夜に降る雨
結婚は今より幸せになるためにするのではない。今より不幸にならないためにするんだ。
この文章を本で読んだときピンとこなかった。けれど、今ならわかる気がする。結婚して娘が生まれた今なら、「ああ、そうかもね」と静かに手を叩けるのかもしれなかった。
窓の外には手のひらで撫でたくなるような闇が広がっていて、空気はほんのりと湿り気を帯びていた。あえて時計は見ないけど、夜明けまでまだずいぶん時間があるなってわかる。
「さてと」
台所のテーブルの上に広げたこの紙に『夜明け前の空に雨が降っている』と書くと、待ってましたとばかり。降りしきる雨が「結婚とはこういうものだ」と僕にささやきかける。
「どんなものさ」
僕は聞く。
夜に降る雨は「誰にも言うなよ」と、唇に指を一本立てて答えてくれた。
「つまりはさ、あんたはいつでも幸せになっていいってことさ」
「それと結婚がどう関係あるの?」
夜に降る雨は一瞬ピクッと眉を寄せると、ガハハと笑いだす。
「それと結婚がどう関係あるの?」
僕の声真似をして、お腹を抱えて笑った。
「僕は真剣なんだ。なんならうちの奥さんと3歳の娘を起こしてやろうか? うちの奥さんは「あら、雨。やーね」って布団乾燥機を出してくるぞ。娘はクレヨンでおまえをピンクに変えちゃうぞ」
「悪かったよ」
夜に降る雨はさほど悪いとも思ってなさそうに言った。
「めんごめんご」
「で、結婚ってどういうものなの」
「結婚が人を幸せにしてくれるんじゃない。安心できる居場所があるから、自分のやりたいことで幸せをつかめるんだ。自分以外の何かや誰かに幸せにしてもらおうなんてナンセンスナンセンス」
僕はもうひとつよくわからないなあと思いながら聞いてみた。
「結婚って不幸にならないためにするの?」
「何かあったら助けてあげる。何かなくても一緒にいてくれる。そんな言葉にもしないような安らぎが人をどれだけ救うか考えてごらんよ。ほら、元気が出てきた。わかったら、さっさと幸せになるんだよ。逃げずにね」
僕は『夜に降る雨はそう言った』と紙に書き、目を上げた。
ひとつ屋根の下で僕らは暮らしてる。まだ暗い寝室で3歳の娘はタオルケットを蹴飛ばし、奥さんが研いだお米が台所のすみで朝を心待ちにし、僕はこの文章を書いていた。
夜の雨は降り続け、あと数時間もすれば僕の記憶の中から蒸発してしまうだろう。人知れず世界の埃を洗い、大地を潤し、僕らの朝に「雨、降ったんだね」とささやかな話題を提供する夜の雨。
結婚の良さって、夜に降る雨に似てるかもしれない。
わざわざ人に話さないところが特に。