金を返すためです。そして再び、食べるために借金をし、借金を返すために働いてきました。こんな毎日だったので、現金が手元に残ることはなかったのです。ところが今、私の懐には、二百文もあります。私にとって初めての蓄えなのです。こんなうれしいことはありません」
喜助の話を聞いて、役人の庄兵衛は、「自分と喜助の身の上に、どれだけの違いがあるだろうか。金額の桁が違うだけで、同じではないか」と考え込んでしまいました。
喜助は、とても不幸で、かわいそうな生活をしてきた男です。
それに比べれば、庄兵衛には妻と4人の子供、老母、合わせて7人で暮らす家があります。
町奉行所の役人としての定職があり、決まった額の給料をもらえます。妻の実家は裕福な商人なので、たまには、経済的な援助を受けることもあります。
それでも、家族全員の暮らしを支えるのが厳しくて、自分の給料は、すべて右から左へと消えていくのです。
庄兵衛は、喜助よりも格段に恵まれているはずなのに、これまで「満足」を感じたことがありませんでした。
いや、満足どころか、
「もし、突然、仕事を解雇されたら、どうしよう」
「もし、大きな病気になったら、家族を養えなくなる……」
という不安と恐れが、常に心の奥底に潜んでいることに、今さらながら、気づいたのです。
庄兵衛は只漠然と、人の一生というような事を思って見た。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往って踏み止まることが出来るものやら分からない。
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庄兵衛は、これまで、「人の一生」を落ち着いて考えてみたことがなかったのです。
しかし今、罪人の喜助と自分を比べてみて、人間は、何を、どれだけ求めたら、満足できるのだろうか、と大きな疑問にぶつかったのでした。
鴎外は、自ら『高瀬舟』を解説して、次のように分析しています。
人の欲には限がないから、銭を持って見ると、いくらあればよいという限界は見出されないのである。
では、限りない「欲」を持った人間は、どうすれば幸せになれるのでしょうか。
これが、第一のクイズです。
『歎異抄』に記されている人間の姿
実は、森鴎外が『高瀬舟』で指摘した人間の姿は、すでに鎌倉時代の『歎異抄』に、明らかにされているのです。
鴎外は、
「人の欲には限りがない」
と指摘しました。
これを『歎異抄』には、
「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」
と書かれています。親鸞聖人の言葉です。
「煩悩具足」とは、欲、怒り、愚痴の塊。
「凡夫」とは、人間のことです。
つまり、「人間は、欲などの煩悩の塊である」ということです。
ただの塊ではありません。
「人間は、100パーセント、煩悩でできている。煩悩以外に人間はない」という意味です。
『高瀬舟』を読んで、
「喜助は偉いな。わずかの銭を得て喜んでいる。昔から『足るを知る』といわれているように、我々も、身分相応に満足するよう、欲を抑えなければならない」
と言う人があります。
罪人の喜助は、借金生活から抜け出したばかりなので、わずかな金額を得ても、喜びを感じました。
しかし、その喜びは、いつまで続くでしょうか。次第に当たり前になり、不満が出てくるようになるのです。
役人の庄兵衛のように、家を持ち、家族が増え、環境が変わっていくと、給料が高くても満足できなくなります。
さらに、庄兵衛は、
「もし、突然、仕事を解雇されたら」
「もし、大きな病気になったら」
という不安と恐れが、常に、心の奥底にあることに気づきました。
このことを、『歎異抄』には、
「火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなし」
と書かれています。
「火宅」とは、火のついた家。
「無常」とは、続かないことです。
この世は、「火宅」だと教えられています。私たちは、火がついた家の中にいるのと同じなのです。炎が広がり、火災報知器が鳴っている所で、何をしようとしても、不安ばかりで、喜べるはずがありません。
すべて無常です。たとえ家族や財産、名誉や地位を手に入れて幸せになっても、その喜びは、長続きしないものばかりだと、仏教では教えられているのです。
「では、そんな火宅のような世界に住んでいる、欲の塊の私たちは、どうすれば幸せになれるのでしょうか」
と尋ねると、親鸞聖人は、こうおっしゃると思います。
「私は、その答えを見つけるために、9歳から29歳まで、比叡山で修行をしたのです。『欲』などの煩悩(ぼんのう)と格闘しました。
ところが、どれだけ修行に打ち込んでも、煩悩をなくすことも、減らすこともできませんでした。私のような者は、このままでは救われないと知らされ、山を下りたのです。
そして、『どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に』と誓われた阿弥陀仏の本願を、法然上人から聞かせていただき、大安心、大満足の幸せに救われました。
欲などの煩悩の塊である私たちが、ありのままの姿で救われる道は、『弥陀の本願』しかないのです」
親鸞聖人は、弥陀の広大な恩徳に感泣し、今ハッキリする「弥陀の救い」を生涯かけて伝えていかれたのです。
(原文)
弥陀の本願には老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人をえらばず、ただ信心を要(よう)とすと知るべし。
(意訳)
弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切の差別はない。ただ信心を肝要と知らねばならぬ。
(意訳は、高森顕徹著『歎異抄をひらく』より)
「苦しい。死にたい」と言う人に、どう向き合うのか
森鴎外は、『高瀬舟』の後半で、さらに大きな問題を提示しています。
役人の庄兵衛は、舟の中で、罪人の喜助の話を聞くうちに、自分の生き方を見つめ直していました。大切なことを気づかせてくれたという思いからでしょうか、彼の顔を見守りながら「喜助さん」と呼びかけたのです。
「さん」と言ってから、庄兵衛は不適切だったと思いましたが、口に出した言葉を取り消すことはできません。
「はい」と答えた喜助も、不審に思ったらしく、恐る恐る庄兵衛の顔色をうかがっています。
庄兵衛は、率直に尋ねました。
「おまえが、今回、遠島の刑を受けたのは、人を殺めたからだと聞いている。そのわけを話してくれぬか」
喜助は、「かしこまりました」と言って、小声で次のように話し始めました。
* *
とんだ心得違いで恐ろしいことをしてしまいました。どうしてあんなことができたのか、自分でも不思議でなりません。
私は、幼い時に両親を病気で亡くしました。弟と二人だけが残ったのです。
大人になっても、私たち兄弟は一緒に助け合って暮らしていました。
そのうちに弟が病気で働けなくなったのです。
私が仕事を終えて、夕方に、食べ物を買って帰ると、いつも弟は、「兄貴一人に働かせてすまない、すまない」と言っていました。
ある日、いつものように帰ってくると、弟は布団の上に突っ伏していました。周囲が血だらけになっています。私は、びっくりして、買ってきた食べ物を放り出して、弟のそばへ寄りました。
弟は、「すまない。どうせ治らない病気だから、早く死んで兄貴に楽をさせたいと思ったのだ。カミソリで喉を切ったが、うまくいかなかった。どうか手を貸してほしい」と言うではありませんか。
私は、何か言おうと思っても声が出ません。やっとの思いで、「待っててくれ、医者を呼んでくるから」と言いました。
すると弟は、恨めしそうな目つきで、「医者が何になる。ああ苦しい。早く殺してくれ、頼む」と言うのです。
私は途方に暮れて、ただ弟の顔ばかり見ていました。
弟の目は、「早くしろ、早くしろ」と言うように、恨めしそうに私を見ています。私の頭の中は、車の輪のようにぐるぐると回るばかりですが、弟の目は、恐ろしい催促をやめません。だんだん険しくなって、とうとう敵の顔をにらむような憎々しい目になってしまいました。
それを見て、私はとうとう、弟の希望どおりにしてやらなくてはならないと思ったのです……。
* *
小説『高瀬舟』は、喜助の告白を詳しく記したうえで、次のように締めくくっています。
庄兵衛はその場の様子を目のあたり見るような思いをして聞いていたが、これが果して弟殺しと云うものだろうか、人殺しと云うものだろうかと云う疑が、話を半分聞いた時から起って来て、聞いてしまっても、その疑を解くことが出来なかった。(中略)
庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった。
次第に更けて行く朧夜(おぼろよ)に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべって行った。
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森鴎外は、
「死にたいと言って苦しんでいる人に、どう向き合えばいいのか」
という、非常に重い問いを投げかけています。
この問題の大前提を、鴎外は、
「人を死なせて遣(や)れば、即ち殺すと云うことになる。どんな場合にも人を殺してはならない」
と『高瀬舟縁起』に書いています。そのうえで、自らの迷いを、次のように述べています。
ここに病人があって死に瀕して苦んでいる。それを救う手段は全くない。傍(そば)からその苦むのを見ている人はどう思うであろうか。(中略)どうせ死ななくてはならぬものなら、あの苦みを長くさせて置かずに、早く死なせて遣りたいと云う情は必ず起る。ここに麻酔薬を与えて好いか悪いかと云う疑が生ずるのである。その薬は致死量でないにしても、薬を与えれば、多少死期を早くするかも知れない。それゆえ遣らずに置いて苦ませていなくてはならない。従来の道徳は苦ませて置けと命じている。しかし医学社会には、これを非とする論がある。即ち死に瀕して苦むものがあったら、楽に死なせて、その苦を救って遣るが好いと云うのである。これをユウタナジイという。楽に死なせると云う意味である。
(※ユウタナジイ……フランス語で安楽死という意味)
鴎外が書いているように、この問題は「道徳」では解決しません。
「どんなに苦しくても生きなさい。命は尊いのだから一日でも、一時間でも、一分でも長く生きなさい」と言っても、「そこまでして、なぜ、生きるのか?」と問われたら、答えられなくなってしまうからです。
そもそも「死」の恐ろしさは、どこにあるのか
私たちに、まず大切なことは、「なぜ、人の命は尊いのか」「延びた命で何をするのか」という根本的な問題に、一人一人が真っ正面から向かい、ハッキリとした答えを見つけることです。
鴎外は、医学の世界には、安楽死を推奨する考えもあると書いています。
では、薬の力で肉体の苦痛さえ除けば、「死」に対する苦しみはなくなるのでしょうか。誰でも死にたくはありません。
「死」ほど、怖いものはありません。
そもそも「死」の恐ろしさは、どこにあるのでしょうか。
元気な時には、
「死んだ後なんかないよ」
「土にかえるだけだろう」
と気楽に言っている人でも、いざ重い病気になり、死に直面すると、巨大な壁に激突したような衝撃を受けます。
突然、「自分は、死んだらどうなるのか」が大問題となり、心が真っ暗になるのです。この心の苦しみは、肉体の苦痛とは、比べものにならない大きさです。
しかも、医学でも、道徳でも、家族の愛情でも解決することはできません。
そんな大問題を解決するのが仏教の目的なのです。
阿弥陀仏は、
「死んだらどうなるか分からない心を解決し、〝極楽浄土(ごくらくじょうど)へ必ず往ける〟大安心・大満足の身にしてみせる」
と誓っておられます。
『歎異抄』には、仏教を聞きたくて、関東から京都の親鸞聖人を訪ねて旅をした㆟たちの様子が書かれています。
当時、関東と京都の往復は歩いて60日もかかったといいます。道中には難所が多く、盗賊に命を狙われる危険もありました。そこまでして、なぜ、仏教を聞くために旅をしたのでしょうか。
親鸞聖人は、彼らと対面されるや、
「聞きたいことは、往生極楽(おうじょうごくらく)の道、ただ一つであろう」
と言い切っておられます。
親鸞聖人が、常に説かれていたことは、「往生極楽の道」以外になかったのです。
では、どうすれば、死んだ後の行き先が極楽浄土とハッキリするのでしょうか。その道のりを明らかにしたのが『歎異抄』なのです。
(原文)
おのおの十余カ国の境を越えて、身命を顧みずして尋ね来らしめたもう御志、ひとえに往生極楽の道を問いきかんがためなり。
(意訳)
みなさんが、遠い関東から命がけで親鸞をたずねて来られたのは、往生極楽の道、ただ一つを問いただすためであろう。