カオスの25年
過去25年を振り返り、あらためて「クーロン」とは何であったかを考えるに、それは一本の鍵であったと言えそうだ。
鍵とはユーザーの心の引き出しを開ける鍵である。その引き出しには「カオス」がたくさん詰まっていた──
ゲームリリースから半年ほど過ぎた頃、一通のファンレターを頂いた。航空会社でグランドスタッフをしている人からで、レコード店でクーロンを見つけてハードごと購入したという。5日間かけてクリアして手紙をしたためたと記されていた。
その人は、日々の業務で、冷蔵庫を担いでチェックインしようとするベトナム人やマレー語をまったく理解しないマレーシア人などと向き合っているという。おそらく「カオスの引き出し」が満杯になっていたのだろう。クーロンはその引き出しを音もなく開けたわけだ。
一般にゲームをプレイするには引き出しは必要だ。これはゲームがインタラクティブなメディアだからで、ゲームとユーザーとの間に「与える、奪う」という関係が成立する。そしてユーザーから「奪う」ものが引き出しの中に入っているという案配だ。
サッカーゲームをするユーザーはサッカーの引き出しを持つ。同じく野球ゲームもしかり。鉄道運転シミュレーターも「鉄分多めな引き出し」のあるユーザーのほうが夢中になれるだろう。
しかしこうした引き出しには鍵はかけない。ところがカオスの詰まった引き出しには鍵をかけるのだ。そして中身を示すラベルは貼られていない。「クーロン」はそうした引き出しの鍵を開けたようである。
25年前のリリース直後は、「クーロン」自体がカオスの権化であるかのように評価された。けれど時を経るにともない、カオス、あるいはカオス願望はユーザーの心の中にこそあって、「クーロン」はそれを表に引っ張り出しただけという体に収まっているのだ。
ある意味、それだけカオスが市民権を得たということなのかも知れない。
近代文学の頃から幻想文学のジャンルは存在したものの、カオスを志向する精神は病的な妄想であり、根拠や脈絡のないせん妄という位置づけだった。弱々しくかっこ悪いものでもあった。
ところが今やカオスは肯定的なニュアンスで用いられることが多い。
だからといって、誰もカオスの引き出しを開けっ放しにはしない。どこかに後ろめたさでもあるのだろうか、ちゃんと鍵をかけるのだ。その鍵を開けて回った──それが「クーロン」の所業であろう。
今後、必要になってくるもの──それは「第2のクーロン」ではなく「2本目の鍵」であるということだ。
「クーロン」を作るのと「鍵」を作るのとでは、力の入れどころがまったく異なる。
鍵としては、まず軸の歪みのないこと、そしてカオスの引き出しの鍵穴にきっちりと挿さること──簡単なようでいて、かなりの精度が求められる。
これはゲーム制作に置き換えると、揺るぎない設定と、その上に確立された「カオス的世界観」ということだ。その世界観の中で物語を伝えるのがシナリオの役割となる。
それにしても……クーロンの鍵職人=キースミス──なかなかいい響きではないだろうか!