ネットワークの無心と有心
ウィリアム・ブレイクの詩には、無心と有心のバリエーションがある。経験の有無でもあるし、楽園で禁断の果実をかじる前と後とも受け取れる。
さて「クーロン」の話だが、陰界に張り巡らされたネットワークをクーロネットという。「ゲート」ではスチームパンク的な郵便ポスト然としたクーロネット端末にIDカードを差し込んで「電子郵件」を受信するなどしていた(ゲーム的にはセーブ、ロードの機能もあった)──
ただしこれは、インターネット元年と称される1995年より前、1994年頃の設定のため、ブレイクになぞらえるならば「ネットワーク無心」な環境下での設定だった。
そのせいか、クーロネット端末はまるでマルチメディア端末(今ならコンビニに置いてある)の体裁だ。バナーボタンをタップして機能を開始するという──
クーロネットの設定から28年後の現在、ネットワークの存在はすっかり日常に溶け込み、「ネットワーク有心」の時代となった。
「有心時代」だからこそ、ネット上には悪意を帯びた思念が巡るという発想は比較的すんなりと生まれた。
悪意を広く解釈して「ダークなものすべて」がネット上を激しく流通しているわけだ。悪意の思念というのは大きくて重い。ダークなものもまたしかり。そしてネットワークはどこまでも深く錯綜するという妄想から、地下茎を意味する「リゾーム」という世界観設定がまとまった。
そもそも陰界の九龍城自体が、こうしたネットワークの中から凝集して誕生した──この設定自体は28年前から存在していたのだが、なにせ「無心時代」であったために深く突っ込むことは叶わなかった。
「有心時代」の今、ネットワーク上の流言飛語、SNSで沸き立つ誹謗中傷──ネットワークは悪意を引き寄せることに貪欲だ。まるで裏側世界を覗くようなネットロアやミーム案件……と「有心事案」を挙げ始めるとキリがない。
そうしたネットワークには、当然、カオスを希求する悪魔の恣意が及んでくる。
カオス(混沌)とコスモス(秩序)、そのせめぎ合うフロントエンドが陰界の九龍城というわけだ。
錯綜するネットワークの名称を標題とした「リゾーム」では、生体通信のアップグレード版、脳機通訊(のうきつうじん)というプロトコルを設定した。脳機通訊を経由して時空を超えた思念とも対峙することになる。
ゲーム中盤、暗い情念を帯びたナチスドイツの秘密結社構成員らの思念が楽園神話(地下世界アガルタ)を信じ切って干渉してくるエピソードもある。
だがしかし──彼らが信じている楽園というのは、実は悪魔にとってのカオス世界のことなのである。
悪魔は人を唆し、各人に身勝手に振る舞うように仕向ける存在だ。
皆が身勝手に振る舞うことですぐに利害が対立する。それならば殺してしまえ──『ニードフル・シングス』(スティーブン・キング著)に描かれたカオス世界そのままだ。
悪魔の恣意のせいでコスモス世界は弱体化してカオス世界が到来する。そんなカオス世界をあたかも楽園であるとの仮構を信じ込まされている秘密結社の連中──深く考えるまでもなくなんだか痛い存在ではある。
前作「ゲート」では風水によるコスモスの維持回復を阻害する存在(=敵)についてはどこか漠としていて希薄だった。
その「敵」をしっかり、そしてバリエーション豊かに定めることができたのも「ネットワーク有心」の時代の賜物であると得心している。