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<連載小説>昨日のような、明日を生きよう<24>

逃げることを我慢しない

『幼稚園はとっても楽しくって』
 綾はそう考えていた。
『でも』
 しかしそうも考える。
『チチやハハと一緒にいれないのは寂しいな』
 今日もハハと手をつなぎながら幼稚園への道を歩む。
「今日は何して遊ぶの?」
 宮子が綾に問いかける。
「んーとね、優吾くんと滑り台」
 答える綾はにこやかだ。しかし、手には力がこもった。
 離れたくない、と体の芯からムズムズとしたものがあふれて来て、落ち着かない。
 少しだけ歩みを緩める。それに宮子は気付かない。ハハの背中には晴太がいて、ぐっすりと寝ている。綾はそれを眺めながら、とても羨ましいと思った。
「……行きたくない」
 声が漏れる。
「ん? どうした?」
 宮子が立ち止まった綾に問いかける。
「幼稚園、行きたくない」
 ぐっと手に力が入る。足にも。
 ちょっとだけ首をかしげて、宮子はその場に屈んだ。そして、綾と目を合わせて、瞳の奥を見ようとする。
 その行為になんだか自分の心が見透かされるような気がして、綾は眼を逸らした。
「幼稚園、行きたくないの?」
 そのままで宮子が声をかける。綾は眼を逸らしたまま、うなずいた。
 しばらく宮子の動きが止まる。
 それは、綾にとっては永遠にも感じられた。
「じゃ、帰ろっか」
 宮子が立ち上がり、綾の手を引いた。
「え?」
 すんなりと戻ろうとしていることに、綾の方が驚いた。
 そんな綾の様子を気にもせず、宮子はにこやかに足を進める。自分から言い出したことを引っ込めるわけにもいかず、綾は引かれるままに家に向かって歩いていく。

 自宅の玄関に入り、靴を脱ぎ、そして居間の椅子に座り、ようやく綾は口を開いた。
「ハハ、どうして良いって言ったの?」
 晴太をベッドに寝かせて、宮子も椅子に座る。ちょっと体を屈めて綾に視線を合わせた。
「幼稚園休むこと?」
「うん……」
「ダメって言われると思った?」
「だって、幼稚園は毎日行くんでしょう?」
 その答えを聞いて、宮子は綾の頭に手を置く。
「そうだね、幼稚園はお休みの日以外は行ってるよね」
 なんだかくすぐったくて、綾は目を細める。
 そんな綾を見ながら、宮子は続きを話した。
「でも、綾は今日、行きたくないな、って思ったんだよね?」
「うん、分からないけど、なんか嫌だった」
「そっか。ハハもね、綾に『頑張って行こうね』ってお話しすることもできたんだ」
「じゃあ、なんで?」
 宮子はとても満足そうな笑みを浮かべて、こう言った。
「綾に、逃げることを我慢して欲しくなかったから」
「逃げるのを、ガマン?」
「そう、綾がもっと大きくなって、チチやハハみたいに、それよりももっと年取ったりして、たくさんのことを体験すると思うの。
 幼稚園の先、学校に行ったり、会社に行ったり、友達と遊んだり、好きな人ができたり。そんな時に、楽しいことばかりじゃなくて、嫌なこともきっとあると思う」
 綾は自分のこの先、という壮大な話にちょっとめまいがしたが、うなずいた。
「頑張ることも大事だよ。そして、怠けたり、悪いことのために何かをしたりしなかったりするのも良くないね。
 でも、ガマンしすぎて綾の体が壊れてしまうまで頑張る必要もないんだよ」
「体が、壊れるの?」
「そうだよ。お外に出ると頭が痛くなったり、誰かと会うのも嫌になったり、綾は悪くないのに自分で自分を責めたりするようになることがあるんだよ。我慢しすぎると」
「こわいね」
「うん、怖い。だから、本当に逃げたいときはいつでも逃げて良いんだよ。我慢しなくていいんだよ。それを知って欲しかったから、今日はお休みして良いって言ったんだよ」
 宮子が綾の頬を撫でる。綾は表情を消して、自分の心を省みる。
 逃げても良いんだ。逃げても良いんだよね。
 でも、それは今かな?
「ハハ、綾ね、幼稚園行こうかな」
「ん? そうなの?」
「うん、ハハが、逃げても良いよ、って言ってくれたの、すごく嬉しかった。でも、綾は今はそうしたくないの。だって幼稚園は楽しいし、お友達もすごく優しいし。晴太が可哀そうなくらい、楽しいの」
 その言葉で、宮子は理解した。綾が今日、幼稚園に行きたくなかったわけを。
「ふふ、そっか。じゃあ、幼稚園にちょっと遅れます、って電話してから行こうか」
「うん、ハハ、ありがとう」
 綾の表情に、もう迷いは無かった。

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木村 勇雄
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