冷たい君を感じていたい

応募した賞の一次選考落ちたので供養です。
改行等縦書きから直していないので、読みにくかったら申し訳ありません。


浴槽の蓋を開ければ、自由を奪われた君が無様に転がっている。

 痙攣を起こしたと見間違うほど震える手足。風呂場の電気が乱反射して、グロテスクに輝く瞳。粘着テープの奥から音が聞こえるが、それは声にならない。

 喉の奥から振り絞ったような哀れな音が、風呂場に反響して私を癒やす音になる。

 濡れ羽色の髪を掴んで引きずりあげると、その音は一層大きくなった。

 しばらくその整った顔を堪能する。君の瞳は穢れのない瞳。嫌になる程真っ直ぐ。

 手を離して君を浴槽に落とす。粘着テープの奥から、妙な音が鳴った。

 君は濡れた浴槽の中で動かない身体を必死に動かそうとしている。けれどその努力も無駄だ。君はどうしようも出来ない。

 それはまるでまな板の上の鯉。いや、それにしては暴れすぎだ。

一旦静かにしようと、君の首に手をかける。

 君は全身を使って抵抗してきた。

足や手が私の身体に当たって生命の熱さを感じる。君の振り上げた踵が浴槽に当たって陽気なリズムを奏でる。そのリズムはなんだか心地よくて、そのまま君と手を取り合って踊りたかった。

 けれどそのリズムも長く続かない。しばらくするとぐったりして動かなくなってしまった。

 首に手を当てると弱々しい脈拍が伝わってくる。

 とどめを刺さないと。

 けれど、少しだけ疲れてしまった。風呂場から出ると、この家唯一の部屋に向かう。

 棚の上に写真が飾ってあった。写真の中の人物に目も合わせず写真立てを伏せると、部屋の奥に置いたままのリュックを掴んで、紺色のソファーに倒れ込んだ。

 リュックの中から買ってきたばかりの包丁を取り出す。包装を破ろうとするが、テープの粘着が強くて開けられない。部屋の引き出しを手当たり次第開けて、カッターやハサミを探す。

 発見したそれを使って包装を解いていく。

 刃が無機質な電灯に照らされて、幻のように煌めく。

その美しい刃を右手に携えて、風呂場の前に座った。風呂場の扉を開けたままにしたので、君の居る浴槽がよく見える。

 しばらくすると、君の手が現れて、浴槽の縁を掴んだ。その指先は真っ赤になって、血管が浮き出ている。

 私は立ち上がると、君の真上に向かう。君はゆっくりと顔をこちらに向けた。

 包丁を握りしめ、君の腹部に向かって一直線に振り下ろす。

君は呻き声などあげなかった。ドラマのような捨て台詞も吐かなかった。ホラー映画のように大声をあげて這いずり回ることもしなかった。

ただ、目を大きく見開いただけだった。手足の力が抜けただけだった。

包丁を引き抜くと、血が溢れる。

それは浴槽になみなみと注がれて、君はその中に沈んでいく。

ただ、私は君がものになった瞬間を確かに見届けた。それで十分だった。

君の血が両手に絡みついてくる。蛍光灯が反射して艶めかしく煌めく。指の隙間から溢れたそれがジーンズを汚した。そのシミを目で追っているうちに、重力に誘われて風呂場の床に倒れていた。瞳を閉じれば暗闇が迎えに来る。

君は私のものになった。



君と出会ったのはたった二ヶ月前のことだった。

会社の仲間に誘われ、駅ビルのビアガーデンで食事をしている時、君と出会った。

様々な植物に囲まれた都会のオアシス。陽気な笑い声と、美味しい料理。今日は飲み放題だから、皆好き勝手にアルコールを摂取している。どちらが上でどちらが下なのか分からなくなってしまう程人が入り乱れていた。

私も楽しく飲んでいたが、急に尿意を催してトイレに向かった。

同僚にからかわれながら、その場を離れる。用を足して手洗いから出た時、隅にあるベンチに一人で座っている人物を見かけた。その人物はどこにも混ざること無く、ただこのパーティーが終わるのを待っているようだった。

仲間の元に戻る前にお気に入りのカクテルを貰おうと、小さなバーカウンターに向かった。

 カクテルの名前を伝えると、バーテンダーはすぐにカクテルを作って目の前に置いた。

礼を告げてグラスを手に取る。グラスの中の橙色の液体を見てベンチの人物の姿が心に浮かんだ。

 どうしても気になる。声をかけなければ一生後悔するような気がして堪らない。

これが運命なのだろう。

決心して、ベンチの方に戻る。

 まだ君はベンチに座っていた。そっと近づくと、君は顔を上げた。

 艶のある濡れ羽色の髪、真っ黒に透き通った瞳。その柔らかそうな皮膚は、夜の光に照らされて静かに光った。体型を隠すような薄いカーディガンに身を包んで、グラスを両手でしっかりと握りしめている。

 いつの間にか私は、君に出会えたことを神に感謝していた。

「こんにちは」

私は君に向かって微笑んだ。

「こんにちは」

君は小さな声でそう言うと、座ったまま小さく頭を下げた。

「隣、いいですか?」

「え、えぇ。大丈夫です」

君は少し横にずれて私の座るスペースを空けてくれる。君は性格も素敵だ。

 しばらく互いに何も話さなかった。君はグラスの中の氷をゆらゆら揺らしながら、何も無い空気を見つめている。このまま横顔を見つめ続けていたら、失礼になってしまうだろうか。

「今日、仕事終わりなんですか?」

君は突然話しかけられて、少し細い目を丸くした。

「あ、はい。そうです。なんか、新入社員歓迎会とかで」

君はまだ氷を揺らしている。

「そうなんですか、私もそうなんですよ」

カクテルに口をつける。

「そうなんですね。私、そういうの苦手で。ちょっと抜けて来ちゃったんです」

氷の音が止まる。君は顔を少しだけこちらに傾けた。

「私もそうなんですよ。なんか、歓迎会って面倒ですよね」

本当は歓迎会が好きだったし、仕事の仲間と飲むことも好きだった。

けれど、その事を君に伝えてしまったら、心を開いてくれないような気がした。君は、独りで寂しいのだ。同調する人間を求めているのだ。

「あ、そうなんですか! 私もです。なんか、その」

君の口元が少し緩んだ。君の言いたい事が分かる。私はそう思って欲しかったから。

 君が手に入るのなら、どんなことでもする。そう思えた。

「気が合う?」

君ははにかみながら頷く。

「はい」

君の笑顔がこぼれた時、会場いっぱいに音楽が響き渡った。

 ドラムの音を追うギターとベース。ロマンティックな歌い方をするボーカル。奥にある小さなステージで誰かが演奏している。

 君もそれが気になっているのか、ステージの方をのぞき込んでいた。

「この曲知ってますか?」

君はくるりと振り向いてそう聞いた。

「いや、CMで聴いたことあるけど」

思い出せない。君の質問に答えられないことが少し悔しかった。

「ですよね」

君はそう言うとステージの方に向き直った。

 曲は恋の始まりを歌った歌。甘い言葉でとろけるような歌詞。喉までその甘さに支配されてしまう。題名やバンド名は思い出せないけれど、街中で流れる度に良い曲だと思っていた。君もこの曲を気に入ったのだろうか。少し頭を傾けて音楽に聴き入っていた。

私は今この甘い出会いとこの甘い曲を重ねて聴いている。もしかしたら君も同じように。淡い期待が胸をよぎる。

一曲終わって拍手がまだらに聞こえた。君も拍手している。その横顔に光が当たって輝いている。

「すみません。私、音楽には疎くて」

君は困ったように笑みを浮かべた。

「私も分からなくて申し訳ないです。演奏していた人も本人なんですかね」

「どうなんでしょうね。そんな有名な人達、こんな所に来るんですかね」

ポスターか何かに出演者の名前でも書いていないかと思って、辺りを見回す。

「あの、そのお酒、何のお酒なんですか?」

ポスターを見つけないうちに君がそう言う。君は私の持っているグラスを見つめていた。

「これですか? これはスクリュードライバーなんですよ」

私はグラスを持ち上げた。グラス越しに君が見える。

「へぇ、有名なお酒ですよね。名前は聞いた事あるけど、飲んだこと無いですね」

君は私のグラスから目を離さない。今すぐにグラスと場所を替わりたかった。

「オレンジジュースで割ってるからかなり飲みやすいですよ」

君はまたへぇ、と言ってグラスを見つめる。

君と目が合っている筈なのに、君は私を見ていなかった。グラスだけを君は見つめている。

「一口飲みます?」

私はグラスを差し出した。君はそっとグラスを受け取る。その冷たい肌が私の手に触れて全身が打ち震えた。まるで避雷針にでもなった様に、身体の中を電撃が走り抜ける。

 心臓が言うことを聞かない。息が出来なかった。これほどまでに心を揺さぶられる事があるだろうか。私は君と出会うために産まれてきたとさえ思えた。

 君は受け取ったグラスを見ながら、なにか考えている。君の中にも雷が落ちていると良いけど。

「あの、美味しいですか」

君は恐る恐るそう言った。可愛い。そんな事を不安に思っていたのか。それとも、電撃に耐えかねているのを誤魔化すためにそう言ったのか。どちらにしても君が可愛いのは変らない。

「オレンジジュース好きなら好きだと思いますよ」

自分の口元が少し緩んだのを感じた。君に気づかれていなければ良いけど。

「じゃあ・・・・・・いただきます」

君が私のグラスに口をつける。橙色の液体は君の鮮やかな唇を超えてその体内へ。

 鼓動が早くなる。君の薄紅色の唇が潤んでいく。先ほどのバンドは他の曲を演奏していたが、もう自分の心音がけたたましく鳴り響いて、何も聞こえない。

「本当だ。飲みやすいですね」

君は慎ましく口元に手を添えてそう言った。少し目が合って身体がぴりりとする。

「お酒好きなんですか?」

君は目を伏せ頷いた。狂おしいほど愛おしい。この姿をもう逃したくなかった。

「もし、もし良ければ、今度一緒にお酒飲みに行きましょうよ。その、私もお酒好きなので」

「はい、楽しみにしています」

私が言い終わらないうちに君は言った。

 私は嬉しくてどうしようもなかった。今すぐ踊り出してしまいそうだ。連絡先を交換すると、次に会う予定を立てる約束をした。

「じゃあ、また今度」

そろそろ皆も私を探し始める頃だろう。そう思ってベンチから立ち上がる。

「はい。あ、そうだ。これお返しします」

君は手の中のカクテルを差し出した。

「いや、大丈夫です。もし良かったらそれ飲んじゃってください。私は同僚の飲みさしを処理しなきゃならないので」

じゃあ、と手を振って私はベンチから離れた。

また、君に会える日を楽しみにして。


 家に帰ると、真っ先にお気に入りのネイビーのソファに飛び込んだ。メッセージアプリを開いて君にメッセージを送る。

『今日は急に話しかけてしまってすみませんでした! 今度ぜひ飲みに行きましょう!』

しばらくしても返事が無かったので、仕方が無くソファから立ち上がる。スーツを着替えていると通知音が鳴る。心躍らせながら表示を確認した。

『こちらこそありがとうございます! 私は土日休みなので、その辺りで行きませんか?』

部屋のカレンダーを見上げる。今日は金曜日。最短で会えるとなると、明日になる。なるべく早く会いたいのだが、流石に明日は早すぎる。互いに飲酒もしている訳だし、明日は休んだ方が良いだろう。君のためにも。

『良いですね、では来週はどうですか?』

送ってすぐに読んだ形跡が付く。

『来週空いてます。そこでご飯行きませんか?』

『ぜひ行ましょう! 来週土曜日で大丈夫ですか?』

君とどんな所に行こうか。考えただけで胸が膨らむ。そのまま空に飛んでいってしまいそうだ。

『大丈夫です! 一日暇です』

すかさず返事を返す。こういう時の返事は早ければ早いほど良い。

『了解です! 店は任せてください。予約取れたらまた連絡します』

『分かりました、何から何までありがとうございます。土曜日楽しみです』

君が感謝してくれている。その心地よさに今日は溺れてしまおうか。

メッセージアプリを閉じる。暗くなったスマートフォンの画面には何も映っていない。

 幸せな空気に包まれたまま眠りこけた。


 その後は、常にグルメサイトとにらめっこしていた。君が好きそうな雰囲気の店が良い。君は喧噪に満たされたような店は嫌いそうだ。静かな個室。いや、個室は攻めすぎか。半個室くらいが良い。暖かな色味の店が良いかな。

 だがやはり、一番大切なのはお酒が美味しいことだろう。その条件で候補を探す。雰囲気が良いと思えば、席の間隔が狭い店だったり、半個室でも喧しい居酒屋の様な雰囲気だったり。条件にぴったり一致するものはなかなか見つからない。

 数日探し続け、一つの店に目をつけた。少しリーズナブルで、お酒の種類も多い。食事も美味しそうだ。森の小屋のように可愛らしい店内で半個室。格式が高い店ではない方が、君も気負わずに楽しめるだろう。

 一度も行ったことの無い店を君に紹介するのは少し不安だったが、私が行くような大衆居酒屋は君に似合わない。可愛らしい店は君によく似合うだろう。

 早速君に店のホームページのリンクを送った。

『ありがとうございます! 美味しそうです』

メッセージを送ったのは仕事を終えてすぐだったのに、君はすぐに返事をくれた。それだけで嬉しい。

 君からメッセージを貰ってすぐに土曜の夜に予約を入れる。少しだけディナーには早い時間に。君に早く会いたいから、君と長く過ごしたいから。

 日時を君に伝えると君は早速了承してくれた。

 メッセージアプリを閉じてソファに座る。当日何を着ていこうか。人は見た目でその人物を判断するという。服装は最優先すべき事項だ。良く思案しないと今後に響く。

 初めて二人きりになるのだから、力の入りすぎた服装でない方が良い。シンプルにトレーナーとジーンズ。いや、それではラフ過ぎるかもしれない。それになんだか寝間着みたいだ。クローゼットを眺めていると白いパーカーが目に入った。まだ一度も着ていない、真っ白なパーカー。

 そうだ、これにしよう。まさに今回の為にあつらえた様な服だ。これからの私たちの未来を祝う色。それに白は私の好きな色。白に合うボトムスを出してきて、枕元に置いた。

 君にまた会える日まで、君の夢を見る為に。


 次の日、仕事終わりに下見に行くことにした。

 店は、この辺りで一番大きい駅から十五分だったが、当日道に迷ってはみっともない。君にかっこ悪い所など見せる訳にはいかないのだから。

 スマートフォンの地図を見て、必死に道を歩いて行く。西一番出口から出て、最初に見えるコンビニエンスストアの看板の方へ向かう。緑色のショッピングビルの前で二つに分かれた道を右に進み、次の交差点も横断歩道を渡って右へ。そのまま道なりに歩くと、デンタルクリニックが見えてくる。その前の道を左に曲がると、ビルに囲まれた薄暗い道へと迷い込む。

もう一度地図を確認すると、この道で合っているようだ。それにしても不気味な道だ。君はこの道に来たら怖がるだろうか。左手に並ぶビルの手前から三番目。縦に並ぶ看板を見上げると、四階に目的の店があった。

エレベーターを覗くと、エレベーターは五階で止まっている。こちらも少し薄暗いエレベーター。

流石に用も無いのに店に行くのは憚られるので、踵を返す。帰りも道を覚えながら帰ろう。往復すれば流石に覚えるだろう。

そう思って道に出たとき、自分が右から来たのか左から来たのか、分からなくなってしまった。

どこを見ても見知らぬ道だった。それもそうだ、たった一度しか歩いていない道だ。覚えられる筈も無い。

そうだ、デンタルクリニックの前の道を曲がったのだ。右方向の道を覗き込むと、白い看板が見えた。あの看板は先ほど見たデンタルクリニックの看板だ。そこまで戻ることができれば後ははっきりと覚えている。

分からなかったのは最初だけで歩き出してしまえば案外大丈夫だった。初めの一歩を踏み出す事ができれば、後は何も心配する事は無い。なるようになるだけだ。

それに、結末だけ愛せれば良いのだ。過程がどんなものであろうと、結末さえ愛せれば、私は私自身を愛することができる。それで良いのだ。全て。自分自身が、良いと思える結末であれば。

暗くなり始めた空に、ビルの灯りがぽつぽつと浮かび始めていた。


 土曜日。

 待ちに待った土曜日だ。結局君の夢を見ることは出来なかった。だが、今日は本物の君に会うことが出来るのだ。そもそも夢で会おうとしていた事自体間違いなのだ。

 白いパーカーはやはり軽装すぎたかな。いや、こんな格好でも気軽に行ける店を選んだのだ。怖じ気付いてどうする。拳を握りしめた。

 都会の空気は、日を追うごとに少しずつ暑さに向かっていた。陽の暖かさを残したコンクリートはゆっくりと冷えて、この時間はとても過ごしやすい温度だった。

 待ち合わせはこの辺りで一番大きな駅。様々な路線が乗り入れていて、時間を選ばず、人でごった返している。

 西一番出口と君に伝えたけれど、しっかり待ち合わせが出来るだろうか。

 一度しか顔を合わせていないけれど、君の事が分かるだろうか。君も分かってくれるだろうか。瞼を閉じて、君の姿を思い浮かべる。

 あの日、ベンチに座っていた君。光の中に一人で佇む君。その姿は瞼の裏にしっかりと張り付いている。

 胸をなで下ろし、瞼を開く。一番に目に飛び込んできたのは、君の姿だった。

 揺れる髪、ジーンズに私と同じ色のTシャツ。変に気取っていない服装も良い。

 君が一歩一歩距離を詰める度、身体の内側に鳥肌が立つのを感じた。心が雄叫びをあげてうねっている。もうどうしようも無い。

 君のその少し薄手のTシャツにほつれがあったとするのならば、その先を摘まんで糸にしてしまいたい。

 一糸纏わぬ君の姿は、その可愛らしさと共に美しさも内包していることだろう。

 君は私を探して辺りを見渡している。君がこちらを見たタイミングで軽く手を挙げて君に居場所を知らせる。

 それに気がついたようで、君は小走りでこちらに向かって走った。良かった。君は私の事を忘れていないようだ。

「すみません。遅れてしまって」

少し息を切らしながら君はそう言う。

「いえ、時間ぴったりですよ。それじゃあ行きましょうか」

進行方向に手のひらを向けると、君は隣に立って私の後を追う。

 身体がぴりりとして、何かが背中を這いずり回る感覚にしどろもどろになる。思わず身悶えしてしまいそうだった。身体に力を込めて必死に耐え忍ぶ。君にこんな姿を見せたくない。

「本当にすみません。駅の中で迷ってしまって」

床にガムがへばりついている。踏まないように避けながら進む。

「この駅分かりにくいですよね。同じ名前の出口が何個もあるし」

正面を見て、目印であるコンビニエンスストアの看板を見つける。

「そうなんですよ、何回来ても覚えられなくて」

君は足下を見ていた。

「私も通勤で使っていなかったら覚えられないと思います」

そう言いながら前を向いた。ここで道を間違えてはいけない。

 緑色のショッピングビルの前で右に曲がる。この道は見覚えがある。間違えていない様だ。

 交差点が見えてきた。君が隣を歩いているという事が未だに信じられない。この交差点ごと夢なのではないだろうか。私は長い夢を見ているだけなのではないだろうか。けれど君が隣にいる温度だけは信じていたい。天使に騙されているのなら騙されたままで良い。

「この辺りの地理に詳しいんですね」

信号を待つ間、君はそう言った。慌てて君の方を見ると、口元に少しだけ笑みを浮かべている。どきりとした。

「ま、まぁ。仕事終わりに飲みに寄ったりするので」

信号が青になれば、皆が一斉に歩き始める。右に向かう私に君が少しぶつかった。

「すみません」

「大丈夫です。私も右に行くと言わなかったので」

ぶつかった時に、私の気持ちが読まれていないだろうか。浅ましいと思われただろうか。そうだとしたら、私は君の事を諦めなくてはいけないだろうか。

 コンクリートの道を真っ直ぐに歩き続ける。それと共に人通りも少しずつ減ってきた。夕食時になれば、もう少し人が増えるのだろうが、今はまだ、ただ静かな裏道だ。

 デンタルクリニックが見えてきた。ここを左に曲がる。ここまで来れば安心だ。もう道を間違える心配は無い。

 この道が薄暗いのは先日来た時と変わり無かった。君は少し目を伏せて歩いている。やはり少し怖いのだろう。何か明るい話でもしなければいけない。だが、明るい話とは一体何を話せばいいのだろうか。

「この辺りにはあまり来ないんですか?」

君は急に顔を上げてそう言った。散々この辺りは詳しいという雰囲気を出していながら、この道を歩き慣れていない事に君は勘づいたのだろうか。

 君が不意に顔を上げるので、目が合う前に目を逸らす。

「そうですね。駅周辺で飲むことが多いので、この辺りにはあまり来ないですね」

強がっても君に嘘を見抜かれてしまう。正直に答えるのが良いだろう。

「ですよね」

君はそう言って黙ってしまった。私はなんて駄目なのだろうか。強がった上に話題の一つも君に提供できないなんて。

「あ、あれですね。その、まだ寒いですね」

笑顔を作ってそう話した。明るい会話は笑顔からと聞いたことがある。

「そうですね、まだ夜は寒いです」

ぶっきらぼうに君が言う。盛り上がらない話しか出来ない私はなんて不甲斐ないのだろうか。

 他の話題を考えている間に、目的のビルの前に着いていた。

 四階を見上げる。

 君に声をかけてエレベーターに二人で乗り込む。

 それは街の雑居ビルらしく、二人入れば余裕はあまりない。

 先に入って開くボタンを押した。四階を押す。

 君は慎ましく隣に立った。

 二人の間には手のひらを広げた程度の距離しかなかった。手を伸ばせば君に届いてしまう。

 君の息遣いが近い。

 耳元に君が居る気がした。

 エレベーターの扉が開いて、束の間の夢は終わり、新しい夢の扉が開く。

 右方向と左方向、それぞれに扉がある。

 どちらが目的地への扉だろうか。

 折角下見まで来たのに、入り口がどちら側の扉か分からない。

 ここでうろうろしては非常にかっこ悪い。スムーズに進まないといけない。

 左右を見回す。一方は落ち着いた黒い扉。もう一つは可愛らしい茶色い扉。どちらだろうか。サイトの情報を見る限りだと、可愛らしい方の扉が目的地の扉だと思われる。ここはこちらの扉を選ぶのが良いだろう。黒い扉があの店の扉だったとしたら、サイトの情報は信用に足らないものだろう。私は信用することにして、茶色い方の扉に向かった。

 近くまで行くと、その扉には金文字で店名が彫られたプレートがかかっていた。この扉で正しいようだ。

 扉を開ける。店員がゆっくりと動き回っていた。

「あの・・・・・・予約している者ですが」

そう言うと、店員はこちらに気がついたのか、くるりとこちらを向いた。

「六時に二名様でご予約の・・・・・・」

「そうです」

「ではこちらにどうぞ」

店員に案内されるがまま歩いて行く。カーテンを開けると、小さなテーブルと可愛らしい椅子。

「ではごゆっくり。ご注文がお決まりになりましたらお声がけください」

カーテンを引く音。君は立ち尽くしていたかと思うと鞄を置いて座った。

 布に囲まれた空間に二人。落ち着ける筈も無い。

 静寂を破ったのは君だった。メニューに手を伸ばしたその衣擦れの音が響く。

 しばらくぱらぱらとメニューを捲ったかと思うと、小さく首を捻った。注文に慣れていないのだろうか。私も人の事は言えないけれど。

 少しだけ身体を寄せてメニューを覗き込む。

「なにか食べたいものありますか?」

そう言って気がつく。君との距離に。呼吸の音さえも止まる。

「いや、全部美味しそうで、悩んでます」

君はメニューと目を合わせたまま、そう言った。

「あ、ですよね。じゃあ・・・・・・なんか適当に頼みますか?」

君の意見も聞かずにそう言ってしまう。

「はい、えっと、お任せしてしまって良いですか?」

寄せていた身体を元に戻す。

「え、えぇ。もちろん、任せてください」

君からメニューを受け取る。

 メニューを開く。サラダ。サラダはどれにしようか。シーザーサラダだろうか。いや、味が濃いから他の物を食べるのに胃もたれしてしまうかもしれない。あっさりした物の方が良い。サーモンマリネならあっさりしているだろうか。オシャレだし。

 ページを捲る。メイン、肉料理が並んでいる。どれが美味しいのだろうか。これだけ並べられていると分からない。とりあえず、おすすめを。あと、生ハムも。オシャレだし。

 後は主食、イタリアンだからピザだろうか。ピザの並ぶページから、マルゲリータピザを選ぶ。後は二、三個サイドメニューから選ぶ。アヒージョとか。オシャレだし。

頼みすぎただろうか。けれど少ないよりは良いし、どうにかなるだろう。

開いたページの間からドリンクメニューが落ちてきた。そういえば、飲み物を決めていない。君と美味しいお酒を飲むという事が当初の目的だったのに、君に気を取られてすっかりおざなりになってしまった。

メニューを手に取り、店長オススメのワインを選ぶ。

君はテーブルを見ていた。目の前にメニューを差し出しても君は気がつかない。

「そうだ、飲み物何にされます?」

声に気がついて、君は首を少しこちら側に動かした。二人の間に白い手が伸びる。君は少し間を置いて、

「じゃあ、赤のサングリアで」

とだけ言った。

「分かりました、一緒に頼んじゃいますね」

カーテンを少し開けると、店員と丁度目が合う。手を挙げて合図すると、彼はこちらに歩いてくる。

料理名を全て店員に伝える。店員が去った後も、注文を間違えていないか不安でしょうが無かった。こんな事でいちいち緊張しているなんて、先が思いやられる。

君はまだ、俯いていた。

声をかけようかと思ったが、何故か声がかけられない。意味を成さない音が、喉に引っかかった。

細々と、隣に座るカップルの声が聴こえてくる。二人は甘い言葉を交わしていた。愛を確かめ合うように。

部屋を仕切っているカーテンの向こう側で、きっと、仲良く寄り添っているのだろう。

喉に引っかかった音は、より重みを増して気管を圧迫する。

君はまだ動かなかった。楽しくないのだろうか。私のせいだ。きっと君は優しいから、嫌でも断れなかったのだ。

早く、なにか間を埋めたい。いや、埋めないといけない。それが誘った者の義務だ。

「ワイン好きじゃなかったですか?」

君の顔は少しだけこちらを向く。

「ワイン好きです。けど、今はサングリアの気分ですね」

君は視線をテーブルの上に戻した。隣からの甘い囁きが二人の間を埋めている。

君も気まずいのか何も言わない。店を選んだ私のせいだ。愛し合う二人が甘く囁きあっているなんて、私は知らなかったのだ

まもなく、ドリンクが運ばれてくる。

店員がドリンクを置くと、君に近い位置にサングリアを置き直す。

私もワインを引き寄せた。

「乾杯しましょうか」

そう言ってグラスを持ち上げる。

 君もグラスを持って構えた。

「乾杯」

二人、声を合わせてグラスを合わせる。

力加減が分からなくて、君のグラスを割ってしまいそうだった。

口をつければ、アルコールと葡萄の味。いつもならもう少し酔うのに、今日の意識はハッキリしている。

それは君のせいだろうか。緊張のせいだろうか。こんなに頭が冴えるのはどうしたものだろうか。他人との食事だからだろうか。

自分が緊張している事実を受け止める。こんなに緊張してしまうくらい、君のことを愛おしいと思っている自分自身に驚いた。

 身体の温度が上がっていくのが分かる。

「美味しいですね」

君はそう言った。もう下を向いていない。

「ですね。葡萄の香りがして」

味の思い出はそれしか残っていなかった。妙な顔をしていただろうか。君に見つめられると、心の中が痺れる。

思わず目を伏せた。

そこで会話は途絶えてしまった。

カーテンの開く音。食事が運ばれてくる。

取り皿を適当に机の上に並べていると、君はサーモンマリネを取り分け始めた。

慣れていないのだろう。必死な顔をしながらトングを握りしめている。

君は黙ったままサラダをこちらに差し出した。

皿からサーモンがはみ出している。

「ありがとうございます。すみません、取り分けてもらってしまって」

君はこちらを見なかった。

「いえ、これくらい大丈夫です」

ぷつん、と会話が途切れてしまう。

隣から漏れ出る甘い囁きは止まることを知らない。どうしたら、会話は途切れないのだろうか。

せめてピザくらい切り分けなければ。私はピザカッターに手を伸ばした。

手が重なる。

時間が止まる。

「あ、私が切りますよ。サラダも分けてもらっちゃいましたし」

すかさず口を挟む。

「いえ、私もお店とか全部予約してもらっちゃったので」

二人同時に手を引く。

君は優しい。こんな私に気を使って、ピザを切ろうとしてくれている。君の為にも私が引くべきなのかもしれない。けれど、その優しさに甘える訳にはいかなかった。

私が切ろうと手を伸ばしたところで、君も手を伸ばす。互いに出した手を見て再び手を引く。

君が手を伸ばした時、私も手を伸ばして、引く。

何度も繰り返しているうちに、君が笑いだした。その笑い声は段々と大きくなり、君はころころ笑う。風鈴みたいな笑い声だった。

少し不思議な笑い声だった。とても澄んだ笑い声。綺麗で、ずっと聞いていたかった。

「全然息が合わないですね」

笑い混じりに君がそう言う。

君の瞳に射止められて、私も思わず笑ってしまった。

二人の笑い声が響く。

「もう、私切りますね」

隙をつかれた。君はもうピザに刃を入れている。

「四等分ですかね。六等分?」

君は首を傾げながらそう言った。

「六等分がいいと思います」

「六等分に切ろうとしてました」

君は満足そうな笑顔を浮かべて、ピザカッターを滑らせる。

ピザは真っ二つになる。

君は迷うことなくピザを切り、不格好な六等分が出来上がる。

私はそれを見て思わず笑ってしまった。

「すみません、綺麗に切れなくて」

君は少し拗ねたような顔をした。

「いや大丈夫ですよ。左右対称だから食べる量は同じですし」

そうフォローする。君の拗ねた顔がふわりと明るくなった。

二人で顔を見合わせると、先程までの空気とは違う、今初めて生まれた空気が二人の間を満たす。

「じゃあ、食べましょう」

ピザを口に運んだ。

ピザに乗った柔らかいチーズはとても熱くて、火傷しそうだった。慌てて噛みちぎろうとしても、チーズは切れない。切れたと思えば、伸びたチーズが口からだらりと垂れた。慌ててそれを口にしまうと、誤魔化すように笑った。

かっこ悪い所を見せてしまった。

君は笑みを浮かべたまま、こちらをじっと見ている。君が笑っていると、自分のかっこ悪さもどうでも良くなってしまいそうだった。

口を動かして、ピザ生地と、チーズを噛み砕く。

「チーズ、熱いので気をつけて、ください」

「あ、はい、気をつけます」

君もピザを口に運ぶ。

チーズが熱かったのか、口を少し開けて慌てふためいていた。

顔を真っ赤にしながら食事をする姿は、なんとも愛らしい。

「猫舌なんですか?」

そう問いかけると、君は手を口に添えて、小さく頷いた。

 本当に君のその姿が、愛おしくて、可愛くて、素敵だった。

今、この気持ちを君に伝えても、神様は怒らないだろう。いや、怒られたとしても、伝えてしまおう。

「かわいいですね」

はっ、とした顔で君はこちらを見た。

視線がぶつかる。

君のそれの中に何があるのか、私には一向に分からなかった。

私はただ、その中に好意があることを願うばかりだ。

「ピザ、もう少し冷めてから食べましょうか」

そう言いながら目を逸らした。

「やけどしないでくださいね」

頭を冷やそうと、冷たいサーモンマリネを食べる。

「はい」

一気にワインを飲み干す。

このまま、アルコールのせいにする事が出来ればいいのだが。

「あ、なにか頼みますか?」

君は空のグラスに問いかけた。

「え、あ、じゃあ同じワインで」

君はそれを聞くと、カーテンを少し開けて手を挙げる。店員が気づいてこちらにやってくる。君の耳が赤い。

「ご注文は」

店員がメモを構えた。

「はい、えっと、赤ワインと、スクリュードライバーを」

店員は注文を繰り返した後、カーテンをくぐって厨房へと戻った。

君が私の飲んでいたスクリュードライバーを頼んだ。覚えていてくれたのだ。あの日の思い出は夢ではなかった。

飛び跳ねそうになって、笑い声が口の中から漏れる。

君は首を傾げ、私を見ていた。

「あ、いいえ、すみません。この前一緒に飲んだスクリュードライバー、覚えていてくれたんですね」

君はもう一度首を傾げる。

その瞳の中には不信感があるように思えた。

もしかして、馬鹿にしたと思われているのかもしれない。

「すみません、馬鹿にしてる訳じゃないです。覚えていてくれていたのが嬉しくて、笑ってしまいました」

慌てて弁明した。

それを聞いて、君は少しだけ笑った。瞳の中の不信感はすっかり消えていた。

「お待たせ致しました」

店員が二人の間にワインとスクリュードライバーを置く。

飲み干したグラス二つを持って店員は消えた。

もう一度、乾杯。

君がスクリュードライバーに口をつける。君は美味しそうに目を細めた。

「美味しいですか?」

「はい。美味しいです」

君はにっこり笑って頷く。

「良かったです」

心の底からそう思えた。

その後、他愛のない話ばかりしていたら、あっという間に時間がすぎてしまった。

ワインを飲み干す。君のグラスも空だった。

君が、ゆらり、横に揺れる。酔いが回ってきているのだろうか。少し惜しいけれど、今日は解散にしよう。

「そろそろ、お店出ます?」

「うーん……うん、そうですね」

君は揺れながらそう言う。口元にはゆったりとした笑いを携えて。

会計をしようと財布を出す。

私がなにか言う前に、君はきっかり半分出した。声をかける前に君は身支度をしっかり整えて、エレベーターを待っている。

世界がぐるぐる揺らめいて、君はその中で真っ直ぐ立っていた。ぐるぐる、ぐるぐる。

エレベーターは狭いまま、地上へと辿り着く。

二人の間を冷たい夜風が駆け抜けた。

酔いを醒ましてくれた気がする。そう信じたい。

「また、また会えますかね」

歩き始めたところでそう言った。

今日は神様が味方してくれているらしい。天の使いに何を言っても、怒りはしない。

暗い道の中、もしかしたら、神様の目が届かないのかもしれない。

「また、会えます。会いたいです」

急に現れた電灯に君が照らされた。

私なんかじゃない。君が電灯に照らされている。

君をこの地上に繋ぎ留めていたい。

光の当たる場所に、君と二人でランデブー。

このまま、二人で消えてしまいたかった。

けれどこんなに儚い君を、こんなにも愛おしい君をこの世界から連れ出す事はできない。君が居なくなってしまえば、この世界が壊れてしまう。

でも、また会うために、君との約束が欲しい。

このまま連絡もおざなりになって、君と私を繋いでいる、細い糸が切れてしまうのだけは見たくなかった。

「今度、一緒に遊園地行きましょう」

君は、煌びやかな世界が似合う。楽しいだけの遊園地。

 きっと、何よりも煌びやかななのは君だけれど。

「はい」

君はそう一言だけ言った。

君は何も言わない。

私も何も言わない。

まるで、声を出す事が罪であるかの様だった。

明るい通りに出る。

交差点。張り詰めた空気が、少し緩む。

駅まで辿り着く。今までどうやって歩いていたのかも、分からなかった。

「じゃあ、私はこの辺りで」

足を止める。

「あぁ、そうなんですね」

言葉に力が入らない。

その言葉はそこに存在していることが疑わしい。

心臓が、激しいリズムを奏でている。

君に聞かれていたらどうしようか。

いや、聞こえていてくれ。私の気持ちが伝わってくれ。この気持ちさえあれば、何も怖いものは無い。

君は、私と目を合わせること無く、くるりと踵を返して、改札へと向かった。

終わってしまう。今日が終わってしまう。

「あの、また空いてる日とかあったら連絡しますから」

人混みに半分消えている君の背中に声をかける。

「待ってます」

雑踏の中、君の澄んだ声が私の耳に響いた。

君は、どこへ帰るのだろうか。雲の上に帰るのだろうか。

雲の上で無いのなら、私と同じ地上だと嬉しい。

君に会える日が待ち遠しくて堪らない。


その晩、君の夢を見た。

その背中には大きくて、真っ白な羽が生えていた。銀世界の中で、君はにこにこと笑っている。

歌うように言葉を話した。踊るように歩いた。君の歩いた跡は、より輝きを増して光り輝いている。

手を伸ばすと、君も手を伸ばす。その手は、夢特有の軽さを持っていて、綿菓子みたいだった。

私が軽くその手を握ると、君もそっと握り返す。

全身に甘い痺れが広がった。君の肩に手を伸ばす。そこには現実と同じ重みがあった。

私の重みも、君は感じているだろうか。

君に近づこうとして首を伸ばした所で目が醒めた。

やっぱり君は天使だったのだ。


結局、遊園地に行く予定が合ったのは、それから一ヶ月も後のことだった。

その間、君と何度も連絡が取れたことが嬉しかった。

このまま約束が果たされないまま、君とのか細い糸にすがりついて生きるのも良いとさえ思えた。

けれど、君があの煌びやかな世界にいる所を一目でいいから見てみたい。

君はその瞳にどんな光を映すだろうか。

早く君に会いたい。

その思考を遮ったのは、スマートフォンからの通知音だった。

『今週土曜日なら大丈夫です』

すぐに返信。

『ありがとう。じゃあ今週土曜日、十時はどうですか?』

『うん、大丈夫。楽しみにしています』

君の文面まで愛おしい。

さすがに急すぎる提案かと思ったが、君は受け入れてくれた。案外君は私の事を嫌っていないのかもしれない。

そうあって欲しい。

いや、そうあるべきなのだ。私が自分自身を信用しなければ、他に誰が信用してくれると言うのだろうか。

カレンダーに目をやる。

今日は木曜日。土曜日まであと二日しかない。

それに今日は眠るのを残すのみだから、余裕は一日しかない。

嬉しい様で、不安だった。

君に失望されるのは避けたい。

それには何より身なりが大切だろう。君に堂々と会えるような服で遊園地を楽しみたい。

クローゼットを開ける。ハンガーに掛けられた服を一つ一つ見ていく。

このトップスは派手すぎる。これは暗すぎる。これは着古していて襟が少しよれている。

トップスを探すのを諦めて、他のものを探す。

カバンと靴下はきちんとした物がある。靴もこの前買い換えたばかり。ボトムスもあまり履いてなくて丁度いいのがある。

問題はトップスなのだ。

先日色々と買い込んだ時に、どうして私はトップスを買わなかったのだろうか。

白いパーカーで満足してしまって、他は何も買わなかったのだ。

私は着古したマスタードイエローのTシャツとじっと睨み合っていたが、やがて諦めてそれをクローゼットにしまった。

布団に入る。明日の帰りに買いに行かなければならないな。

君にかっこ悪い所など見せられない。ましてや、かっこ悪い身なりをしているなど、以ての外なのだ。


金曜日。

仕事を終え、同僚の誘いを断り、急いでショッピングモールへと向かう。金曜日のショッピングモールは、程々に混雑している。

とりあえず、ショップへと向かった。

いつも行くセレクトショップ。メンズファッションの話が出ると二番目か三番目には確実に名前が上がってくるような店だ。

元々アメリカを本店としていて国内でも手広くファッション展開をしている。姉妹店や系列店の名前は聞き覚えがあるものばかりだろう。

店舗ごとに一点物の輸入品などが揃っていて、私はそこを気に入っている。

量産型のアイテムも、大体は当たり障りがなく、個性が強すぎないアイテムが欲しい時には重宝する。

白いパーカーもここの物だし、私はそろそろここで働くべきなのかもしれないな。

私はいつも通り輸入品のアイテムが揃う一角へと向かった。

隅から隅まで物色していく。トップスの色は黒がいい。

ボトムスはシンプルなワイドパンツにするつもりなので、少し遊びがあった方がいいかもしれない。だが、あんまり派手だと、それは君との雰囲気に合わない。せっかくのデートだ。ワントーンでまとめるのがいいかもしれない。

ふと、ひとつのシャツに目が止まる。黒地に黒色の刺繍。刺繍はシャツ全体に施されているものの、しつこさを感じないデザイン。

さっぱりしていて君の雰囲気にも良く似合いそうだ。

手に取り吟味する。襟の開き方は、下品にならない位の広さ。袖丈は少し長めでこなれ感もあるだろう。サイズもちょうど良さそうだ。身体に合わせて着丈を確認する。ちょうど腰の当たりにシャツの裾がやってくる。これにしよう。

「お客様、お決まりですか?」

「はい。これ、お願いします」

服を選ぶだけなのに心が踊っている。

何故か小学生の時の事を思い出していた。


土曜日。

待ちに待った土曜日だ。

今日はよく晴れている。私たち二人を祝福するかのようだ。一日千秋。いや、それ以上に感じるほど待ち遠しかった。

待ち合わせは十時。遊園地の最寄り駅で待ち合わせ。東口の改札前、柱の横に立って待つ。少し早く着きすぎたか。

腕時計はまだ九時半を回った辺り。待ち合わせにはかなり早い。

けれどこの三十分は私が待ちたくて待つ時間だ。

相手が来ないかと必死に改札を覗き込むこの時間が私は好きだった。ましてや相手が君なら尚更この時間が愛おしい。

スマートフォンをポケットに突っ込んでじっと改札を見つめた。人々は、波のようにうねりながら改札から出てくる。

この駅に来る人はほとんどが遊園地目当てだ。家族連れやカップルも多い。

仲睦まじく、二人寄り添い歩くカップル達。今日は皆、光のベールでも被ったかのように輝いていた。

私も、こんな風に君と二人で歩くことができるだろうか。それはもう夢ではなくて、ほとんど現実に近かった。私も君と二人並んで歩けば、周りから同じように見えるだろうか。

次の電車が来たのだろう、人の波はいっそう強くこちらに流れ込んでくる。その中に君の姿はない。それもそうだ。まだ十時まで二十分もあるのだ。

君は今日はどんな服装で来るかな。前に会った時に着ていたジーンズとTシャツは良く似合っていた。今日も同じ格好だろうか。君が何を着ていようと、君への気持ちは変わらないけれど。

「あっ」

思わず声を上げる。君が改札の中からこちらに向かってくるのが見えた。

まだ九時四十五分。もしかして、楽しみで少し早く来てくれたのか、私を待たせないように気を使ってくれたのか。

どちらにしても、君が私を想っているからこその行動だと信じたい。

「すみません、待ちましたか? 」

君は伏し目がちに言った。

「いいや、今来たところです」

君をじっと見つめる。

艶のある黒髪をひとつにくくっているので、君の顔がよく見える。

Tシャツにジーンズの姿はそこには無く、代わりに黒色のワンピースを着た姿がそこにあった。

ワンピースのウエストは絞られ、君の身体のラインが綺麗に出ている。沢山歩く事を想定してか、足元は歩きやすそうなスニーカー。けれど、ワンピースとミスマッチな訳ではなく、調和が取れていてバランスがいい。

本当に君は何を着ていても素敵だ。

「なんか変ですか?」

君は不思議そうにこちらを覗き込んでいた。

「いや、すごく似合ってる」

君はそれを聞くとふんわり笑った。

「ありがとうございます」

「じゃあ、行こうか」

チケット売り場まで二人隣合って歩く。君は手と足が同時に出ていることに気が付かないようだ。

「あんまり遊園地とか来ない?」

隣の君に声をかける。少しくらい敬語を止めても怒られないだろうか。

「え?いや、たまにです」

「そうなんですね。好きなアトラクションとかあります?」

君は少し首を傾げた。咄嗟に敬語に戻す。

「うーん、悩みますね。でも、やっぱりジェットコースターですかね、ほら、あの、暗い道を進んでいく……」

「あ! コスモコースターか! 楽しいですよね。私も好きですよ」

「え、ええ、私も!」

君はにっこり笑った。手足もきちんとバラバラに動いていた。

話している内に、チケット売り場にたどり着く。土曜日の朝ということもあって、売り場には長蛇の列が出来ていた。

「今日は絶対にコスモコースターに乗りましょう!」

なるべく空いている時間に君を待たせずコスモコースターに乗ろう。なるべく君が快適に遊園地を回れるようにしたい。

コスモコースターが一番空いている時間から考えて、他のアトラクションやショーを観るスケジュールを決めないと。

「ねぇ、順番ですよ」

気が付くと、窓口の目の前に立っていた。

「あ、ありがとうございます」

君にそう言った後、受付の店員に向き合った。

「大人二枚お願いします!」

「はい、大人二名様ですね」

穴の空いたアクリル板越しに受付がそう言う。差し出されたチケットを手に入場口へと向かった。

ゲートをくぐると、そこは夢に溢れていた。

可愛らしいキャラクター、パステルカラーの建物。舞い落ちる花弁。愉快な音楽が鳴り響いて、中世ヨーロッパ風のワンピースを着たスタッフたちが私たちに微笑みかける。

「ようこそ!」

頭に可愛らしい花をつけて、笑顔を振りまいている。おそらく、花の妖精だろう。

君はあちこち色々な方向を見回していた。やっぱり君は煌びやかな世界にいるのが、とても似合う。夢の中の君と今の君は同じだった。

やがて君は、ひらりと落ちてきた花弁を手に取った。そしてそれをじっと見つめる。

その花弁になる事ができたらどんなに良いだろうか。来世は花に生まれよう。

スマートフォンを取り出して、君の写真を一枚撮る。君は気付いていないようだった。

 君には悪いけれど、これはこっそり持っていよう。宝物だ。

「行こう!早く行かないと、アトラクション乗れなくなっちゃいます!」

「うん!」

君の手をとって先導する。指先から熱くなっていくのを感じた。

それに反して君の手は冷たい。手が冷たいのは優しいからだと聞いたことがある。その噂は本当だった。

手を繋いでいるのがもどかしい。力を込めて君を引き寄せれば、君を抱きしめることが出来るのに。それが出来ない。

君は少し後ろ必死に歩いて私にかろうじて追いついている。

「すみません。私、歩くの早かったですね」

足の速さを緩める。君はピタリと私の隣にくっついた。

 肩が触れそうな距離。接しているのは手の平だけなのに、雷に撃たれたような衝撃で全身が震える。

「いえ、大丈夫です。その、全然平気ですから」

君はそう言ったきり話さなくなってしまった。

私も声が出せない。こんな所まで気が合ってしまうのは、神様の悪戯なのだろうか。

私が立ち止まると、君も立ち止まった。

君の後ろにくるくる回るコーヒーカップが見える。待ち時間は二十分らしい。

「そうだ、あれ乗りましょう」

私はそれを指さした。

君はにこりと笑って、静かに頷いた。

コーヒーカップの列に並ぶ。手を繋いだまま。

「この乗り物も結構好きなんです」

君は並ぶなりそう言った。

「そうなんだ、私もです。思い切り回す方がいいですかね?」

「そうですね。そうしましょう!」

君は楽しそうだった。

「よし、張り切って回しますね!」

私はハンドルを思い切り回す仕草をした。

君はそれを見てくすくす口に手を当てて笑っている。あの、澄んだ声で。

「何か変ですか?」

君は笑って細くなった目を少しだけ開けて私の方を見る。

視線がぶつかって、どきりとした。心臓が、また激しいリズムを刻んでいる。

「コーヒーカップにそんなにやる気ある人初めて見たかもしれないです」

そしてまたくすくす笑いだした。

その声をもっと聞いていたい。もっとやる気を出したら、君は笑ってくれるだろうか。

「せっかく来たんだから張り切らないと!」

私はまたハンドルを回す仕草をした。君はそれを見て笑ってくれる。

「あっ、ねぇ、ほら。前進んでますよ」

君は私の手を引っ張って行く。

「本当だ」

楽しい。こんなにはしゃいでいるのはいつぶりだろうか。

そうしてじゃれていると、待ち時間など、あっという間だった。

あの色がいい、この色がいいと二人で意見を出し合ってコーヒーカップに乗り込んだ。私は赤がいいと言ったけれど、君が紫がいいと言ったから、紫に乗り込んだ。

乗り込む時に、繋いでいた手を離した。離れてしまった手はあてもなく彷徨って、コーヒーカップのハンドルに辿り着いた。

「なんか緊張する」

君も白い手でハンドルを握りしめていた。視線も同じところに置いている。

スタッフの陽気な声に合わせて、コーヒーカップが回り出す。私は力を込めて、ハンドルを回した。

ぐん、と勢いを付けてコーヒーカップが回り出す。君は笑顔で可愛い悲鳴を発している。

背景は回転のスピードに着いていけずに、何本もの線になっていった。

その中で君だけが、線にならずに笑っている。

可愛い。可愛い君。可愛い君。

その君と私は二人。コーヒーカップの上で、夢のような時間。今すぐにでも抱きしめて、私のものにしてしまいたい。

コーヒーカップが止まっても、夢は終焉を告げない。

このまま、死ぬまで醒めない夢に酔っていたかった。

その後、いくつかアトラクションに乗り込んだ。ジェットコースターにも乗ったし、楽しいキャラクター達のショーも観た。最新鋭のスクリーンを使ったアトラクションも楽しかった。

その、どれでも君と二人。遊園地はちゃんと存在していたし、君も天に帰ることは無かった。

離された手はもう一度繋がれることは無かったけれど、それで十分君が隣にいれば充分だった。

早めの夕飯を食べに園内のレストランに入った時、自分が疲れていることに気がついた。

君が居ると楽しくて、疲れなど感じないのだろう。

「楽しかった」

君は口を拭いながら言った。

口を拭ったティッシュには、ハンバーグのソースが付いている。

「うん。でもまだコスモコースターが残ってますよ」

「あ、忘れてました 」

君が手を止める。私もフォークを置いた。

「これ食べたら乗りに行きましょう」

君はにこりとした。コスモコースターが本当に好きなのだろう。

「楽しみですね」

君はフォークを持って、動きを止める。

「どうかしました?」

「あ……いえ、何も無いです。コスモコースター久しぶりに乗るなと思って」

もう一度君はにこりとした。

君が食べ終わるのを待ってから、私は立ち上がる。君はいそいそとリュックを背負って、立ち上がった。

私は君の手を取ってコスモコースターの方へ歩き出した。君はその手を拒まない。優しく、握りしめてくれる。

コスモコースターは空いていた。昼間なら一時間以上待つのだが、今は待ち時間三十分らしい。

パレードが開催されているので、この時間は大抵どこのアトラクションも空いているのだ。

遠くから近づいてくるパレードの音を聴きながら、コスモコースターの建物内に入る。パレードの曲は消えて、映画に良く似合う、宇宙の音が流れている。

「こんにちは! 宇宙旅行へようこそ!」

銀色の衣装に身を包んだ係員に案内されて、私たちは宇宙旅行へと旅立つ。

「行こう」

繋いだ手に力が入った。

夜の雰囲気、奇妙な宇宙空間の中に居ると、妙な気分になる。昼間は君と会話ができたのに、すっかり舞い上がってしまって、何も話せない。

君も黙ったまま。繋がれた手だけが、私たち二人を繋ぎ止めている。

しばらく列に並んでいると、コースターに乗る順番がやってきた。

「ちょっと、いい?」

君はリュックを前に抱えて、乗り込む準備をする。手が離れて寂しい。

君は片手をリュックに添えたまま、コースターに乗り込む。セーフティーバーを降ろして係員が安全チェックをするのを待つ。

「楽しみだね。今日一番楽しみだったんです」

「はい」

君はそっけなく言うと、セーフティーバーを握る手に力を込めた。きっと、怖いんだな。

私に好きなアトラクションを聞かれた時に、コスモコースターの名前を出したのはいいけれど、ジェットコースターは苦手だったのかもしれない。

「大丈夫ですよ」

君はぱっ、とこっちを向いて私を見つめた。

その瞳は少し潤んで震えているようだった。

ガタン、と音がしてコースターが動き出す。私と君は、二人、見つめ合ったまま。

コースターが加速していくタイミングで、君は顔を前に向けた。その途端、世界は暗闇に包まれる。コースターが宇宙への旅路を漕ぎ出したのだ。私も顔を前に向ける。

幾千もの星が、目の前で瞬く。眼下に広がる宇宙、頭上を舞う流れ星。風を切るように進むコースター。そして暗闇の中を急降下する。私と同じ旅行客の陽気な悲鳴が至る所から聴こえてきた。

私も大声を上げた。絶叫。けれどこれは楽しい叫び。生きていることを実感する、歓喜の歌。君の声も隣で聴こえてくる。

コースターは急停止して、ゆっくりと坂道を登っていく。

「やっぱり面白いですね」

「はい、とても!」

君は笑顔でそう言った。良かった。

コースターが徐々に傾いていく。そして、突然の急降下。スピードに乗ったところで急旋回。そのままゆっくりと、地球に帰還する。最高の宇宙旅行だった。

やがてコースターは止まり、セーフティーバーがゆっくりと上がる。

君は先に降りて、出口の前で私を待っていた。

「お待たせ」

「行きましょう」

出口を出ると、人が散り散りに歩いていくのが見えた。遠くの方からパレードの音が聞こえている。この辺りはもう通り過ぎてしまった後なのだろう。

 大量の花弁が、地べたに散らばっていた。

「もう、帰りますか?」

君は私の袖を握ってそう言った。私の袖を握ってそう言ったのだ。

身悶えしそうになる。今すぐにでも大騒ぎして君の事を抱き留めたい。君はそれを許してくれるだろうか。

帰りたいと遠慮なく言える程、私の事を信用してくれているのだろうか。いつの間にこんなに距離が縮まっていたのだろうか。

掴まれた袖が熱い。騒ぎ立てる胸を抑えつつ、遊園地出口に向かう。話すことなど出来ない。口を開いてしまったら、君への浅ましい欲望を全て吐き出してしまいそうだった。

君は袖を握りしめたまま、とことこ私の後ろを着いてくる。慎ましい。愛おしい。

「あの、この後空いてます?」

一度口を開いてしまえば、堰を切ったように言葉が溢れ出す。

「あの、家に来ないですか? ほら、明日も休みですし」

漏れ出た言葉は留まることを知らない。私の愚かな下心が露呈する。

「家?」

君は分からないというように頭を振る。

本当に分からないのかもしれない。家に誘うことがどういう事なのか。

「二人きりになりたいんです」

意を決して言葉にする。

君の瞳をしっかり見つめる。君の表情がゆっくりと変わっていく。

それは、覚悟を決めていた。君もきちんと大人だった。

少し寂しい。

「すみません。忘れてください」

君は私の目をじっと見つめたまま、動かなくなってしまった。

君が決めた覚悟は私ともう会わないという事なのだろう。今日で君とは最後。その姿を瞳に焼き付ける。

二人の間に閉園のアナウンスが流れはじめた。

「行く」

「え?」

君の出し抜けな返事に理解が追いつかない。

「明日。午後二時に。駅まで行くので迎えに来て欲しいです」

「え? あ、はい」

君は出口まで歩き始めた。私も歩幅を合わせて歩く。

「今日は、帰らせて欲しいです。本当は、今すぐにでも行きたいですけど」

今すぐにでも。この言葉が私を貫いた。

鼓動が全身を揺らす。歩くのもままならない。

君は、私の事を好いているのだ。そうだ、それ以外の答えなど見つからない。

それ以外の答えがあったとしても、私は認めない。

駅で別れて、ホームに立つ。

ホームの向こう側に君が居た。私に気がついて君が手を振る。丁度その時、電車がやって来た。私はそれに乗り込むと窓から君を見た。

君は寂しそうに手を下げている。君は私と別れたくないと思ってくれているだろうか。そうだと嬉しい。

帰り道、君の事ばかり考えていた。君の裸まで想像していた。

全身の毛が逆立って、震える。明日君は堕天する。君が私にそうさせるのだ。

頬を爪で摘まむと痛かった。肌に爪の跡が残る。

お気に入りになったシャツをキレイに畳んで、ネットに入れて洗濯機に放り込んだ。他の衣類も同じように放り込む。

部屋着に着替えると、ソファに座る。今日は疲れた。目を瞑る前に眠ってしまいそうだ。

今日は本当に楽しかった。

ささやかな思い出に思いを馳せる。君はよく笑っていた。あの、素敵な笑顔で。

手を繋いだ。コスモコースターに乗る時に震えていた手、花びらをそっと見つめる君。

スマートフォンを開いて、写真を表示する。可愛い君がこの手のひらに収まっている。

私は嬉しくて、その写真を印刷した。プリンターから可愛い君が出てくる。

空のままのフォトフレームを手に取ると、その中に写真を入れる。いつか大切な人の写真を入れようと買っておいたフォトフレームが役に立った。

満足して写真を眺めた。ソファに座り込むと、丁度目の前に写真が見える。完璧だ。

スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。

『明日二時に駅前ですよね。楽しみです!』

勿論相手は君。すぐに読んだ形跡。

『忘れないですよ。私も楽しみです』

君も、忘れないでくれている。

何が楽しみなのか。互いに分かっているのにそれには触れることは無い。

その白々しい態度さえも、愛おしい。

君は明日、どんな顔でここに来るだろうか。私は君をどんな顔で迎えようか。

想いを巡らせるのは簡単だったが、実際どうすれば良いのか答えは出なかった。

君との妄想と夢の区別が付かなくなったところで、意識は途切れた。


カーテンから溢れんばかりの光。窓の外には既に高い太陽。

時計は一時を指す。

慌ててソファから飛び出す。君が来るまであと一時間しかない。それなのに、昨日風呂にも入らずに寝てしまった。とにかく風呂に入ろう。体臭が匂う様では、君がどんなに会いたがったとしても会うことは出来ない。

慌ててシャワーを浴びる。カラスよりも早く風呂から出てくる。

風呂場から慌てて飛び出すと、下着だけ身につけて、クローゼットに向かった。何を着ようか。昨日来た服は着ることが出来ない。クローゼットの中身を次々と引っ張り出す。私の周りは洋服でいっぱいになってしまった。

ふと、先日着るのを止めたマスタードイエローの服が目につく。

少し派手だと思ったけれど、今日はこれにしよう。

君は私の事が好きなのだ。今更服が派手だということで、私のことを嫌いにはならない。君はきっと笑ってくれる。

兎にも角にも考えている暇は無い。洋服を着ると、散らばった服やらを集めてクローゼットの中に詰め込む。

濡れた髪を乾かして、最後に身だしなみを整えた。

それと同時にスマートフォンが声をあげる。

『あと十分くらいで着きます』

私は悲鳴をあげた。

『分かりました』

スマートフォンと鍵だけポケットに突っ込んで、私は駅まで走り出した。

澄んだ太陽が空に浮かんでいた。溶けたバターみたいな空気に足を取られそうになりながら走る。

信号に引っかかって立ち止まった。スマートフォンを取りだし、時刻を確認する。

まだ余裕がある。そうか、家を出た時間は遅れていないから、走らなくても良かったのだ。

信号は青。この真っ直ぐな道を歩けば駅に着く。小さな駅はもう目の前だ。

改札前に見慣れた人影があった。もう君がいる。

私は小走りに君に駆け寄った。君に会えた。

「早いね」

「うん。ちょっと早く着いて」

君は涼しい顔でそう返す。

長い髪が風に揺れている。花の香りが鼻をくすぐった。シャワーを浴びたばかりなのだろうか。その匂いは脳まで痺れさせてしまう。

「どうしたの」

「いや、何でも無いです。行こう」

君は僕の隣に、そっと寄り添って歩く。

今日の君は何か、纏っている雰囲気が違う。何となく、張り詰めた空気が二人の中に流れている。

それもそうだ。これから部屋で二人きりになるのだ。そこから始まることを想像すれば、緊張しないわけが無い。

ちらりと君の方を見遣る。ティーシャツにジーンズというシンプルな格好。

とても似合っている。とても似合っているが、欲を言えば、昨日のワンピースの方が、君に触れやすかったと思う。

けれど心配する事は無い。どうせ一糸纏わなくなるのだから。

何も不安に思うことは無い。

真っ直ぐ、私の住むアパートに向かった。横断歩道を渡って、右に曲がると、色褪せた、いつものアパートが見えてきた。

少しおんぼろだが、駅に近いのが好きだった。駅までの道も、気に入っている。

一階、階段の裏側にある扉。軋むワンルーム。廊下と言えないほど短い廊下。

バスルームの横を通り、部屋へ。振り返ると、君は玄関で立ち止まっていた。やはり緊張しているらしい。

「おいで」

「うん、ごめんね」

そう言うと君は靴を脱いでおずおずと部屋に入った。

君はそわそわと落ち着かない様子で小さく足踏みをしている。

「座ります?」

私はひとつしかないネイビーのソファに手を向けた。

君はそれを無視してその場に座り込む。私も同じように君の隣に座り込んだ。

二人でソファの横に並んで座る。役目を失ったソファはただ、そこに転がっていた。

君は何も言わない。私も何も言えない。

なんか、こんな感じばかりだ。互いに言葉を失って、何も出来ずに動けなくなる。君も私も。

今もそうだった。ワンルームに互いの呼吸だけが響く。

君の困ったような息遣いが妙に艶っぽくて、首の後ろが熱くなった。指先に力が入らないけれど、君に向かってにじり寄る。

肩が触れる。電撃が走る。なんてことない事なのに、昨日なんて手を繋いで歩いたのに。

もう、私はこの空気に酔って酔わされて、既に弱っている。

君が頭を私の方に預けた。

熱を持った君。さらりと零れ落ちる髪。

手を肩に回す。君は顔を上げる。

潤んだ瞳。濡れた唇。その隙間から漏れる息。

引き寄せられる。混ざる二人の体温。もう戻れない劣情。

二人の顔は離れて、照れたように君は笑う。広がる幸せ。

君が私の中に落ちた音がした。

もう一度。もう止められない。戻れない。

君は私を受け入れる。思わずジーンズに手をかける。

君はその手に触れ、小さくかぶりを振った。

「シャワー浴びようよ」

君は可愛らしい声でそう言った。

「うん」

私は小さく頷く。君の言う通りだ。私は少し急ぎ過ぎた。

急がなくても私は君の思うまま、君が求めるままにその身体の線をなぞる。そして、人生で一番幸せな時間を過ごすのだ。

心配することは無い。何も不備はないのだから。

私は君の手を引いて、風呂場と向かった。

風呂場に入った瞬間、出しっぱなしのドライヤーが見えた。

こんな所にドライヤーがあるなんてムードが台無しだ。生活感に目が覚めそうになり、慌てて隠す。

「ごめん、すぐ片付けるから」

「大丈夫。それよりも」

君の言わんとしている事がすぐに分かる。

全身が痺れて、頭が回らない。自分の洋服に手をかける。裾を掴んだ手は少し震えていた。

落ち着け。

「あっ、そうだ」

君は急に声を上げる。

「え、何?」

そして少しいたずらっぽく笑った。

「ここ、浴槽あるんだよね、お風呂溜めようよ」

君がそんなに積極的だと知らなかった。私は私が思うより君に愛されている。

君のそういう所が大好きだ。君の、そんな面も大好きだ。会えば会うほど、知らない君を沢山知る。知れば知るほど好きになる。

君の肌に触れられると思うと、全身ゾワゾワする。毛が逆立って、もう獣みたいになってしまう。けれど焦るな。焦って君を取り逃がしてはいけない。

紳士的に。君が一番気持ち良いと思える私でいることが大切だ。

「うん、ちょっと待って、今準備する」

私は風呂場の中に入り、浴槽に向かった。

浴槽の排水栓を排水口にぴったりはめる。これで、水が溜まる。

強い衝撃。

後頭部に鈍痛。

頭を抱える暇もなく、呻く暇もなく、前方に倒れる。

無機質な浴槽の底が、眼前に迫る。前頭部が浴槽にぶつかって、目の前が真っ暗になる。

冷たい水の感触を微かに額に感じ取るが、それも無くなる。

響く鈍い音は、浴槽から鳴っているのか、頭の中で鳴っているのか、もう分からない。

暗闇の中で現実が遠くなるのを感じた。



君と出会ったのは、もう二ヶ月も前の事だった。

職場の人間に、ビアガーデンに連れて行かれた時、君に出会った。

木で作った机と椅子。ジャングルみたいに観葉植物が置かれていて、さまざまな色に光る豆電球が木と木の間にやたらめったら吊り下げられている。

私は乱痴気騒ぎしている人間から離れて、隅の方にあるベンチに、酒を片手に座った。

私一人が離れたところで、誰も気が付きはしない。ここからこうして人間を眺めていると、妙な気分になる。あの中にいる時は、私もあの一員なのだ。

それは人間として当たり前の営みである筈なのに、とても滑稽な事のような気がする。

とにかくもう疲れた。早くこの空間から出たい。いっその事、抜け出してしまおうか。誰も気が付かないだろう。いや、気づかれてしまった後が怖い。

グラスの中のハイボールを胃に流し込む。空虚な氷の音だけが、私の癒しだった。

ふと、グラスに影が落ちる。影の先を辿って顔を上げると、人が立っていた。

「こんにちは」

急に挨拶。私に向かって微笑みかけている。

宗教の勧誘か、ネズミ講か。酒の勢いに任せて誰彼構わず声をかけているのか。

「こんにちは」

とりあえず返事をする。挨拶しないことに文句でも言われたら面倒だ。

「隣、いいですか?」

なにか理由を付けて断わるべきだが、酒のせいで言い訳すら思いつかない。

「え、えぇ。大丈夫です」

私は少し横にずれてその人の座るスペースを空けた。

近くに座られたら困る。

しばらく互いに何も話さなかった。私が話さないのは当然だが、この相手も話さないというのはどういうことだ。何か面倒な事でも言ってくれれば、突っぱねる事もできるのだが、黙られていては拒否することも出来ない。どう追い返そうか。

少し見ると、この人はこちらを向いてぼーっとしている。本当になんなのだと言うのか。

「今日、仕事終わりなんですか?」

突然話しかけられる。話すなら始めから話して欲しかった。

「あ、はい。そうです。なんか、新入社員歓迎会とかで」

グラスの中の氷が揺れた。

「そうなんですか、私もそうなんですよ」

隣人は酒に口をつけて、少し遠くを見る。

その姿を見て心臓が止まりそうになった。

もしかしたらこの人も、世界が滑稽に見えているのかもしれない。この喧騒が嫌いなのかもしれない。

もしそうだとしたら、この人は私が心を許せる友人となるかもしれない。

「そうなんですね。私、そういうの苦手で。ちょっと抜けて来ちゃったんです」

少し様子を伺う。ここまで期待しておいて、結局はただ酒の勢いでここに座っているだけかもしれない。

身体が強ばるのを感じた。

「私もそうなんですよ。なんか、歓迎会って面倒ですよね」

君はあっさりそう言った。酔っている素振りなど見せなかった。

君は私と似ているのかもしれない。

少なくとも、乱癡気騒ぎを喜んでするような人物では無いだろう。

突如として現れたこの人物が、私の孤独を紛らせた。酒なんかよりよっぽど。

「あ、そうなんですか! 私もです。なんか、その」

この人ともう少しだけ話してみたい。その気持ちが先走り、言葉が詰まってしまう。

「気が合う?」

私は頷いた。

「はい」

私の返事をかき消す様に爆音でドラムの音が響き渡る。それに続いてギター。粘り気のある歌い方をするボーカル。

どうやら奥にある小さなステージで誰かが演奏をしているようだ。

水を差す奴は誰だろうか。顔を見ようと思ったけれど、必死に覗き込んでも顔が見えない。曲が分かればヒントになるかもしれないが。

「この曲知ってますか?」

振り向いて隣人に聞いた。

聞き覚えはあるけれど、誰の曲か全く知らない。

とにかくしつこくて、甘くて、あまり好きでは無い歌だ。

もしかして隣人はこんな曲を好むのだろうか。もしこんな曲が好きならば、私の友人とはなれない。

「いや、CMで聞いた事あるけど」

隣人はそう答えた。

「ですよね」

君はこんな曲なんて知らないらしい。

私は満足してステージの方へ向き直った。別に興味があるわけでは無いけれど、君の視線が気になるからそうした。

相変わらず曲は甘いまま。苦味など無い。

虫歯になりそうなほど甘い恋の歌は、平べったくて薄っぺらい。流行りそうな言葉を並べているだけ。

何となく、聴いていて嫌な気分になる。

一曲終わって拍手がぱらぱらと聞こえた。私も君も拍手。流石に拍手しないのは常識知らずだ。

「すみません。私、音楽には疎くて」

先程試すような聞き方をしてしまった。こうしておけば、不自然ではないと思う。

「私も分からなくて申し訳ないです。演奏してた人も本人なんですかね」

「どうなんでしょうね。そんな有名な人達、こんな所に来るんですかね」

君の目が空を切る。私は君の手元に目を落とした。

オレンジ色のお酒。普段カクテルなんて飲まないから、それが気になった。

「あの、そのお酒、何のお酒なんですか?」

「これですか? これはスクリュードライバーなんですよ」

君はグラスを持ちあげる。グラス越しに君が居るのが見える。

「へぇ、有名なお酒ですよね、名前は聞いた事あるけど、飲んだ事ないですね」

オレンジのグラスの湾曲した表面に、キラキラと電飾が映り込んでいる。

「オレンジジュースで割ってるから、かなり飲みやすいですよ」

グラスの中の電飾が揺れる。飲みやすいと言われても酒は酒だ。容易に酔ってしまう。

「一口飲みます?」

君の差し出したグラスを受け取る。

初対面の相手に対して無防備にグラスを差し出すとは。それを受け取ってしまった私も私なのだが。

睡眠薬や毒が入っていないとも限らない。

いや、君は先程酒に口をつけていた。それを差し出したということは、恐らく飲めるものだろう。

けれど君が口をつけた酒。君の唾液だって混ざっている。そんなものを無差別に人に渡せる人なのだろうか。それとも君も私に何か感じているのだろうか。

「あの、これ美味しいですか?」

恐る恐る聞いてみる。どんな風に返すだろうか。返答から君が何を考えてるか分かるかもしれない。

「オレンジジュース好きなら好きだと思いますよ」

君はあっけらかんとして言う。その頬には小さな笑み。私のことを嘲笑する様な笑みではない気がする。

その姿を見て、少しだけ胸が高鳴った。このまま、毒を飲んで死んでしまっても良い気がした。

「じゃあ……いただきます」

私は君のグラスに口を付ける。黄色い液体が全身に流れ込んでくる。

舌に残るアルコールはそんなに強くない。けれど頭がくらくらして、鼓動が速くなる。

「本当だ。飲みやすいですね」

妙な気持ちに支配されて、どうする事もできない。取り繕う感想も、まともな言葉が出てこない。

一瞬君と目が合った。慌てて目を逸らす。

「お酒好きなんですか?」

仕事終わりで疲れているのか。慣れない外飲みで身体がついていかないのか。耳が熱い。

それに耐えながら、なんとか頷いた。口を開いても、まともな言葉など紡げない。

「もし、もし良かったら、今度一緒にお酒飲みに行きましょうよ。私もお酒好きなので」

「はい、楽しみにしています」

全て聞き終わる前にそう返事した。

承諾するつもりなど無かったのに、気がつくと承諾してしまっていた。

 酒のせいだ。きっと、酒のせいだ。アルコールを飲んで見知らぬ人と話すべきでは無い。

君だって言い終わらぬうちに返事をされるなんて不快だろう。

そっと顔を上げると、君は微笑んでいた。

君は優しい人だ。私が粗相をしても怒らない。そんな優しい人に出会えたのを嬉しく思う。

それから私たちは連絡先を交換して、次に会う予定を立てる約束をした。

丁度この無駄なパーティも終わる頃だろう。

「じゃあ、また今度」

君はそう言って立ち上がった。

胸に空いた穴を埋めるように、掌の中のグラスを揺らす。その中にはオレンジ色の液体。

君から受け取ったままだった。

「はい。そうだ、これお返しします」

私は手の中のカクテルを差し出した。

「いや、大丈夫です。もし良かったら、それ飲んじゃってください。私は同僚の飲みさしを処理しなきゃならないので」

じゃあ、と手を振って君はベンチから離れる。

流れる音に合わせて踊っているかのように、軽やかに歩いていた。私はベンチに残り続け、パーティが終わるのを見届けた。

ぬるくなってしまったカクテルを舌に滑り込ませる。甘い。


家に着くとすぐに、スマートフォンの画面に君からのメッセージが表示される。

『今日は急に話しかけてしまってすみませんでした! 今度ぜひ飲みに行きましょう!』

君の言葉に胸を打たれた。私なんかに気を使ってくれた。

君の誠意には応えたい。どうやって返事を返そうか。

考えながら服を着替える。やはり無難に返すのが一番だろう。

『こちらこそありがとうございます! 私は土日が休みなので、その辺りで行きませんか?』

送信してからふと気がつく。

明日も土曜日だ。明日と言われてしまったらどうしようか。

一夜では心の準備が出来ない。そもそも、今夜だってどう過ごせばいいのか分からないのに。

そう思ってスマートフォンを握りしめていると、通知音が鳴った。

『いいですね、では来週はどうですか?』

ほっとした。君だって疲れているのだろう。

会社の人達に囲まれるのが得意ではないけれど、囲まれるのを拒否出来なくてきっと疲れてしまったんだろうな。

『来週空いてます。そこでご飯いきませんか?』

すぐに返事が帰ってくる。

『ぜひ行ましょう! 来週土曜日で大丈夫ですか?』

きの抜けた返事が帰ってきた。

『大丈夫です! 一日暇です』

『了解です! 店は任せてください。予約取れたらまた連絡します』

任せてしまっていいのだろうか。

妙な雰囲気の店なら嫌だが、君がどんな店を選ぶのかも気になる。

けれど、君と二人ならどこでも良いのかもしれない。考えるだけ無駄だ。

『分かりました、何から何までありがとうございます。土曜日楽しみです』

ちょっと君に頼りすぎたかもしれない。一度しか会ったことがないのに、こんなに信頼していいものなのだろうか。

そのまましばらく待ったが、返事はなかった。君は眠ってしまったのだろう。

メッセージアプリを閉じた。

そのまま布団に入る。

眠れるだろうか。心の中に燃え上がる炎が消えない。

この炎は何の炎なのだろうか。燃え上がり、この身を焼き尽くしてしまいそうだ。

君に出会ってから火種が生まれてしまった。どうすれば良いのだろうか。

考える程、思考の中に君が忍び込んできて支配される。他のことを考えていてもそれは鎮火しない。寧ろ大きくなる。

苦しい。炎に焼き尽くされて苦しい。この苦しみから逃れるには、この炎を消さなければならなかった。

この焼き尽くされてしまうかのようなな苦しみも心地よくなる時が来るだろうか。今はまだ触れることが出来ないけれど、いつか触れることができるだろうか。

激しい熱にうなされて、眠れない。そう思って幾度も寝返りを打つ間に眠りに落ちていた。

夢を見ない眠り。朝の気だるい空気。私は朝が 一番嫌いだ。誰かに見られている気がしてたまらない。

冷静になってみると自分の異常さに驚く。昨日会ったばかりの人に、心を許そうとしている。食事に行こうとしている。

炎が私を焼く前に引き返さなければならない。だが、もっと踏み込んでしまいたい。

そういえば、君との食事は、どこへ行くのだろうか。薄暗いバーだろうか。それともタバコ臭い居酒屋だろうか。はたまた気取ったレストランか。

椅子の間隔が狭いところは嫌だな。トイレに行きにくいのは嫌い。そういう所で無ければどこだろうと行くのだけれど。

そんな事に思いを馳せていたら、一日が終わって行く。

生きることに必死になっていると、四日間も君から連絡が無いことに気がついた。毎夜毎夜眠る度に見える炎は変わらず燃え続けている。

帰りの電車の中、窓の外だけが動いていた。

やはり、ただの気まぐれだったのだろうか。そう思っていた時、君から英字と記号の羅列が届いた。

青く表示されるそれを触る。

画面一杯に赤い枠が広がった。赤は食欲を増進させる色。

その中に店の内観、食べ物の写真。ここに行くのだろうか。

他に添付されている写真を見る。席はそんなに詰まってなくて広そうだ。紹介欄には全席半個室。オシャレな店内。リーズナブル。お酒が美味しい。そう羅列してある。

レビューを見る。皆口々に美味しいやら楽しいやら書きこんでいる。信用する気はないが、どうやら酷い書き込みは無さそうだ。

そのまま読み進めていると、

『半個室でゆったりと過ごせます! トイレも綺麗でした!』

と書き込んでいるのを見つけた。大丈夫そうだ。写真を見た限り綺麗そうなのは事実らしい。オープン二年未満のお店らしいので摩耗して汚いところは他と比べて少ないだろう。

早速君にメッセージを送る。

『ありがとうございます! 美味しそうです』

気に入らなくても了承するつもりではあったが。

しばらくして、君から日時の連絡が来た。

約束の土曜日。夕飯には少し早い時間。

君は私に長く会いたがっているのだろうか。早計だ。君が私と同じ熱を感じているなど、無駄な期待をしない方が良い。

それでも早い時間に会えるのはありがたい。

了承の旨を伝えると、スマートフォンを裏返してそのまま目を閉じた。

相手が誰であろうと、メッセージのやり取りは疲れる。いつだって人間同士の会話というのは無駄なエネルギーが多すぎる。けれど、君と話していると、その無駄なエネルギーも必要な気がして堪らない。

私の中で何かが生まれようとしているのかもしれない。この無駄なエネルギーはそれを産み出すのに必要なエネルギーだ。

 今は、このエネルギーに身を任せるべきなのかもしれない。ここから生み出される物こそ、私の愚鈍な世界を変えてくれる物だから。

 布団に潜りこむと、心臓が愚かなリズムを奏でていた。そのリズムに合わせて羊を数えていたら、そのまま眠ってしまった。


君の夢を見た。

顔も姿も全部真っ赤だったけれど、確かに君だった。

その声。話し方。ふんわりと香る、焼け焦げた匂い。それは全て本物では無いけれど、私は確かにそれを君と認識している。

それだけが、君の全てだった。

君は夢の中でただ揺らめいていた。実態のない炎はこちらに近づいているようでもあり、遠ざかっているようでもあった。私はそれから逃げることも、追いかけることもしなかった。けれどそれが愛おしいのかもしれない。

炎は形を変え、私の周りを取り巻く。そして、優しく包み込む。私はそれに身体を預けようとした。

それが、苦しい。

目が覚める。

いつもの天井が私を出迎えた。

怖い。自分の中にある物が怖かった。自分のいる世界を目の中に刻めば刻むほど、恐ろしかった。心臓が、爆音を鳴らしながら揺れている。


土曜日。

土曜日だ。夢のせいだろうか。楽しみより不安が勝る。

あの炎なんかに不安を抱く必要などないのだ。ただの夢だ。

Tシャツの裾を握りしめて改札を出る。私は今どんな顔をしているだろう。

いっその事、この顔がのっぺらぼうだったらいいのに。いや、誰も私の事など見ていない。気にする必要などない。

駅の中は騒がしい。色々な人が入り乱れ、熱気が駅構内に溜まる。じわりと汗が皮膚から染み出した。

西一番出口。君は待ち合わせの場所をそこに指定した。真っ直ぐ改札に向かうと、西一番出口を探す。改札の名前を確認しようとして上を見上げた。

緑の看板に白い文字で東側改札と書いてある。

絶対に真逆だ。

踵を返してホームに戻る。反対側の改札に向かえば、きっと西一番出口が見つかるはずだ。

まだ待ち合わせの時間までは余裕がある。焦らなくても良い。

長いホームを歩いていくと、改札が見えた。

緑の看板には西側改札と表記されている。安心して改札を抜けた。

ICカードをリュックにしまいながら、右を見る。左を見る。

西一番出口なんて無かった。

目に入る出口は西二番出口、そこから三番、四番出口が二つあって、五番出口があるだけだった。何故か一番出口は存在しない。

何はともあれ一番出口はここにはない。

大きな案内板に駅の地図が載っていた。一番出口を探して目を走らせる。

どうやら二番出口横の通路をずっと歩いていけば、一番出口があるらしい。

とにかくそこを歩いていくしかない。目的地に向けてコンクリートの通路を歩き始める。

歩いても、歩いても西一番出口は見つからない。そして、見つからないまま、外の光に照らされる。

慌てて出口の名前を確認する。

バスターミナル前出口だった。

腕時計に目を向ける。

約束の時間まであと十分を切っていた。しかし西一番出口は見つかりそうに無い。

君に連絡をするべきか。いや、こんなつまらない事で君の手を煩わせたくない。

案内板を探してそのあたりをうろうろする。ただ、駅の周辺を徘徊するばかりだったが、もう一つ大きな出口を見つけた。近づいてみると、そこが西一番出口の様だった。

君がいる。昨日まで真っ赤な炎だったのに、今日はしっかり実体を持っていた。

白いパーカーとジーンズを着ている。私と似たような色の洋服ではないか。君とペアルックだと思われてはたまらない。君に迷惑をかける。だが今更着替えることも出来ない。腕時計は約束の時刻を知らせていた。

君と同じような服を着てきてしまったのは、相性が良いということにしよう。

外側の入り口から、のこのこと出向けば、駅の中を迷っていたことが露呈してしまう。

駅構内から出てきたかのようにして君の方へ向かうしか無い。

人混みに隠れて駅側まで回り込む。君は気づく様子もない。

無事に回り込むと君に向かって歩き出す。

このまま真っ直ぐ君の前に向かってしまったら、君に少し前から気がついていたことに気が付かれてしまうのでは無いだろうか。

辺りを見渡し、君を探すふりをした。

君は私に気がついて、軽く手をあげてこちらに合図をした。

君は少し妙な顔をしている。もしかして、私がこの辺りを徘徊していたのを見られていたのだろうか。

小走りになる。そもそも時間にも遅れている。

「すみません、遅れてしまって」

少し息切れをしたようにそう言う。

「いえ、時間ぴったりですよ。それじゃあ行きましょうか」

君は進行方向に手のひらを向けた。それに従って歩き始める。

少し歩いても、君は何も言わなかった。もしかして、時間に遅れていることを怒っているのだろうか。

「本当にすみません。駅の中で迷ってしまって」

ぴりりと緊張が走っている。君は下を向いていて、こちらを見ない。

「この駅わかりにくいですよね。同じ名前の出口が何個もあるし」

君は下を向いたまま、案外明るく言った。怒っていないのかもしれない。一縷の期待を残す。

「そうなんですよ、何回来ても覚えられなくて」

私も君に倣って地面に目線を落とす。

「私も通勤で使ってなかったら覚えられないと思います」

君は、より真っ直ぐ正面を見た。君は私を見たくないのだろうか。

君が右に曲がるのに合わせて右に曲がる。

雑踏の音が大きくなる。君はまた黙ってしまった。何か話さないと。君はやはり怒っているのだろうか。この空気に耐えられない。

「この辺りの地理に詳しいんですね」

信号を待つ間、私はそういった。口元に笑みを作る。しまった、さっき同じような話をしたばかりだ。

「ま、まぁ。仕事終わりに飲みに寄ったりするので」

やっぱり君が返事に困ってしまった。君を困らせるなんて、やっぱりこの誘いに乗らなければ良かったかな。君に迷惑をかけるだけなのだから。

信号が青になれば皆、一定方向に向かって歩き出す。横断歩道の白い縞を見て歩いていたら、君にぶつかってしまった。

「すみません」

「大丈夫です。私も右に行くって言ってなかったので」

ぶつかった時に、私の気持ちが読まれていないだろうか。不安で仕方ない。

君を見る度に燃え上がるこの炎に、君は気がついてしまっただろうか。いっその事、君もこの炎に包まれてしまえば、この心配も無くなるのに。君は、知ってか知らずか顔色を変えない。

コンクリートの道を真っ直ぐ歩き続けると、それと共に人通りも少しずつ減ってきた。確かに店はこちらの方向だったが、本当にこんなに薄暗い道なのだろうか。

本当に夕飯に行くだけだろうか。

やたら白く光るデンタルクリニックが見えてきた。こんなところにデンタルクリニック。ここは飲食街ではなく住宅地では無かろうか。

左に曲がり、ビルに囲まれた薄暗い道まで連れてこられた。ここまで来てしまったら、もう後戻りは出来ない。

コンクリートに転がる小石を見つめた。

沈黙が二人を貫いている。何か明るい話を。

「この辺りにはあまり来ないんですか?」

私はそう言う。君の方を見ると、君はこちらを見ていた。目が合う前に君の瞳は彼方を見る。

君は何か隠しているのだろうか。このまま、引き返すべきなのだろうか。

いや、私が引き返したくない。

このまま進めば、炎に身を焼かれるというのに、進む足が止まらない。

理解するより先に、歩いているようだった。

「まぁ、そうですね。駅の周りで飲むことが多いので、この辺りにはあまり来ないですね」

今、なんで言っていたのだろうか。自分の置かれている状況が分からなくなってしまった。現状が把握出来ない。

「ですよね」

当たり障りのない答え。この話に続きがあるのならば、君が先に話し始めるだろう。

君はしばらく何も口にしなかった。

「あ、あれですね。その、まだ寒いですね」

君は少し明るく言った。道の暗さと相まって、なんだか妙な感じがした。

「そうですね、まだ夜は寒いです」

そう言葉を投げる。会話はそこで途切れた。あの日はあんなに楽しく話せたのに、なぜだろうか。

その日のことを思い出している間に、店のある雑居ビルの前に着いていた。

君も顔を上げたので、私も顔を上げた。四階に、見覚えのある名前が刻まれている。誘われるがままエレベーターに乗りこむ。

エレベーターは、二人入って少し余裕がある位だった。

君が開くボタンを押して私の事を待ってくれている。私が乗り込むのを確認すると、君は扉をきっちり閉めて、四階を押す。四という数字が光り私たちに行き先を告げた。

古いエレベーターの動く音だけが響いている。

どこを見たらいいか分からなくなって天井を見上げた。染みだらけの天井。光量の変化する電灯。君との距離が遠く感じた。

エレベーターの扉が開く。

君は左右を見回してふらふらと左に向かっていく。左側には茶色の扉。

小さなプレートには金文字で店の名前が刻まれていた。

扉を開ける。少し暗い店内で、エプロンを付けた店員がゆったりと動いている。いかがわしい店では無さそうだ。胸を撫で下ろした。

「あの……予約していたんですが」

そう言うと店員はくるりとこちらを向いた。

「あぁ、六時に二名でご予約された……」

「そうです」

「ではこちらへどうぞ」

店員に案内されるがまま歩いていく。

カーテンを引くと、小さなテーブルと椅子。

「ではごゆっくり。注文が決まりましたらお声がけ下さい」

カーテンを雑に閉めて店員は行ってしまう。

布に囲まれた空間に二人でいると落ち着かない。君は今何を考えているのだろうか。君は私に何を感じて食事に誘ったのだろうか。

メニューに手を伸ばす。癖のある字体で様々な料理の名前が書き連ねてあった。

こういう時、どういう物を頼めばいいのかいつも分からない。沢山頼んでしまったら、悪印象だろうか。よく食べる人は嫌われるだろうか。

首を捻っていると、君が一緒にメニューを覗き込む。

「なにか食べたいのありますか?」

特にないと言おうとして口をつぐむ。誘ってもらってるのに、そんな態度は良くない。

「いや、全部美味しそうで、悩んじゃいますね」

「あ、ですよね。じゃあ、なんか適当に頼みます?」

君はもう決まっているような雰囲気だった。

私はこういう注文は慣れていない。君は慣れているのだろうか。任せてしまった方が良いのかもしれない。

カップルの声が、細々と聞こえてきた。カーテンで仕切られた向こうにいるらしい。

「はい、えっと、お任せしてしまって良いですか?」

「え、えぇ、もちろん。任せてください」

メニューを渡す。君はしばらくメニューと睨み合っていた。決まっているような態度だったけれど、君もメニューを選ぶのが苦手なのかもしれない。そんな君に注文を任せてしまった罪悪感と共に、安堵から来る暖かさが胸に広がった。

「そうだ、飲み物何にされます?」

そう言われてドリンクメニューに手を伸ばす。様々な種類の酒があった。君に教えてもらったスクリュードライバーもある。

ワインがオススメだと大きくメニューに書いてある。ここはワインだろうか。しかし、ワインだとすぐに酔ってしまいそうだ。少し飲みやすいサングリアにしよう。

「じゃあ、赤のサングリアで」

「分かりました、一緒に頼んじゃいますね」

君はカーテンを少し開けると、手を挙げて店員を呼んだ。

君がなにかよく分からない食べ物の名前を羅列している。それを店員は繰り返しながらメモしている。

店員が何か言った後カーテンを閉めて消える。

隣に座るカップルの声が聴こえてくる。何を話しているのだろうか。聞き取ろうとしても聞き取れない。私も同じようにすれば、君に好かれるだろうか。

 私はどうしたら良い。

カップルの惚気けた話は真似できそうにない。私たちより二人はずっと濃い関係性なのだ。聞けば聞くほど、話す気力も失われる。

あんなふうに好きという言い訳をつけて君と話すことが出来ればどんなに良いか。私は君の心を掴むきっかけが分からない。

こうしている内に、私は炎に飲み込まれて焼けてしまう。

「ワイン好きじゃなかったですか?」

君がこちらを向いている。君の後ろのカーテンが少しだけ揺れていた。

「ワイン好きです。けど、今はサングリアの気分ですね」

机の上のメニューを少しずらした。隣のカップルの甘い囁きが聞こえる。

君は何も言わない。君もどう話したらいいか悩んでくれているだろうか。私と同じように悩んで、苦しんでいてくれればいいのだけれど。

まもなく、ドリンクが運ばれてくる。

店員がぶっきらぼうにドリンクを置いた。

君は少し遠いサングリアをそっと私が取りやすい位置に置いてくれる。

「乾杯しましょうか」

そう言って君はグラスを持ち上げた。

私もそれに合わせてグラスを持つ。

「乾杯」

二人、声を合わせてグラスを合わせる。

力加減が分からなくて、君のグラスを割ってしまいそうだった。

口をつければ、アルコールが脳まで支配する。

こんなに酔いが回るのが早いのはどうしたものだろうか。君のせいで酔いが早く回っているのだろうか。慣れない他人との食事だからだろうか。

君を見ると、君の耳が赤くなっていた。アルコールが強いと言っていたのは強がりなのかもしれない。

「美味しいですね」

そう言うと君がゆっくりと振り向いた。君は今にも壊れそうな顔をして鼻まで赤くしていた。

「ですね。葡萄の香りがして」

君はそう言って目を伏せた。

胸を撃ち抜かれる。

目の前が徐々に白んでいく。首の後ろが暑い、脳髄を掴まれているみたいだ。

君の小さな吐息が、室内に蔓延して、私は思わず息を止めた。

その空気はアルコールより強い。強く、私を蝕む。

熱い、痛い、苦しい。

炎はついに私の身体を焦がし始めた。

食事が運ばれてくる。

意識を現実に戻すと、君が食べ物を綺麗に机の上に並べていた。

私は慌てて小皿の中にサラダを詰め込む。大体半分取り分けたところで君に差し出した。

「ありがとうございます。すみません、取り分けてもらってしまって」

「いえ、これくらい大丈夫です」

ぷつん、と会話が途切れてしまう。自分の分のサラダも分けてしまうと、サラダの入っていたボウルを端に押しのけた。

もう君の事を直視できない。君を見る度に炎は激しさを増して苦しい。

机の上にはピザが乗っていた。これも切り分けないといけない。

私はピザカッターを手にしようとした。手が重なる。

燃える。手から炎が出て燃えてしまう。

「あ、私が切りますよ。サラダも分けてもらっちゃいましたし」

君がそう言う。耳からも炎が出る。

「いえ、私もお店とか全部予約してもらっちゃったので」

同時に手を引く。君は手を引っ込めてしまった。

私が切ろうと手を伸ばすと、君も手を伸ばす。互いに出した手を見て再び手を引く。君が手を伸ばした時、私も手を伸ばして、引く。

何度も繰り返しているうちに、面白くなってしまった。笑い声が喉から漏れる。

君が神妙な顔をしながらこっちを見た。

「全然息が合わないですね」

笑い混じりにそう言うと君もつられて笑い出す。耳の炎はより激しく燃える。

けれど、そんなことはもうどうでも良くなってしまった。君が笑っていると、苦しさなど飛んでいってしまう。

笑い声が響いた。

「もう、私切りますね」

隙を見てピザカッターを掴む。

「四等分ですかね。六等分?」

「六等分に切ろうとしてました」

そう言ってピザの真ん中にピザカッターを走らせる。

そしてまた、カッターを走らせ、最後にもう一度ピザの上を走らせた。

六等分に切り分けた。不格好な六等分。等分とは言えない程不平等な大きさになってしまった。

君はそれを見て笑い出す。

「すみません、綺麗に切れなくて」

「いや大丈夫ですよ。左右対称だから食べる量は同じですし」

二人で顔を見合わせた。君は笑っている。

「じゃあ、食べましょう」

そう言って君はピザを口に運ぶ。ピザに乗った柔らかいチーズを君は熱そうに噛みちぎった。けれどまだ熱いからか、チーズは伸びてしまって噛みちぎることが出来ない。

君はピザと顔の距離を伸ばして、必死にチーズを噛みちぎろうとする。やっとの事で噛みちぎると、伸びたチーズが君の口からだらりと垂れた。慌ててそれを口にしまうと、君は照れくさそうに笑う。

口を必死に動かして、ピザ生地と、チーズを噛み砕いていく。先程まで、綺麗な形をしていた物は、君の口の中で噛み砕かれて原型を無くす。それを君はごくり、と飲み下した。

「チーズ、熱いので気をつけてください」

「あ、はい、気をつけます」

私もピザを口に運ぶ。

溶けたチーズが舌の上を侵す。

あまりの熱さに思わず吐き出しそうになる。しかしそれに耐えて、チーズを引きちぎり、ピザを必死に噛み砕く。

君を見ると、君は私の方をみて微笑んでいた。

「猫舌なんですか?」

私は頷いた。

「かわいいですね」

はっ、として君のことを見る。

燃える。私の中身全てが燃えた。様々な場所から火の手が上がり、全てを焼き尽くす。

「ピザ、もう少し冷めてから食べましょうか」

君はそう言いながら目を逸らした。

言葉が何も出なかった。大きく頷く事しか出来ない。

「やけどしないでくださいね」

君はフォークをサラダに突っ込んだ。

「はい」

サングリアを飲み干す。アルコールで喉が焼けそうだった。

氷が音を立てて崩れた。君もワインを飲み干す。空になったグラスが二つ、机の上に置かれた。

「あ、なにか頼みますか?」

君に尋ねると、君は困ったように目を動かした。

「あ、じゃあ同じワインで」

それを聞くと、カーテンを少し開けて手を挙げる。店員が気づいてこちらにやってきた。

「ご注文は」

店員がメモを構えた。

「はい、えっと、赤ワインと、スクリュードライバーを」

店員は注文を繰り返した後、カーテンをくぐって戻っていった。

君が小さく声を立てて笑っている。

思わず君の方を向く。それだけで全身が熱い。

「あ、いいえ、すみません。この前一緒に飲んだスクリュードライバー、覚えていてくれたんですね」

調子に乗って頼んだのを嘲笑されているのだろうか。けれど君の笑い顔は見ているだけで楽しい。穏やかになる。

「すみません、馬鹿にしてる訳じゃないです。覚えていてくれていたのが嬉しくて、笑ってしまいました」

そう言いながら君はまだ笑っていた。私がスクリュードライバーを頼んだだけで嬉しがってくれるのか。私も嬉しい。

「お待たせ致しました」

店員が二人の間にスクリュードライバーとワインを置く。

飲み干したグラス二つを持って店員は消えた。

もう一度、乾杯。

一口カクテルを飲むと、君はこちらを見ていた。

「美味しいですか?」

「あ、はい。美味しいです」

頷くと、君はにっこり笑った。

「良かったです」

炎は私を焼いていたが、今は酷く穏やかだった。暖かい。


他愛のない話ばかりしていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。

時計をふと見ると、この店に着いてから二時間程経過していた。

私は何杯目かのスクリュードライバーを飲み干した。君も五杯目のワインを飲み干す。

「そろそろ、お店出ます?」

「うーん……うん、そうですね」

口元に笑みが浮かぶ。少し我を失っている気がした。

会計をして外に出る。君が財布を出すより前にきっかり半分の額を出した。

エレベーターの中で微睡んで、ふらふらビルから抜け出す。

二人の間を冷たい夜風が駆け抜けた。酔いを覚ましてくれた気がする。

炎による熱さはそのままだった。

「また、また会えますかね」

君は歩きながらそう言った。

「また、会いたいです」

君といると炎が穏やかになる。苦しくなくなる。また会えれば同じように穏やかになるだろうか。

空を見上げた。この街は夜でも明るい。この薄暗い道の中にいると、その明るさがよく分かる。

「次、遊園地行きましょう。嫌じゃなければですけど」

 君はふと、まるで言うつもりは無かったようにそう言った。

少しだけ迷って、

「はい」

と言った。

君は何も言わない。

私も何も言わない。

まるで、声を出す事が罪であるかの様。

明るい通りに出る。交差点。二人の間に音が戻る。

駅まで辿り着いた。

「じゃあ、私はこの辺りで」

「あぁ、そうなんですね」

君は口元を緩め、目を少しだけ閉じた。

心臓が、愚かな音を奏でる。苦しい。

君に聞かれていたらどうしようか。君に気が付かれるのが恐ろしくなって慌てて改札に向かった。

改札に向かおうとした後ろ姿に、君が小さな声で叫んだ。

「あの、また空いてる日とかあったら連絡しますから」

その姿は人混みにかき消されてしまいそうで、それが堪らなく愛おしかった。

「待ってます」

君の顔を見ずに改札を通る。

見たくない、君の顔は見たくなかった。

あんなに真っ直ぐな君に、汚れた私は似合わない。私の炎で君を焼きたくない。

私は薄汚れた街に帰るのだ。薄汚れた家に帰るのだ。


家に着いた。

君から何かメッセージが来ていたが、読む気になれなかった。こんなにもどうしようもない熱を持っているのに、近づきたくない。きっと私は君を汚してしまう。

君を今日の事を頭から追い出そうとすると、炎は大きくなっていく。苦しい熱。

熱に浮かされたまま、布団に入る。眠ればきっと熱は引く。

目を開けた時には、忌々しい朝が私を照らしていた。

炎は鎮火しない。


遊園地へ行く事になったのはそれから一ヶ月後のことだった。

本当に君に誘われたのか、騙されてやしないかと思い、予定を伸ばしていってしまった。

けれど、その間断り続けていたことが、心苦しい。今更、偽善なのだが。

『今週土曜日なら大丈夫』

怖々とメッセージを送る。最後に絵文字でもつけた方が良かったか。大丈夫って言い方、偉そうじゃないか。

『ありがとう。じゃあ今週土曜日で』

すぐに返信が来る。

『うん、楽しみにしています』

返信した後に敬語とタメ口が混ざった文章になってしまっていることに気がつく。けれど君はこのメッセージを読んでしまったみたいで、今更取り消ししてもなんだか感じが悪い。そのままにしておくしかないだろう。

そもそも、君は急に血迷ってしまったとしか考えられない。二人で食事に行くことすら気の迷いとしか思えなかったのに、遊園地へ誘われるとは。何を考えているのだろうか。

今考えると、軽率に食事に私の事を誘うなんて、案外君は人たらしなのかもしれない。他の人にも同じようにしているのだろう。

今日は木曜日。あと二日もある。二人で出かける予定があるという重圧感に、二日間潰されてしまうのか。苦しい。明日は仕事だ。仕事など手につくはずも無い。いっその事、事故にでも遭って入院できれば休めるのだが。

だがダメだ、そうなると君と遊園地に行けなくなる。それは良くない。君との約束は何があっても守りたい。

ため息をつくと、布団の中に潜り込んだ。諦めて明日は仕事に行こう。しょうがない。君との為に、一日くらい頑張ろう。

布団の中は熱かった。

金曜日。

仕事をどうにか終わらせる。急いで家へと帰る。明日は朝早いから、早く眠らないと。

声をかけられないこの性格が幸いした。そう、私は誰にも誘われない様な人間なのだ。やはり君が私を遊園地に誘ったのは、何かの間違いなのかもしれない。

明日、待ち合わせ場所に向かったら、きっと君はいない。そうだ、きっとそうだ。二回も君に会えるなどそんな事があるわけないのだ。メッセージを送る相手を間違えたのだ。

そんな事を考えるなど君に失礼だ。けれど明日、君が待ち合わせ場所に来ないことを願っている自分がいた。

明日の準備をする。

遊園地に二人で行くのだから、それっぽい服の方がいいだろう。前の様にジーンズにTシャツでは、申し訳ない。ワンピース。そうだ。有事の際に使う用にと、昔買ったワンピースがあったはずだ。Tシャツ以外の服がこれしかないという理由もあるが。甘い雰囲気とは程遠い服装だけれど、Tシャツよりは良いだろう。

鞄を引っ張り出し、見栄えが悪くないくらいに埃を除去すると、中に財布やらを詰め込んで枕元に置いた。ワンピースの埃もちゃんと除去した。ほつれも無い、ウエストの紐の結び方も決めた。

きょうもまた、布団の中に潜り込む。

心臓の音が聴こえてくる。

この心臓はどうしてこううるさいのだろうか。嫌になる。

土曜日。

待ちに待った土曜日かもしれない。

嫌になるほど晴れ渡る空。ゆっくりと皮膚に染み込むような日差し。雲ひとつない空を見て、私は不安になってしまう。この二日間は長かった。家で考え込んでいると、身体が燃え上がってしまいそうで苦しかった。だから、予定よりかなり早く家を出てきた。

待ち合わせは十時。遊園地の最寄り駅の東口の改札前で待ち合わせ。私は最後の乗り換えの電車を待っていた。

ここから乗り換えて、遊園地方面に向えば、十分程度で最寄り駅に着く。けれど今はまだ九時過ぎだった。五十分前に集合場所に着くなど、馬鹿らしくは無いか。どうせ行ったところで誰も来ない。そんな可能性もあるのだ。

もし君が来たとしても、優しい君は、自分が後から来たことを謝るかもしれない。君の口から謝罪の言葉など聞きたくない。

けれど、遅く行った場合、君を待たせる事になる。それは良くない。前回も遅れてしまったのだし。

ちょうどぴったり着くのがいいのだ。君は何時に着くのだろう。君の事だ。十分前には居るだろう。少し多めに見積もって十五分前に着ければちょうどだろう。

誤差があっても五分。その位の誤差なら許されると信じたい。そうすると、待ち合わせ時間まで約四十五分ある。その間、どうしていようか。

カフェに入るような気分ではない。だからと言って、ホームをうろうろする訳にも行かない。

何となく、改札内にある柱の横に立って待つ。暇を潰しているのがバレてしまうと、怪しく思われてしまいそうなので、待ち合わせをしているフリをしていた。

時々、改札の方を覗き込んで、来るはずもない誰かを探す。スマートフォンに目を落として、連絡を待つ様な顔をする。君からはまだ連絡が来ていない。

君はまだ目的地に着いていないようだ。安心してそれを胸に抱え込んだ。

人々は、波のようにうねりながらホームの中に入り込んでくる。遊園地の最寄り駅くらいしかこの路線には人気のある駅はないのだが、人で溢れている。早くから遊園地に行こうという人も多いらしい。

遊園地目当ての家族連れやカップルが目につく。仲睦まじく、二人寄り添い歩くカップル。世界には自分たちしか居ないとでも言うように、互いの事しか見ていない。

私も、こんな風に君と二人歩くようになるのだろうか。君を目の前にしてしまえば、人の目など気にならなくなってしまうのだろうか。私のような人間が、君の隣を歩くなんて、今考えると信じられない。

目の前を歩くカップル達は、どんな気持ちでいるのだろうか。今すぐそれを知りたい。きっと君と話す際の参考になる。

時計に目を落とした。時計はもう九時半を回っている。この三十分は私が待ちたくて待った時間だった。

流れる人々を眺めているだけの時間が、私にとって心を落ち着かせる大切な時間だった。ましてや相手が君なら尚更、この時間が大切なのだ。こうしないと君と会うことは叶わない。

業火に焼かれて死んでしまう。

三十五分になる。スマートフォンを確認して、相手から返信がきた風を装う。何気なくポケットにしまい込んで、ホームに出来ている列に並ぶ。

電車はホームに時刻表通りに滑り込んできた。

開いたドアから人が降りてくるのを待って、乗り込む。乗り込んだ瞬間に慌てて出てきた人とぶつかった。

座席がひとつも空いていなかったので、閉まるのを待ってから扉の横に寄りかかる。

電車が動く。ここから十分間の小旅行。窓の外を見つめてみる。

知らない景色が、どんどん後ろに流れていく。景色の奥の方に、ビル群が建ち並んでいる。私がそのビルに足を踏み入れることは一生無いのだろう。

こんなに人間の世界が目の前に広がっているのに、私はほとんどの世界を知らずに息絶える。

今日会う君も私の知らない世界の一つだ。

車内を見渡すと、人々は皆、手元の小さな機械に夢中だった。恋人たちも、寄り添ったまま手元に目を落としている。考える気が失せてしまった。

何を考えても無駄な様な気がしてしまう。私のような人間が君や、世界について考えるより、機械に答えを問う方が圧倒的に早いのだから。

私も君とのこれからを聞いてみようか。

きっと、そこに出てくる答えなどまやかし。まじないにもならない。

駅に止まる。三つ目に停まるまで、私はただ、車窓の景色のことを考えていた。君の事を考えないようにしていた。けれど、考えなければ考えないほど、炎は激しさを増して、私を苦しめる。

約束が私の見た幻で、君が待ち合わせ場所に来なければどんなに良いだろう。君が来なければ、君を諦められるのに。

四つ目。遊園地の最寄り駅。電車から降りる。まだ九時四十分過ぎ。

少し早く着きすぎたか。けれど遅いよりは良いだろう。今着いたと言えば君が謝罪することも無い。

改札へと通じる幅の広い階段を駆け下りる。改札を抜けると、人の波は散り散りになって、光が私の身体に向かって飛び込んでくる。

「あっ」

思わず声を上げる。君が柱の前で、手を振っているのが見える。約束は幻では無かった。

君を見てしまうと、君が来ない方が良いなんて考えていた自分が信じられなくなってしまう。

君の方が早かったのも、自惚れる事が許されるのならば、私を待たせないように気を使ってくれたとも考えられる。

私のただの妄想に過ぎないのだが、今日君の隣に居ることを許されたような気がした。

熱い。

君にかける一言目は何がいいだろう。とりあえず、遅れた事を謝罪するのが良いだろう。

「すみません、待ちましたか?」

「いいや、今来たところです」

君は朗らかに笑った。

痛い様な陽光の暑さも、君の笑顔には敵わない。慣れないワンピースが足にまとわりつく。君はその裾までじっくりと見つめていた。

「なんか変ですか?」

「いや、すごく似合ってる」

君は、私を褒めてくれた。お世辞だろうけれど嬉しい。少し距離が縮まったと考えて良いのだろうか。

「ありがとうございます」

君はあの素敵な笑顔を見せた。君の笑顔を見て、炎が燃え上がる。一ヶ月会わなかった分、燃え上がってしまうのだろうか。苦しくなった。けれど、今日は君の事以外考えたくない。

「じゃあ、行こうか」

チケット売り場まで二人隣合って歩く。君の方など見れない。気がつくと、自分のつま先だけを見て歩いていた。

「あんまり遊園地とか来ない?」

君が話しかけてくる。

どう答えるのが正解だろうか。

あまり来ないのか、と聞かれているという事は、私はどちらかというとあまり遊園地に来ないと思われているということだ。君の期待を裏切らない為に、同意した方がいいのか。

そうすると遊園地に興味がないと思われてしまう。それは避けたい。こういう時は嘘ではない範囲で、中間の返事をするのが一番良い。

「え?いや、たまにです」

少しとぼけたように言った。

もしかしたらとぼけない方が良かったかもしれない。君の様子を伺う。

その横顔は、にこやかだった。顔が燃え上がりそうだった。私はつま先に目線を戻す。

「そうなんですね。好きなアトラクションとかあります?」

私は少し首を傾げた。

「うーん、悩みますね」

何を言うのが良いだろうか。

私が好きなフラワーファンタジーを口にしてしまおうか。 ただお喋りする花の妖精達をじっくり見る子供向けのアトラクションなど、この歳になってまで好きとは言えない。

君は優しいから、きっと否定もしないし、一緒にアトラクションに乗ろうとしてくれるだろう。

「でも」

フラワーファンタジーと答えるべきではない。好きな乗り物は、二人で一緒に乗れるものがいい。かつ、君の好きそうなもの。

「やっぱりジェットコースターですね」

ジェットコースター、何があったか思い出せない。

確か一番人気のジェットコースターは、コスモコースターだったか。いや、ギャラクシーコースターだった気がしてきた。

「ほら、あの、暗い道を進んでいく……」

「あ!コスモコースターか! 楽しいですよね。私も好きです」

コスモコースターで正解だった。

「え、ええ、私も!」

チケット売り場にたどり着く。土曜日の朝ということもあって、売り場には長蛇の列が出来ていた。

「今日は絶対にコスモコースターに乗りましょう!」

君は元気いっぱいに言った。これはこれで不要な気遣いをさせてしまったかもしれない。

私は我儘を言って、君を困らせてしまっている。恐ろしい。

列は進んでいき、みるみるうちにチケットを買う順番が回ってきた。

君を見ると君はなにか考え事をしているのか、前の客がチケットを買い終わった事に気が付かないようだった。

「ねぇ、順番ですよ」

君に声をかける。この言い方、私が買えって命令しているみたいだ。

「あ、ありがとうございます。大人二枚お願いします!」

「はい、大人二名様ですね」

穴の空いたアクリル板越しに受付がそう言う。君は差し出されたチケットを手に入場口へと向かった。楽しそうに歩く君を見ていると、自分が認められた気がして嬉しかった。

遊園地の中は、大量の音と様々な色で飾り立てられている。

愛くるしいキャラクター。柔和な色合いの建物。マーガレットやヒマワリを模した造花があちこちから降り注いでいる。

愉快な音楽が反響して、私の頭の中をドラムが揺らした。エプロン付きのワンピースを着た店員たちが私たちに笑顔を投げる。

「ようこそ!」

花が沢山付いたヘッドドレスを付けて、花の妖精達が、笑顔を振りまく。フラワーファンタジーに出てくる妖精達だった。

私は一番好きなトケイソウの妖精を探した。けれどトケイソウの妖精はどこにもいなかった。

それもそうか。ほとんど人気のないマイナーなキャラクター。わざわざ衣装を作るほどの無駄な予算も無いだろう。

私はひらりと落ちてきた花を手に取ると、じっと見つめた。ひまわりの花弁だった。フラワーファンタジーにはひまわりの花の妖精など居ない。ザラザラした花弁を指でつまんで擦る。イベントの為に作り出されたひまわりのキャラクター。

ひまわりは綺麗な花だから、人気があるのだろう。トケイソウみたいな地味なキャラクターなんかよりも。

花弁を手のひらに乗せて息を吹きかける。花弁はひらひらと飛んでいって、スミレの妖精の足元に落ちた。

妖精はそれに気がついたようで、花弁を拾い上げると、にこりと私に笑いかけた。

「行こう! 早く行かないと、アトラクション乗れなくなっちゃいます!」

君に声をかけられて我に返る。

妖精に声をかけようとしていた自分に気がついた。私は何を考えているのだ。

「うん!」

大きく返事をする。

君に手を取られて歩き出す。君の手は暖かかった。私の手なんかより、ずっと。

君はどんどん歩いていく。遊園地が楽しいのだろう。繋いだ手に反応して、心臓が哀れなくらい大きな音を奏でる。こんな風に君も想っているだろうか。分からない事が苦しい。

君について行こうと必死だったけれど、ついに足がもつれてしまいそうな位の速さになってしまった。

「すみません。私、歩くの速かったですね」

君は歩く速度を緩めた。

思わず君にぶつかりそうになる。

「いえ、大丈夫です。その、全然大丈夫ですから」

肩が触れそうな距離。接しているのは手の平だけなのに、溶岩の中にいるかの様な錯覚に陥った。

 君はそれに返事をせず、二人黙ったまま歩いた。

 互いに黙っているのも、気が合うという事なのだろうか。そうでは無いだろうが、そうだということにしておきたい。

 君が立ち止まったので私も立ち止まった。

君の後ろにジェットコースターが見えた、待ち時間は二十分くらい。あれは、確か人気のジェットコースターだったはずだ。待ち時間二十分位なら、大分空いている。君に乗ろうと提案したら、喜ぶだろうか。

「そうだ、あれ乗りましょう」

君が指さしたのはコーヒーカップだった。

私はにこりと笑って、頷いた。私の考えは、いつだって無駄になる。

コーヒーカップの列に並ぶ。手は繋いだままだった。君は離してくれそうに無い。

 それだけで今日ここに来て良かったと思えた。

「この乗り物も結構好きなんです」

私は並ぶなりそう言った。

「そうなんだ、私もです。思い切り回す方がいいですかね?」

君は朗らかに笑った。本当にコーヒーカップの事が好きなのだろう。

「そうですね。そうしましょう!」

君が楽しいなら私も楽しい。

「よし、張り切って回しますね!」

君はハンドルを思い切り回す仕草をした。私はそれを見て口に手を当てて笑った。

「何か変ですか?」

君は怪訝そうな声を出した。笑うべき所では無かったのかもしれない。

私はいつだってそうだ。タイミングを間違える。

目を少しだけ開けて君の方を見て、様子を伺った。

君はからかうような顔のまま私を深刻そうにみつめている。

その瞳と私の目が重なって、燃え上がる。激しい炎に飲み込まれる。

「コーヒーカップにそんなにやる気ある人、初めて見たかもしれないです」

もう一度笑って茶を濁した。どうか妙な顔をしていませんように。

「せっかく来たんだから張り切らないと!」

君はまたハンドルを回す仕草をした。私はそれを見て笑う。

君も笑っていた。

そんな風に笑って居るのを見ると頭がおかしくなってしまう。君のその笑顔に私は浸食されてしまう。全て君の物になってしまう。

「あっ、ねぇ、ほら。前進んでますよ」

私は君の手を引っ張って先へ進む。温かい君の体温が伝わってくる。この世界ごと幻なのでは無いだろうか。駅に着いた時から長い幻を観ている。

「本当だ」

本当に楽しかった。もう幻でも良い。

あの色がいい、この色がいいと二人で意見を出し合ってコーヒーカップに乗り込んだ。君は赤がいいと言ったけれど、私は紫がいいと言った。紫に乗り込んだ。

君が意見を出したから、私も意見した方が良いと思って意見したのだが、君は私の提案した紫のカップに真っ先に乗り込んだ。

君は心の底から優しい。私なんかが一緒に居て本当に良いのだろうか。

乗り込む時に、繋いでいた手を離した。離れてしまった手は冷たい。

「なんか緊張する」

唇の間からこぼれ落ちる。私はハンドルを握りしめた。

スタッフの陽気な声に合わせて、コーヒーカップが回り出す。

君は力を込めてハンドルを回し始めた。

力を沢山込めたからか、君の顔はぐにゃりと歪む。その顔は人によっては見るに堪えないと思うかもしれなかった。

けれど、君のそんな姿を見ても、炎は消えない。まだ、苦しい。

ぐん、と勢いを付けてコーヒーカップが回り出す。

歪んだ君が私に馬鹿らしいほど能天気な笑顔を向けている。

君の笑顔が、私の幸せなのだろう。

君が手に入るのなら私は何だってする。

コーヒーカップが止まって、君が笑う。

私も笑った。


その後、いくつかアトラクションに乗った。ジェットコースターにも二人で乗った。君は本当にジェットコースターが好きな様で、コースターが坂道を下る度に、大声で絶叫していた。

キャラクター達のショーも観た。君は途中で欠伸をしてから眠りについたけれど、私はどうにか耐えて、幕が下がりきるまで目を開けていた。

最新鋭のスクリーンを使ったアトラクションも楽しかった。少しだけ乗り物酔いをしてしまったけれど。

フラワーファンタジーに乗ることは無かった。

早めの夕飯を食べに園内のレストランに入った時には疲れて動けなかった。君も疲れているのか、口数が減っている。

君はばくばくハンバーグを食べていた。こんなに動き回ったから、余程腹が空いているのだろう。

「楽しかった」

私は口を拭ってから言った。

「うん。でもまだコスモコースターが残ってますよ」

「あ、忘れてました」

私は手を止めた。君もフォークを置く。

「これ食べたら乗りに行きましょう」

君は笑っていた。コスモコースターが本当に好きなのだろう。

「楽しみですね」

それなら早く食べ終わらないといけないと思い、フォークを持ち直した。

そういえば、この時間にフラワーファンタジーのパレードがあるらしい。パレードなら、行く途中に観ることが出来るかもしれない。

「どうかしました?」

君がこちらを見ていた。ここでパレードを観たいなどと我儘を言えるはずが無い。君に迷惑をかけてばかりいるのに。

「いえ、何も無いです。コスモコースター久しぶりに乗るなと思って」

君はにっこりした。

君が先に食べ終わっていたので慌ててハンバーグを掻き込んだ。

君が立ち上がると、私は急いでリュックを背負って立ち上がった。

君は私の手を取って、踊るかのように陽気にコスモコースターの方へ歩き出した。

掴まれた手をそっと握り返す。卵を握るように。

コスモコースターの待ち時間は短かった。昼間なら一時間以上待つのだが、今は待ち時間三十分を切っている。

遠くから近づいてくるパレードの音。好きなトケイソウは目立っていないから、パレードなんて見なくても良い。

そう思った瞬間、トケイソウのテーマソングが爆音でスピーカーから流れ出てくる。

陰鬱なようで明るい魅惑的な音。子供向けとは思えない、素敵な音楽。

後ろ髪を掴まれたような気持ちになり、足が動かない。

けれど、君はにこにこしながら建物内に踏み込んでいく。繋いだ手を振り解けなくて、振り解きたくなくて、そのまま建物内に入っていった。パレードの曲はコスモコースターのテーマソングにかき消されて、外でパレードが行われていることが嘘のようだった。

「こんにちは!宇宙旅行へようこそ!」

陳腐な台詞を読み上げている、作り笑いの係員に案内されて、私たちはコースターに乗る順番を待つ。

「行こう」

君はぎこちなく歩き始める。繋いだ手が痛い。

そうだ。パレードなんかより、君と居る方が遙かに有意義なのだ。そんな物に気を取られていてはいけない。私は今日、私の為にここに来たわけではない。君の為なのだ。

 私がまだ、フラワーファンタジーが好きということを知れば、君は私のことを稚拙だと思うのだろうか。

 そう思われたくない。

 けれど頭の隅でトケイソウの事を考えている私が居た。

コースターに乗る順番がやってくる。

「ちょっと、いい?」

私はリュックを前に持ってきて、乗り込む準備をする。手が離れる。

片手でリュックを支えながら、コースターに乗り込んだ。荷物は足元、姿勢を正して座席に座る。

それから、セーフティーバーを降ろして係員が安全チェックをするのを待った。その間、外のパレードに想いを馳せてしまう。

トケイソウのテーマソングが使われていた。あのパレードにはトケイソウがいたのだ。ずっと前にホームページを見ていた時にはトケイソウは写真に載っていなかった。だから、てっきり居ないと思っていたのだ。

トケイソウがあのパレードにいるのなら、私はトケイソウを一目見たかった。

いや、こうして君と居るのが一番良いのだ。君が一番。君と居ることが何よりの幸せ。

「楽しみだね。今日一番楽しみだったんです」

君が話しかけてきた。

内容が頭に入ってこない。

「はい」

とりあえず返事をした。

セーフティーバーを握る手に力を込める。

あの時、コスモコースターなんて答えなければ良かったのかもしれない。パレードが観たいと言えば良かったのかもしれない。

けれどその選択をするということは君の優しさにつけ込むということだ。それが本当に良い選択と言えるのだろうか。

どちらにせよ、もう取り返しはつかない。全ての選択を後悔している自分に嫌気がさした。

こんな私には優しい君と一緒にいる資格などない。

君と私は、生きている世界が違う。

このまま君と親密な関係になれたとしても、迎える結末は悲惨なものになるだろう。

君はいつか私の嫌な部分に気がついてしまう。結局、私の中からその部分が無くならない限り、私は君と心から打ち解ける事は出来ないのだ。

悲しい。私は君と打ち解ける事が出来ない。一生。

「大丈夫ですよ」

私は横を向いて君を見つめた。明るい瞳の君。私はその眩しさに目が眩んだ。君はあまりにも眩しすぎる。真っ直ぐすぎる。

ガタン、と音がしてコースターが動き出す。私と君は、二人、見つめ合ったまま。

コースターが加速していくタイミングで、私は真っ直ぐ前を向いた。今日だけだ。君と蜜月を過ごせるのは今日だけ。

どうせこのまま君と交流を持った所で、どうにもならない。今日はまぐれだ。今日は幻。存在しない日なのだろう。

目の前の煙が晴れた時、世界は暗闇に包まれる。宇宙を象った空間にコースターが飛び出す。

暗闇の中、薄らとレールが見える。くねくねと曲がり、複雑に絡み合う。天井のディスプレイに映し出された光がチカチカ点滅を繰り返している。

上も下も真っ暗、時々流れ星の映像が映し出される。けれど、願いを届ける暇もなく、コースターはレールの上を走っていく。そして暗闇の中、急な坂道を下る。同じコースターに乗り合わせた客たちの悲鳴が聞こえる。

君も大声を上げて絶叫。私も大声を上げた。けれどこれは陽気な叫びなどではない。苦しみの叫び。人生を後悔するかのような叫び。隣から聴こえてくる君の声は、まるで歌っているみたいに陽気な声だった。

コースターは急停止して、ゆっくりとレール登っていく。眼前には、ぼやけたレールが壁のように急な角度で横たわる。

「やっぱり面白いですね」

君は顔をこちらに向けて話した。

 暗闇の中君が浮かび上がっている。君だけ、光を放つように。

「うん。すっごく!」

私は笑顔でそう言った。

私の叫びが苦しみから来る事など、君に知られたら死んでしまう。どうか今日は君が私の悪い部分に気がつきませんように。

コースターが徐々に傾いていく。スピードを付けて急降下。スピードに乗ったところで急旋回。頭が外まで吹き飛ばされてしまいそうだ。

ひとしきり旋回した後、スピードが徐々に緩んでいく。暗闇から出て、急な電灯の光に目が眩む。

コースターは止まり、セーフティーバーがゆっくりと上がる。

私はリュックを引っ掴んでコースターから降り、出口まで真っ直ぐ歩いていった。

振り向くと、君は私の少し後ろから歩いてきていた。

「お待たせ」

「行きましょう」

出口を出ると、人がてんでばらばらに歩いていくのが見えた。遠くの方からパレードの音が聞こえている。

この辺りはもう通り過ぎてしまった後なのだろう。地べたには花弁が大量に落ちている。トケイソウを模した飾りも散見された。

「もう、帰りますか?」

私は君の袖を握ってそう言った。

私が君の袖を握っている。目の前にあるので思わず掴んでしまったのか。

急にこんなことをするなんて、常識知らずにも程がある。自分からわざわざ嫌われるような事をして何が嫌われたくないなどとほざいているのだろう。

全部私が悪いのだ。

私が私である限り、君に嫌われないのは無理がある。

騒がしい胸を抑えつつ、遊園地出口に向かう。二人、言葉など交わすはずも無かった。口を開いてしまったら、私の心の内を全て吐き出してしまいそうだった。

君の少し後ろを歩く。どこに向かうのか考えるのも飽きてしまっていた。

「あの、この後空いてます?」

君がこちらを見ずにそう言った。頭が不安そうに揺れている。

「家?」

私にはこれ以上君に踏み込むことが許されないというのに、君は私にチャンスを与えてくれているというのだろうか。

そんな事はないというようにかぶりを振った。

「二人きりになりたいんです」

意を決したかのような顔をして君はそう言い放った。言い放たれた言葉は、重力に負けて、二人の間に転がり落ちた。

 燃え上がる。私の身体の中を焼いていく。脳まで焼いていく。

 これ以上何かを望むなど私にそんな権利があるわけが無い。

 けれどこの炎は勘違いをして、大きく燃え上がる。私を焼く。

 苦しい。君と出会わなければ良かったと、君が消えてくれればどんなに楽になるだろうかと、そう思わざるを得ないほどの苦しみ、熱さ。

 肺に入ってくる空気さえも熱く、胸が燃える。

「すみません。忘れてください」

君は私の目をじっと見つめて、動かなかった。

私は欲望に負ける。

こんな汚い私など見ないで欲しい。

「行く」

「え?」

君は素っ頓狂な声を上げて、素っ頓狂な顔をした。

愚かな私は君の家に行くつもりだ。こんなチャンスは今後どんなに徳を積んで生きていても二度と無いだろう。逃す訳には行かない。

そう、思ってしまったのだ。

「明日。午後、二時に。駅まで行くので迎えに来て欲しいです」

澱みなく一度に言い切る。

 そうしないと決意が揺らいでしまいそうだった。

「え? あ、はい」

閉園のアナウンスが聞こえてくる。いつから流れていたのだろう。君が帰れなくなってしまったら大変だ。

私は出口まで歩き始めた。君はその隣にぴったり寄り添って付いてきてくれる。

「今日は、帰らせて欲しいです。本当は、今すぐにでも行きたいですけど」

君の家の君の布団で今すぐに眠りたいけれど、それは許されない。

 きっと、一晩眠れば目も覚める。今日の決心を愚かだと思える。君の提案を断る言い訳が思いつく。

歩いた勢いで、小さな石を蹴りあげてしまう。

思わず下を向いて石を目で追った。石は転がっていって、出口を飛び出していく。

君は何も言わずにぽつぽつと歩いている。

苦しい、君とこんなにも親密になれているのに、君が隣にいるのが苦しい。

早く電車に乗って、一人になりたかった。

遊園地から出口まで、少し早歩きで二人歩いたと思う。ただ黙って歩いた。

改札前で簡単に別れを告げると、急いでホームまで歩いていく。君は反対方面の電車に乗るからと、反対のホームまで歩いていった。

二つのホームは向かい合っていて、電車が来るまでは、向こう側のホームが見える。君が立ち止まった正面で、私も止まる。顔を上げて、君に向かって手を振った。

君は、それに気がついて小さく手を上げた。

君の瞳は、私を見ていなかった。

その瞳に映っている物は私では無かった。君の生みだした私の幻。この世に存在しない幻。

電車は君がいるホームにやってきて、乗客たちがぞろぞろと乗り込む。電車が発車したあとのホームに君の姿は無かった。

私は、君の前では嘘まみれなのだ。

私はよく笑わないし、可愛くもないし、優しくも無い。ただ欲望に飲み込まれ、負けてしまうような浅はかな人間なのだ。

君を嘘で繋ぎ止めておきたいだけなのだ。偽の笑顔や言葉で君を繋ぎ止めているだけなのだ。

一生、君は私のものにはならない。

足元が崩れ落ちたような感覚。耳の奥で、耳鳴りにも似た不快な音が鳴り響く。

それでも私は君を手に入れたい。

このままでは君は、私の悪い部分を見て、私のことを嫌うだろう。その前にどうにかして君を手に入れなければならない。

明日、君が人生で会う人間が私で最後なら、どんなに良いだろう。

そうか、私には君を殺す以外、君を手に入れる方法は無いのだ。


ワンピースを脱いで、風呂場に入る。

早く眠りにつきたかった。きっと、目が覚めれば君を殺そうなんて気持ちは無くなる。燃え上がる炎に苦しめられる事も無くなる。

何も変わらないあの忌々しい朝がやってくるだけだ。

シャワーを浴びると、温かさに意識が遠くなる。頭を洗うのも、トリートメントをするのも、身体を洗うのも、無駄毛の処理も、化粧水を顔に塗りたくるのも、面倒だった。

やっとの事で、あと髪を乾かすという所まで仕事を終えた。濡れた髪のまま、脱衣所に座り込む。

だらだらと頭をタオルで拭きながら、今日の事を思い返す。

君が隣にいた事以外、楽しい思い出は無かった。君はよく笑っていた。それに合わせて沢山笑ったような気がする。

毛先から雫が落ちて、寝間着が濡れた。

帰り際、慌てて帰ったから、土産すらも買わなかった。君との写真も撮っていない。形に残る物は何も無かった。私の朧気な記憶の中にしか、君はいない。

私の求める君も、幻なのだろうか。存在しない君なのだろうか。

洗面台の上から通知音が聞こえてくる。這うように床を進み、スマートフォンを手に取る。君からのメッセージ。

『明日二時に駅前ですよね。楽しみです!』

君は確かに同じ世界にいると信じていたのだけれど。

『忘れないですよ。私も楽しみです』

メッセージを送信すると、脱衣所の壁に背中をつけて天井を見上げた。今はまだ、何も考えられない。こんな気持ちになるのも、きっと疲れているせいだ。

夢の間でうつらうつらしていると、いつの間にか眠りこけてしまっていたようだ。目を覚ますと、髪は半分程乾いてしまっていた。

少し醒めた頭で髪を乾かす。こんな生乾きにしてしまっては、もう手入れのしようも無いかもしれない。ヘアオイルを手に取って、力任せに頭につけてから乾かす。

歯を磨いてしまうと、布団の中に転がり込んだ。明日、包丁を買いに行こう。

君の一生を奪い取る覚悟が出来ていた。そんな自分が憎い。


カーテンから、柔らかい光が漏れている。その温かさに誘われるかのように目が覚めた。太陽が、窓の外から静かにこちらを見つめている。

布団の上で伸びをする。昨日の疲れは消えていた。聞こえる音や見えるもの全てが幻のように揺らめいていた。

三日前に買った食パンにそのままかじりつく。髪に櫛を通し、好きな高さでまとめる。

顔に様々液体やら粉やらを塗りたくって、鏡の前でにこりと笑う。目を細めて、頬を持ち上げ、口角を上げ、首を少しだけ傾ける。

今日もちゃんと笑える。もしかしたら今日でこの朝を迎えるのは最後かもしれない。

けれど、それすらも愛おしかった。貴方も今を大切に生きているだろうか。最期の日は大切に生きた方が良い。

クローゼットを開ける。一番好きな服がいい。黒いTシャツにお気に入りのジーンズ。動きやすいし、この服装が好きだった。それに、黒なら汚れも目立たない。

前髪の乱れを正すと、リュックを背負った。

時刻は十二時時少し前。ここから君の最寄駅までは30分程かかるから、あと一時間半はゆっくり君の事を考えられる。

玄関の扉を開けると眩しい昼の光が身体を包む。昼の匂いに心躍らせて鍵を閉めた。

まずは、包丁を買いに行こう。君を殺すのにはぴったりだ。

そのほかにも必要な物があるかもしれない。近くのホームセンターへ向かった。

日曜のホームセンターは家族で賑わっている。子と母と離れて一人で様々な資材を物色する父親。走り回る子供。素知らぬ顔の母親。犬は吠えて猫も籠に入れられていた。

まずは包丁から。走り回る子供にぶつかりそうになりながら、包丁のコーナーへ。

包丁には色々なサイズがある。大きいものから小さいもの、パン切り包丁まで。

それぞれのパッケージには、野菜を切るのに適したサイズ、肉を切るのに適したサイズなどと書いてある。けれどどれを見ても人を殺すのに適したサイズとは書いていなかった。

果物ナイフだと小さすぎるし、パン切り包丁だと刺しにくそうだ。刺身包丁は長すぎて扱いにくそう。出刃包丁か三徳包丁がいいだろう。

手に取り見比べる。パッケージを見ると、出刃包丁は魚や肉を捌くのに適しているらしい。三徳包丁は万能だと書いてある。

捌くための包丁と、万能な包丁。

万能な三徳包丁がいい。人を殺す用途も万物の中のひとつの用途だろう。

三徳包丁のコーナーから、包丁を手に取る。

もっと先が尖っていて本格的な包丁は、クリアケースの中に押し込まれていたが、一度人を殺すのに使うくらいだ。そんなに高級じゃなくても大丈夫だろう。

なにか他に買うものが無いかと思案し、辺りを見回す。

通り過ぎた男の買い物カゴに粘着テープが入っていた。

そうだ、一度君を気絶させて、粘着テープで自由を奪おう。

必死に生きようと抵抗する君の姿を瞳に焼き付けたい。

一番頑丈だと謳っている粘着テープを一巻手に取った。これで準備に不備は無い。安心して君の家に行くことが出来る。

レジを通り、会計を済ませる。時間に少し余裕があった。リュックに包丁と粘着テープを詰め込みながら、ホームセンターを出る。

今日は少し遠回りして、駅まで行こう。途中、よく散歩で通る公園があった。スニーカーがコンクリートを擦る音を聞きながら、公園の中に入っていく。

燦々と降り注ぐ日光の粒子を全身に浴びて、心地いい。

そのまま、公園の空気の淀みにまかせて身体を揺らす。大手を振って歩く。歩く足取りは燃えるステップ。どこへだって行ける。

だから、電車に乗って、君の家まで行った。

最寄り駅に着いたのは、一時四十分くらいだった。まだ君は駅に来ていないようだ。もしかして、寝坊かな。珍しい。よっぽど昨日は、はしゃいでいたんだろうな。

『あと十分くらいで着きます』

君が来るまでの時間の胸の高鳴りを楽しみたくて嘘をついた。

『分かりました』

スマートフォンをポケットに入れて、改札を見ていた。人々は、ぱらぱらと改札から出てくる。

様々な人がいた。多くは家に帰る人なのだろうか。ここには目ぼしいものがないから、用もなく来る人は居ない。

この中で他人の家に行こうとしている人は何人いるのだろうか。何にせよ、買ったばかりの包丁をリュックの中に入れている様な輩は、私しかいない。

風の匂いを嗅いでいると、今日は何もかも上手く行くような気がした。

衰えることのない陽光は暖かいまま、私の腕に絡みつく。

暖かさに身を預けて道を眺めていると、君が見えた。今日は目立つ服を着ているからわかりやすい。

小走りでこちらにやってきた。リスみたいだ。

「早いね」

君は少し息切れしている。急いだのだろうか。急がなくてもいいのに。

「うん。ちょっと早く着いて」

私は君をまじまじと見た。

激しい黄色の服が真っ先に目に飛び込んでくる。景色から浮いていて分かりやすい。

ふわりと風が吹いた。君は呆けた顔でこちらを見ている。

「どうしたの」

「いや、何でも無いです。行こう」

息が整わない君の隣に、そっと寄り添って歩く事にした。

君の隣はとても緊張した。この後、君は私のものになるのだ。今まで生きていて、こんなに欲しかったものは無い。君のためなら何でも我慢できると思っていたが、これだけは我慢できない。

今日は二人の中に流れている雰囲気が違う。何となく、張り詰めた空気が流れていた。

それもそうだ。これから部屋で二人きりになるのだ。そこで私がしようとしていることを想像すれば、緊張しないわけが無い。

ちらりと君の方を見る。君は手と足を同時に出ている。君も緊張しているのだろうか。

君の首筋に一筋汗が垂れる。黄色が景観を壊す。

ただ真っ直ぐ、君の住むアパートに向かった。横断歩道を渡って、右に曲がると、色褪せたアパートが見えてきた。

少しおんぼろだけれど、駅に近いのが好きなのかもしれない。君はアパートを見上げながら少し満足げな顔をしている。

一階、階段の裏側にある扉。扉を開ければ軋むおんぼろアパート。君は振り返ることもせず、ずんずん部屋に入っていく。

今、襲いかかってしまおうか。いや、まだ早いかもしれない。

思わず俯く。君の靴はどれも綺麗だった。よく磨かれた革靴。仕事用だろうか。私のスニーカーは汚い。新しい物を買わないと。

「おいで」

顔を上げると君はそこに立っていた。

「うん、ごめんね」

風呂場の横を通り、部屋へ。

私は部屋の真ん中で小さく足踏みをした。いつ君を気絶させよう。どうやって君を気絶させよう。思いつきで行動するとこういう事が起こる。

「座ります?」

君はひとつしかないソファに手を向けた。私はその場にリュックを下ろして座り込む。大切なリュック。手が届く場所に。

君も同じように私の隣に座り込んだ。

二人でソファの横に並んで座る。頭の中で、色々な妄想が回り始めた。

このまま君に殴りかかろうか。いや、避けられてしまうだろう。首に手をかけて、息を止めてしまおうか。けれど、君の首を締められるほど、私の力は強くない。どの妄想も実用的ではない。

現実に意識を戻す。私が妄想に気持ちを巡らせている間ずっと、君は黙っていた。様子がいつもと違う。妙な感じ。

君は何も言わない。私も何も言えない。口を開いたら、悪意が見透かされてしまいそうで怖かった。

リュックに刃物を忍ばせて、この空間にいるという事実が深く突き刺さる。この思考に至ったのも、私が今まで生きてきた罰なのかもしれない。真っ当に生きていれば、私はこんなこと思いもしなかっただろう。

お互いの呼吸だけが響く。君の息遣いは早くなっていく。もしかして、勘づかれているのだろうか。自分の呼吸も早くなっているのに気がついた。

君がじわりじわりととこちらに寄ってくる。頭が回らない。いざとなると何も出来なくなってしまうのは私の悪い癖だ。今なら、リュックから包丁と粘着テープを出すことが出来る。

けれど指先に力が入らない。必死に体を動かそうとする。頭を働かせる。

そこで気がつく。包丁の包装も切っていないし、君を殴る鈍器も持っていない。

肩が触れた。今ではない。

もっと、いい考えがあるはずだ。

全てを諦めて、君に頭を預ける。もう、私は君に飲まれてしまって、既に弱っていた。

体温が上がるのを感じる。私を包み込むようで、暖かい。

もう全身を焼くようなあの苦しみは無かった。

さらりと零れ落ちる髪。肩に回される手。考えていることを見透かされた気がして顔を上げる。

君の潤んだ瞳。魚のように喘ぐ唇。その隙間から漏れる湿った息。

そんな君を愛している。本当に君が欲しい。

引き寄せられる。混ざる二人の体温。

こんな事では君のことは手に入らないのに、勘違いしてしまいそうだった。

君の稚拙な口づけ。私も、それ相応に稚拙なのだろうか。

顔は離れる。君の顔など見れるはずもない。私の顔にはきっと、醜い感情が出てしまっている。

もう一度。もう止められないとでも言うように。

こうやって、今まで他の人間にも、同じように接してきたのだろうか。悔しい、君をもっと早く、手に入れたかった。君は私のジーンズに手をかける。

君のしようとしている事が分かってしまう。それだけは嫌だ。決意が揺らいでしまう。

君のその手に触れる。私は小さくかぶりを振った。

「シャワー浴びようよ」

「うん」

君の返事を聞いてほっとした。

君は私の思うまま、私が欲しいまま動いてくれている。

なにもかも滞りは無い。順調だ。

君は私の手を引いて、風呂場へと向かった。

風呂場に入った瞬間、出しっぱなしのドライヤーを隠す君が見えた。ドライヤー。持ちやすいし、十分な重さもある。コードが少し邪魔だけれど、何かあった時に首だって締められる。丁度いい。目が覚めそうになる。

「ごめん、すぐ片付けるから」

片付けられては堪らない。これで君を殴るのだ。

「大丈夫。それよりも」

君は、想定通り慌ててドライヤーから手を離し、服を脱ごうとする。裾を掴んだ君の手は少し震えていた。

その隙を見て、ドライヤーのコンセントを抜き、コードをまとめる。

「あっ、そうだ」

君は服から手を離した。

「え、何?」

「ここ、浴槽あるんだよね、お風呂溜めようよ」

君は真っ赤にのぼせ上がった。

「うん、ちょっと待って、今準備する」

君は私に背中を向けて浴槽の中に手を伸ばした。一歩、一歩、距離を詰めていく。

君は排水栓を探すのに手間取っているみたいだ。

ドライヤーを握りしめた手を大きく振り上げる。その腕を降ろした時、君は倒れて浴槽の中に顔を突っ込んでいた。

鈍い音が響く。何度か肩を叩くが君は動かない。

慌てて腕をまさぐると、まだ脈があった。

胸を撫で下ろすと、今度は悠々と部屋へ戻り、粘着テープを持ってくる。

飛び出た足をテープで固定して、君の身体を浴槽に納める。

君を腋から抱え、滑り落とすように君を浴槽に納める。なかなか重たくて苦労したが、浴槽の中が滑らかだったので、上手く君を納めることが出来た。

君を抱え込んだ時、妙な満足感に襲われた。君の暖かさが、私の心に生々しく染み込んでくる。

手を拘束した後、開いた口をぴったり塞いで、蓋を閉めた。

このプラスチックの板の下に、君がいる。

君が私のものになりつつあるという実感が胸を支配した。



暗闇の中だった。目覚めているのか、眠っているのか、現実なのか、夢なのか。

何も分からない。

光が差し込んでくる。強い光で何も見えない。

じきに目が慣れてきて段々と世界が見えてくる。後光を携えた君がこちらを覗き込んでいた。

喜びで全身が震える。手を伸ばそうとするが、両手足が動かない。どうやら何かで拘束されているようだ。口も塞がれていて声を発することは出来ない。

だが、この動かない手足だって、きっと君が自由にしてくれる。喉の奥から開かない口で感謝を伝えようと声を振り絞る。

君の手がぬっ、と伸びてきた。私の頭に手を伸ばしたかと思えば、髪を引っ掴まれる。

痛い。思わず叫び声を上げてしまった。

私を助けるには、少々乱暴すぎる。もう少し優しくして欲しかった。

私が浴槽に転がっていたから、君は驚いたのかもしれない。さっきの声も、君を怖がらせてしまったのかもしれない。

けれど、私の顔を眺める君は怯えていなかった。私が見たことも無い顔。素敵な物を見たかのような。イルミネーションみたいに瞳は輝いていて、苦しみなどどこかへ行ってしまう。しばらくその楽しそうな顔を堪能した。

手が離れて叩きつけられる。一瞬目の前が真っ白になった。

痛くて、痛くて、痛くて堪らない。頭が割れてしまったのでは無いかと思い、後頭部を確認しようとする。

だが、どうにも上手くいかなくて何度も身体を捻った。君の楽しそうな瞳が、網膜の奥にへばりつく。

もしかして、この手足のテープも、私を浴槽に閉じ込めたのも、後ろから殴りつけたのも、君なのか。

首元に冷たいものが触れる。君の手だ。それは徐々に力を強めていって、気管が塞がっていく。

戯れにしては強すぎる。四肢を目一杯動かして、君に抵抗した。

もう冗談では無いことを頭が理解し始めていた。

身体のあちこちが、浴槽の縁に当たる。何度も打たれて、もうぼろぼろの頭蓋骨は脳への振動を減らすことなどできない。

暴れて、強くたたきつけられれば、もう意識などろくに維持できない。また、暗闇の中へと誘われる。

光。虚構の光。蛍光灯の。それは後光ではない。誰も救いになど来ない。来るのは殺意を持った君。

ふと、気持ちが安らぐのを感じた。殺意を持っているのは、他ならぬ君なのだ。他の誰かに葬られるよりも、君に葬られるのなら本望ではないだろうか。

きっとそうだ。これが私の運命だ。二十余年も重ねてきた日々は、今日の為にあったのだろう。

馬鹿らしいほど、必死に生きてきた時間は、全てこの瞬間に集約される。腑に落ちた。五臓六腑に染み渡る。

それならば、受け入れる他無い。君を受け入れたい。私は、君のことが好きなのだ。

繋がれた両手を伸ばして浴槽のへりを掴んだ。指先に、最後の力を込めて立ち上がろうとする。早く、君に会いたい。

バスルームの床を裸足が歩いてくる。

影が落ちる。私は腹を君に見せた。

君の手が、腹部を裂く。これでやっと、君とひとつになれた気がした。

けれど、殺される前に一度でいいからまぐわいたかった。後悔など無いかと聞かれれば、嘘になる。私だって、人並みに無駄な人生を精一杯、浪費したかった。

でも、仕方がない。ぼんやりとした景色の中で、君は笑っていた。そんな君を否定など出来ない。受け入れないことなど出来ない。

これで君が幸せになるのなら、私は何も望まない。

叫び出しそうな声を抑えて、じっと命の灯火が消えるのを待った。

君を想いながら。



眠りから覚めると、君の流した血液は、もう冷えて固まってしまっていた。

長い夢を見ていたような気がする。

鉄の匂いがする。君の香り。

倦怠感を引きずりながら、身体を動かした。

浴槽の中を覗き込むと、君はまだそこにあった。口元のテープを剥がす。

君は静かに目を瞑って、口を少し開けていた。

その口に私の口を重ねる。冷たい君は何も言わない。

胸の中に炎が燃え広がる。行き場の無い炎に焼かれるのがとても気持ちが良い。このまま、火だるまになってしまいたかった。

もがけばもがく程、強さを増していく。

君の手も、顔も、足も、腹も、全て私の自由に出来る。

幸せだった。私は私が一番欲しい君を手に入れることが出来た。

夕日が窓から差し込んできて、風呂場を茜色に染める。もう、どこまでが私で、どこまでが君なのか分からない。

パトカーのサイレンの音が、扉の外から聞こえる。

私は浴槽の中に入り君を抱きしめた。冷たくなって、固まった血液は私に嫉妬している。

二人で横になり、瞳を閉じた。

今日はきっと素敵な夢を見る。


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