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歎異抄の旅(16)「死んだらどうなるのか?」源氏の武将・熊谷直実の悩みの答えは、『歎異抄』にあった

『平家物語』に登場する有名な武将の中には、世の無常を感じて、法然上人(ほうねんしょうにん)のお弟子になった人が何人もいます。その中でも、特にユニークな人物が、熊谷直実(くまがいなおざね)です。
 源義経(みなもとのよしつね)の軍勢に加わり、平家と戦っていた荒武者が、仏教を聞くようになった心の変化をたどってみると、古典『歎異抄』のメッセージと通じるものがあります。
 熊谷直実に、大きな転機を与えたのが、一谷(いちのたに)の合戦でした。
 兵庫県神戸市の古戦場を訪ねて、直実の心の軌跡を追ってみましょう。

源氏に敗れた平家一門

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が9歳で出家された年に、平清盛(たいらのきよもり)が病で亡くなりました。それまで、都で権力を握り、栄華を極めていた平家の勢力は急速に衰えていきます。
 源氏の大軍が迫ってくると、恐れをなした平家は、自らの屋敷を焼き払い、一族そろって京都から脱出したのです。
 悲しい思いで船に乗り、九州へ逃れた平家でしたが、その後、瀬戸内海沿岸の豪族を従え、勢力を盛り返すことに成功します。
 再び京都へ入って権力を握ろうとして、一谷に10万余騎の軍勢を集結させました。現在の兵庫県神戸市須磨区の辺りです。
 ここは、山と海に挟まれた細長い海岸です。背後の山は切り立っているので、敵が攻めてくる心配はありません。海岸の西と東の入り口を守れば、堅固な要塞を築くことができます。
 一谷には、平家の目印である赤旗が、風に吹かれて無数にひるがえり、まるで赤い炎が勢いよく燃え上がっているようだったと『平家物語』は記しています。
 これに対し、源氏の軍勢は二手に分かれて京都を出発しました。
 源範頼(みなもとののりより)が率いる本隊は5万騎で海沿いを進み、東側から一谷を攻めます。
 別動隊の源義経は、1万騎を率いて西側から一谷を攻撃する計画です。熊谷直実は、源氏の武将として義経の軍に加わっていました。
 寿永3年(1184)2月7日。早朝から、激しい戦闘が始まりました。
 しかし、源氏は平家を破ることができません。戦いの流れを一気に変えたのが、源義経の奇襲戦法でした。背後の険しい山から馬で急斜面を駆け下りて、次々と平家の陣営に火を放ったのです。これが、世にいう「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」です。

源氏軍は、一谷の西と東から攻め込んだ

 全く予想もしていなかった方角から源氏が攻めてきたので、平家は大混乱。慌てて、海へ向かって逃げていきます。
 一艘の船に、重い鎧を着た武者が400人以上も駆け込んだのですから、たまったものではありません。岸を離れると、すぐに沈没してしまった大船が、3艘もあったといいます。
 悲劇は、それだけではありませんでした。先に船に乗った者たちは、
「身分の高い人を乗せてもいいが、雑兵どもは乗せるな」
と言って、船に取りすがる人たちの手を、太刀や長刀で、次々に斬り払ったのです。
 仲間が斬られていく光景を見ながらも、平家の武者たちは、「助けてくれ」「俺だ、乗せてくれ」と叫んで、船に取りつき、手を伸ばしてきます。情け容赦なく、ある者は腕を斬られ、ある者はひじを斬られ、海へ沈んでいくのでした。

「われこそは、日本一の剛の者、
   熊谷直実なるぞ!」

 源氏の武将・熊谷直実は、どんな戦いをしていたのでしょうか。
 実は、敵陣への一番乗りを目指していたのですが、ともに戦っていた息子が負傷してしまったのです。介抱していたため、思う存分、活躍することができませんでした。
「出遅れてしまった! 何としても手柄を立てねば!」
と焦る直実。
「平家の武者は、船に乗ろうとして波打ち際へ逃げるに違いない」
と言って、海岸へ向かいます。
 すると、沖の船を目指して馬を泳がせている武将を見つけたのです。兜や鎧、立派な馬を見ても、身分の高い武将に違いありません。
 直実は扇を上げて招きながら、大音声で叫びました。
「そこに行くは平家の大将と見受けたり。敵に後ろを見せるとは、卑怯千万。返せ、返せ!」
 さらに、
「われこそは、日本一の剛の者、熊谷直実なるぞ。いざ、尋常に勝負せよ」
と名乗りを上げたのです。

平敦盛を呼び戻す熊谷直実の場面を表すモニュメント(兵庫県神戸市・須磨寺)

 波間かなたの武将は、
「おうっ」
と答え、引き返してきます。
 双方、だっと馬を進めて、駆け寄りざまに斬り合います。
 しかし、力の差がありすぎました。平家の武将は、たちまち刀を払い落とされ、直実に組み伏せられてしまったのです。
 合戦のならわしに従い、敵の首を斬ろうとした瞬間、直実の手がピタリと止まりました。兜の中は、荒武者ではなく、薄化粧をした若者だったからです。
 年は16か17歳ほどに見えます。負傷したわが子と同じ年頃でした。
「この子にも、親があるだろうに……」
 こう思った時、直実の心は、もろくも崩れていました。
「俺の名を聞けば逃げ出す者ばかりなのに、そなたは、恐れずに馬を返した。あっぱれだ。名は何と申す」
 若者は名乗りません。
「さあ、早く討て。戦で死ぬは武士の本望。この首を味方に見せて聞くがよい」
と言い切ります。
 直実は、考え込んでしまいました。
「ああ、立派な武将だ。この若者一人を討ったところで、戦の勝敗は変わらない。源氏はすでに勝ったのだ。助ける方法はないだろうか……」
 その時、後方から源氏の軍勢が50騎ほど、こちらへ向かってくるのが見えました。
 直実は、涙をこらえて言いました。
「助けたいのはやまやまだが、決して、逃げることはできないだろう。他の者に討たれるくらいならば、この直実の手にかけて、後の供養をいたそう」
 直実は、若者があまりにもかわいそうで、どこに刀を刺してよいかも分からず、目の前が真っ暗になりました。しかし、泣く泣く首を討ったのです。
 倒れた若者の腰には、錦の袋に入った笛が差されていました。
「味方に東国の軍勢が何万人もいるが、戦場に笛を持ってきた者はいないだろう。なんと心優しい武将だろうか……」
 深い因縁を感じた直実は、遺品として笛を預かることにしました。

 直実が、味方の陣に帰ってから、この若者の素性を尋ねると、平経盛(たいらのつねもり・清盛の弟)の子で、名は敦盛(あつもり)、17歳だったと分かりました。
 源義経は、
「今日の戦いの中で、抜群の功名である。後に恩賞をとらすであろう」
と直実の働きを称賛したといいます。

義経が、敦盛の首実検をした時に腰掛けていたという松(須磨寺)

 しかし、直実は、がっくりと膝をつき、こう述懐するのでした。
「釈迦(しゃか)は、『諸行無常(しょぎょうむじょう)』と教えられたと聞くが、まことに、すべてのものは無常だ。どんなに威勢のよい者にも、必ず衰える時が来る。
 今、平家が没落していくように、源氏もいつまで続くことか……。いや、人ごとではない。わが身の命は、どうなのだ。明日まで生きておれる保証は、どこにもないではないか。
 いくら戦とはいえ、俺は殺生の限りを尽くしてきた。恐ろしい罪悪を重ねてしまった。こんな俺は、死んだら、どうなるのだろう……」

 この時から、熊谷直実は、出家して仏教を聞き求めたいという気持ちが強くなったのでした。

源氏と平家、激戦の地
須磨浦公園へ

 熊谷直実が平敦盛を討った場所は、神戸市須磨区一ノ谷町の辺りです。合戦の跡地は、現在、須磨浦公園になっています。訪ねてみましょう。
 東京から新幹線に乗って、新神戸へ向かいます。のぞみ号で約2時間40分で着きました。
 新神戸から、市営地下鉄に乗り換え、板宿へ。
 さらに山陽電車に乗り換え、須磨浦公園駅で降りると、目の前に海が広がっていました。しかし、駅から浜辺は見えません。砂浜があるのかどうかも分かりません。海岸線ギリギリまで国道と鉄道が並行して走っているのです。

山陽電車の須磨浦公園駅
駅前には国道とJRの線路

 駅の裏手には、高い山がそびえています。確かに、こんな山の上から、源氏が馬で駆け下りてくるとは、平家の誰も予想できなかったと思います。
 駅前の公園を東へ進むと、松林の中に、
「源平史蹟 戦の浜」
と刻まれた石碑が建っていました。

須磨浦公園の「戦の浜」碑

 そばには、次のような解説が記されていました。

「一の谷」は、鉄枴山(てっかいさん)と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、この公園の東の境界にあたる。
 一一八四年(寿永三年)二月七日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を二百メートルあまりさかのぼると二つに分かれ、東の一の谷本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。
 一の谷から西一帯の海岸は、「戦の浜」といわれ、毎年二月七日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦のなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる。

須磨浦通六丁目自治会

すべての人が、
  平等に救われる教え

 一谷で、17歳の平敦盛を討った熊谷直実は、その後、どうなったのでしょうか。
 直実は、「死んだらどうなるのか」と思うと、真っ暗になる心に驚きました。何としても、この不安な心を解決したいと願ったのです。
 ある人から、「法然上人の教えを聞きなさい」と勧められた直実は、京都の吉水草庵(よしみずそうあん)へ向かいます。
 法然上人は、多くの参詣者を前に、次のように説いておられました。

「釈迦が、この世に、お出ましになったのは、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願一つを、説かんがためでありました。この法然も、弥陀(みだ)の本願によって、救われたのです。私一人を助けんがための、阿弥陀仏のご念力が、届いた一念に、法然の暗黒の魂が、光明輝く心に救いとられたのです。
 その不思議、その驚き、尊さは、心も、言葉も絶え果てて、ただ、泣くだけでした。まことに、皆の人、一日も早く、阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。いかなる知者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、救われるのです。よくよく聞いてください……。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 後生暗い心に悩む直実は、法然上人の前へ出ました。
「多くの人を殺した私に、救われる道がありましょうか」
「阿弥陀仏の本願は、そんな悪人のために建てられたのです。一心に弥陀の本願を聞きなさい。善人でさえ救われるのです。悪人が救われないはずがありません」
 その時、筋骨たくましい直実が、赤子のように泣き崩れたのでした。
「八つ裂きにされても、私ごとき者が助かる術はなかろうと覚悟してきましたのに……。こんな者を救ってくださる阿弥陀仏の本願があったとは……」
 熊谷直実は、法然上人のお弟子となり、「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と法名を賜ったのです。「蓮生房(れんしょうぼう)」とも呼ばれています。
 かつて、「日本一の剛の者」と名乗った口からは、念仏の声が絶え間なくあふれていました。

赤ん坊が、松の木の根元に
    一体、誰の子なのか

「直実入道蓮生一代事跡(なおざねにゅうどうれんせいいちだいじせき)」には、次のようなエピソードが記されています。

 法然上人が、比叡山(ひえいざん)への登り口の近くにある一乗寺村(いちじょうじむら)を通られた時のことです。
 下り松の周りに、多くの人が集まっていました。
 松の木の根元に、赤ん坊が捨てられていたのです。しかも、美しい小袖に包まれているので、身分の高い人の子であることが分かります。
 この頃は、合戦に勝利した源氏が、平家の残党狩りを厳しく行っていました。子供であっても、容赦なく捕らえられ、処刑されていたのです。
 もし、目の前で泣いている赤ん坊が、平家の血筋の子であったなら、どんな災難に巻き込まれるかしれません。
 人々は、「かわいそうに……」と言って涙を流しても、赤ん坊の命を救おうとはしませんでした。
 その場を通りかかられた法然上人は、次のようにおっしゃいました。
「私たちが今、人間界に生まれることができたのは、とても有り難いことなのです。お釈迦さまは、三千年に一度しか咲かない優曇華(うどんげ)の花が咲くよりも、人間界に生を受けるのは、めったにないことだと教えられているのですよ。おめでたいことなのです。だから、どんな迫害を受けようと、この子を見捨てて通ることができません。このままでは死んでしまうではありませんか。よしよし、私に任せなさい」
 法然上人は、赤ん坊を抱きかかえて、吉水草庵へ連れていかれたのでした。
 そして、乳母を探して子供の養育を頼まれたのです。
 この子は、名前も分かりません。
「母から放たれた童」という意味で、皆から「放童丸(ほうどうまる)」と呼ばれるようになりました。
 放童丸は、すくすくと育ち、7歳の春を迎えました。
 乳母が、放童丸に美しい桜を見せてやりたいと思って、清水寺へ花見に連れていった時のことです。そこは家族連れでにぎわっていました。放童丸は、自分と同じ年頃の子供が、皆、父と母に手を引かれ、笑いながら歩いているのを見て、だんだん元気がなくなっていきました。

イラスト・黒澤葵

 もう桜を楽しむ心は起こりません。
「どうして、僕には、お父さんも、お母さんもいないの……」
と泣き出してしまったのです。
 放童丸は、吉水に帰ると法然上人の前にやってきて、
「僕の、お父さん、お母さんは、どこにいるの」
と、涙を流しながら尋ねます。
 法然上人は、いつまでも隠してはおけないと思われ、真相を告げる決心をされました。
 おまえは赤ん坊の時に松の木の根元で一人で泣いていたこと、両親の手掛かりは全くないこと、それでも吉水の皆が大事に育ててきたことを優しく話されたのです。
 しかし、放童丸の受けたショックは、予想以上に大きなものでした。
 その日から、食事ものどを通らず、寝込んでしまったのです。体は次第に、やせ細っていきます。どんな薬も効果がありませんでした。
 法然上人は、乳母を呼んで尋ねられました。
「放童丸は、皆に大事にされているようだが、その中でも、わが子のようにかわいがっている人はいなかったかな」
「はい、おります。法然上人のご説法の時に、いつも参詣している20代の女性です。放童丸も、まるで母親のように、その人になついていました。ただ、最近は、ご法話がなかったので姿を見ていません。どこに住んでいる人かも分かりませんので、訪ねていくこともできないのです」
 そこで、法然上人は、吉水でのご説法の最後に、
「放童丸が、父母恋しさのあまり病気になり、明日をも知れぬ命になっています。皆さんの中に、あの子の親を知っている人はありませんか……」
と呼びかけられましたが、何の手掛かりも得られませんでした。
 ところが、参詣者が帰ったあと、本堂に一人の女性が残っていたのです。
「私が、その子の母でございます。子を捨てたその日から、法然上人に拾い上げられたことを知り、陰ながらありがたく拝んでおりました。私は、平家に連なる身ゆえ、名乗ることができなかったのです……」
と泣きながら申し出ました。
 病床に案内された母は、やつれたわが子の姿に、胸が締めつけられる思いでした。涙をこらえて、優しく、
「放童丸よ、私が母ですよ。何を嘆いているのです」
と、頭をなでていたわります。
 放童丸は、枕から重い頭を上げて、
「ああ、会いたかった……。どうして、この頃は姿を見せてくださらなかったのですか。本当の母ならば、どうして、もっと早く言ってくださらなかったのですか。実の母とも知らず、これまで過ごしてきたことが、悔しくて、悔しくてなりません……」
と泣きながら、母の膝にすがりつくのでした。
 放童丸は、母の顔を見つめて、涙に暮れています。母は、かける言葉もなく、ただ、ぎゅっと、わが子を抱きしめるしかありませんでした。
 涙ながらに、母は言います。
「今日まで、母であることを告げられなかったのには、深い訳があるのですよ。父も母も、世の中から捨てられ、隠れて生きるしかなかったのです。愛しいたった一人の子を、育てることができなくなったので、断腸の思いで、おまえを捨てたのです。許しておくれ。今日からは、母がそばにいるからね……」
 放童丸は、さもうれしそうに、
「では、お父様は、どこにおられるのですか」
と聞いてきます。
 母の目には、再び涙があふれ、
「この世には、もうおられません……。父の名は、平敦盛。一谷の合戦で、熊谷直実に討たれたのです」
と明かしたのです。
 それでも母に会えたことで、放童丸は、日ごとに元気を取り戻していきました。

 ある日、蓮生房と生まれ変わった熊谷直実は、法然上人に、
「放童丸を、とてもかわいがっておられますが、どなたの子ですか」
とお尋ねしました。
 すると法然上人は、にっこりほほえまれて、
「おまえに深い関係のある人だよ」
「もしや……」
「そうだ。あの子の父は、平敦盛殿だよ。放童丸と、その母親が、明日の法話に参詣するから、会わせてやろう」
 蓮生房は、言葉を失いました。
「実は、敦盛殿が肌身離さずに持っておられた形見の品を、私は預かっているのです。いつか身内の方にお渡ししたいと思って、探していたのです。まさか、こんな近くに……」
 法然上人から、これまでの経緯を詳しくお聞きした蓮生房は、一谷で敦盛を討った時のことを思い出し、声をあげて泣き出してしまいました。

 次の日、蓮生房は、法然上人の部屋に呼ばれました。
 そこで初めて、敦盛の妻と対面したのです。蓮生房は、自分が、かつての熊谷直実であることを告げ、戦場から持ち帰った敦盛の形見の品を渡したのでした。
 まさに見覚えのある懐かしい品でした。夫の姿がまぶたに浮かんできて、悲しさと恨みが同時に込み上げてきます。
 放童丸も、この人が父の敵か、という目で見つめていました。
 法然上人は、親子に向かって、次のように諭されました。

「決して蓮生房を、親の敵、夫の敵と恨んではなりませんよ。たとえ直実が敦盛殿を討たなくても、平家の人々は、遅かれ早かれ、海の底に沈んだでしょう。直実であったからこそ、今、こうして形見の品を届けてくれたのです。
 先に亡くなった敦盛殿が、残された2人に望んでいるのは何でしょうか。幸せに生きてほしい、これ一つのはずです。それは、かつての平家一門のように華やかに暮らすことではないぞ、そんな幸せは続かないぞ、いつ死が襲ってくるか分からないぞ、と身をもって教えていってくれたのが敦盛殿ではありませんか。
 そなたたちは今、弥陀の本願にあうことができたのだ。仏法を聞き求め、この世も、未来も、永遠に救われる真実信心を獲得(ぎゃくとく)してこそ、敦盛殿が最も喜ばれるのではないかな」
 母と子の心から、恨みの炎が消えていきました。そして、法然上人のご法話がある時は、必ず親子で参詣し、喜びあふれる生活を送るようになったのです。

 その後、蓮生房は、敦盛の命日である2月7日に、放童丸とその母を連れて、一谷の合戦の跡地を訪れたと伝えられています。
 勇敢に戦った敦盛がいたからこそ、3人とも、浄土仏教を聞くご縁に恵まれたのです。その感謝の心を伝える旅だったに違いありません。
 弥陀の本願の前には、源氏も平家も、敵も味方もありません。恩讐を超えて、平等に救われるのです。

(原文)
 弥陀の本願には老少善悪(ろうしょうぜんあく)の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。
 そのゆえは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)を助けんがための願にてまします。

『歎異抄』第一章

(意訳)
 弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ「仏願(ぶつがん)に疑心(ぎしん)あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
 なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。

(意訳は 高森顕徹著『歎異抄をひらく』より)

敦盛と直実が戦った須磨の海岸。JR須磨駅の南口側に広がる砂浜から、一谷の方面を望む

※仏願……阿弥陀仏の誓願(約束)。本願ともいわれる。
※肝要……唯一大事なこと。
※煩悩……欲や怒り、ねたみそねみなど、私たちを煩わせ悩ませるもの。
※真骨頂……真価。本来の姿。

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