いつか、ひとくちでたらこを
ひとは自らが置かれた独特な文化、環境、家庭、人間関係のなかで偶々自明のこととされているような、ちょっとした慣例や習慣が、多くの知人友人、場合によっては外国の人々にもその小さな手癖のようなものをまっとうであって、かくありなん、当然ですよね、つまり暗黙に了解するコモンセンスだとあまりにも安易に思いがちだが、実際に人が最大公約数的に共有できている価値観なんてものは、せいぜい愛、または平和くらいで、それらだって実際はギリギリアウトだからユートピアは実現しないし、さまざまな美しい物語が美しくたりえるのであって、もとい、この小さな手癖のような独特の慣習が、まるで味噌汁の中の味噌の粒子のように、あなたを取り囲む世界で朝も昼もうごめいているということ、このダイバーシティがダイバーシティを乗算しつづけるような現代において、各個人が2週間に1回くらいの頻度で肝に命ずるべきであって、そのくらいの覚悟で来るべき明日や戻らない昨日に拘泥せず、いまこのとき、いま目の前にある真っ赤なたらこについて、またはいま目の前にあるまっ白いTシャツについた一片の染みをどうするか、そこにあなたのなけなしの集中力を注いでみてはいかがだろうか、と不眠気味の数日を経てすっかり乾いて充血した目をこすりながら、思い出すのは、もうかれこれ30年くらい前のこと。
わたしは実家を出て隣町で下宿生活をはじめた高校時代、昼休み、クラスメイトの上田が弁当に入っていたタラコの大きい塊をひと口でぽいっとたべたその瞬間、開いた口もそのままに、唖然とし、自らの無知を知り、あいまいなコモンセンスの危うさを知り、しばし黙し愕然とした。わたしはせせこましい我が家の常識、「タラコはとってもしょっぱいので、一切れをちびりちびり齧りながら茶碗一杯のごはんをゆっくり平らげる」という常識を全世界共通の慣例であると考えていた、わたしは井の中の蛙の中のミジンコの中の細胞の中のデオキシリボ核酸のようなものであったのだ。デオキシリボ核酸であってましたっけ。ドコサヘキサ塩酸ってなんでしたっけ。わたしは凡庸な高校時代のある昼休みに、目が眩むような啓示を受けたのである。
そんなあたりまえのことを、わたしは今でも、今だからこそ、本当に3週間に1度程度の頻度で、上田とたらこのエピソードに思いを馳せ、肝に命じなければならない。こんなに大事なことを、すぐに忘れてしまうのだ。
上田とは卒業後一回くらいは会ったかもしれない。単純に偏差値都合でなんとなく野望もなく中京地区の大学に進学し、今は連絡先も知らない上田のことを、こうしてわたしはしばしば思い出す。初めて麻雀やったのは両親(どちらも教師でとても厳格に育てられ、テレビも見せてもらえないのでまったく世間知らずなデクノボウが育った。とても線が細くてなにをやっても中庸で、しかしどこかに変なボタンの掛け違いがあるような)が旅行かなにかで不在の上田の家だった。
わたしはいま目の前にあるたらこを、先の年末年始に5年ぶりくらいに実家の北海道に帰って、そのときの土産で買ってきた高級なたらこを凍ったまま冷凍庫に戻した。たらこが大好きだったあのひとに会うことは二度となさそうな気がしているから、これは自分への土産にしてしまって、たらこスパゲッティソースにでもしてやろうかとおもっていたのだった。だめだ、それはとても面倒くさい。トリガーだ。冷凍庫開くたびに、わたしはこれから上田とたらこと、このクソみたいな世界を生きるヒントを思い出すのだ。
上田はいったいどんなきっかけでわたしのことを思い出すのだろうか。