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「中途半端」がつなぐ次世代のバトン

「次世代の教科書」という出版サービスを開始した。

次世代を生きる人達にとって本当に役立つものを、出版の力を通して世の中に届けようという思いからだ。

だが、そもそも「次世代」というものをどう定義すべきなのか?
なにをもって「教科書」と豪語できるのか?

それをしっかりと伝えないまま、このサービスの価値を信じろというのは無理があるだろう。

今回はそのあたりのお話をしたい。

あなたは「次世代」の人?

次世代と聞いて思い浮かべるものはなんだろう?

社会・経済的な側面に焦点を当てれば「自動運転やIoTが進んだ近未来的な社会」とか、「ジェンダーや生き方の多様化が進んで、自由に生きられるようになるイメージ」といったかもしれない。

人に焦点を当てるなら、「自分よりも若い人」「10代の子どもたち」といったイメージが強いだろう。

ジェネレーションギャップというように、自分とは異なる価値観をもった新しい生き方の若者たちは「次世代」感が強い。

それは当然といえば当然で、今社会で通用している常識には縛られない、刷新された未来を生きる人たちこそが「次世代」の中核であるのは誰が見ても明らかだ。

だからこそ「次世代の教科書」も、高校生を中心とした若者世代に読んでほしいと思っている。

だが、果たして次世代とは彼らだけのことなのか?

いい意味でも悪い意味でも社会の激流に浸かり、「大人になってしまった」人間は次世代とは言えないのか?

それは違うと思う。

歳が若いかではなく、心が若いか

次世代という言葉を単純な若さではなく、「常識にとらわれず、現実に即した未来を柔軟に創っていく」という意識の現れとして解釈したらどうだろう。

年齢に関わらず、バイアスなく自分の周りの社会や自分自身の生き方について考えを巡らせることができる人こそ、次世代に生きる人といえる。

それは、10代だろうと80代だろうと、あまり関係がないと思っている。

10代の高校生を次世代の代名詞にしているのは、彼らが比較的社会的な常識や「こうあるべき」という義務感から自由で、かつ鋭い思考力で物事を見ることができると思うからだ。それはシンプルに年齢や心身の若さに起因するものでもあるだろうけれど、やはり社会の激流にいい意味で触れていないからこその素直さなのだと思う。

だが、社会の冷たさや厳しさ、それでも立ち向かっていくことの興奮や楽しさを知った人間だからこそ作っていける「次世代」があるとも考える。というより、そうやって必死に生きてきた人生そのものが、次世代に語り継ぐべき立派な学びであり、教科書なのだ。

自分の頭で考え、自分の足で必死に進んできた人間の言葉には、年齢や価値観の違いにとらわれない生き生きとした学びがある。それはきっと、心が若く未来を向いているということだ。

年齢ではない。心にこそ次世代の精神は宿る。

中途半端だからこそ出せる価値

これを書いている私(「次世代の教科書」編集部デスク)自身は20代後半で、世間的には「まだまだ未熟な若者」と「成熟しているべき大人」の中間的なポジションにいると思っている。

そんな私は「次世代」のグラデーションのどこにいるのだろうか。
だって、10代のように完全にまっさらで自由な考え方をインストールしているわけでもない。
でも、いわゆる「しっかりした大人」といったような分別と落ち着きを備えているわけでもない。
若者にメッセージとして伝えられるレベルの人生経験を積んでいるとも言えない。

「どっちつかず」といったポジションが一番しっくり来ると思う。

若者と大人の中間で右往左往している中途半端な状態。

でも、だからこそ、その両者をつなぐ架け橋的なポジションになれると思っている。

次世代の精神は心に宿る。

中途半端な立ち位置だからこそ見える景色がある。そこから生まれる思いがある。

次世代へ知恵をつなぐバトンは、たぶんこういう中途半端な人間が作るべきなのだ。

だから、こんな大それたことを敢えて公言している。




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