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「大人」としての私たちが残せるもの

「次世代の教科書」という出版プロジェクトを進めている。

とても大上段に構えた企画だから、その編集部デスク(半人前)として毎日のように頭を悩ませる。

「次世代の若者にむけて、先人たちが残せるものはなにか?」
もっと分かりやすく言えば、大人が子供に与えられる価値とはなにか?
それを出版という形でどう届ければいいのか?

大人になりつつある自分が、まだ世間知らずの若者のままの自分に対して問いかけている。

「大人としてのお前は、私に何ができるんだ」と。
「教科書と偉そうに名付けるのはいいが、それでお前は私に何を与えられるんだ」と。

大人としての私は、ますます頭を悩ませる。
いろんな答え方を考える。言葉の上ではいろんなことが言えてしまう。
なまじ抽象的なことを考えるのが好きだから、煙に巻くようなチンプンカンプンなことを訳知り顔で答えそうになってしまう。

でも、ちょっとまって。ここは踏ん張りどころだ。
本当に彼にとって(次世代の若者にとって、そして子供としての私にとって)役に立つといえる価値はなんだろう。
彼の人生に、出版の力で貢献できることの真髄とはなんだろう。

……。

私は、長い沈黙のあとにこう答える。

あなたに私ができることは「可能性の海で溺れないようにしてあげること」だと。

「無責任な可能性」に惑わされないために

私達の周りには、若者の生き方の可能性を示すような情報がとめどなく溢れかえっている。
自分の生活の隅々を見渡してほしい。
とくにSNSでは、今日も誰かがひっきりなしに自分の人生や他人の人生に怒った出来事を取り上げている。Youtubeを開けば、個性的な発信者が思わず目を引いてしまうようなコンテンツを作り続けている。

それらはすべて、等身大の自分自身の延長線上にあるように見える。
手の届きそうな、ちょうどいい感じの理想郷。
それは、可能性という希望に満ちた大海のように思える。

だけど、ちょっとまって。
その理想郷は、あなた自身の足元と地続きなんだろうか。
広大なネット空間を漂って、可能性の麻薬に身を浸して気持ちよくなっても、最後に戻ってくるのはとても生々しくリアルな生活だ。
そして、そこに素足で立っている自分自身だ。

いろんな人の成功物語や、楽しく暮らしている様子に表層だけ触れていると、あたかも自分がそれを追体験したかのような錯覚をもたらす。
それは、つまらない日常にみずみずしさを与えてくれる「可能性のおやつ」のようなものだ。

だが、それはあくまで可能性だ。しかも、受け取る人にとって心地よいように、きれいに加工された可能性だ。
SNSやニュースでは、いわゆる成功者バイアスによって「うまく行った人の話」しか取り沙汰されない。でも実際には、その裏側にたくさんの失敗した人たち、挫折した人たちがいる。
そして、彼らにまで言及している情報は少ない。

成功を夢見て、熱量の高い誰かの物語に共感する。
それはそれで青春期の価値だと思う。
情熱がなければ、人は生きていけない。
そして、情熱とは究極的には根拠のないものであることも確かだ。

だが、その情熱の行く先は、本当にあなた自身が歩いていくべき道なのか。
あなた自身が、誰に惑わされることもなく考え抜き、腹落ちした結果の道のりなのか。

「大人」にしか作れない価値

そこまで考えて、こう自分に問い直す。
お前が今からやろうとしている出版という取り組みだって、その「無責任な可能性」をいたずらに増やすだけじゃないのか?

たしかにそうかもしれない。
でも、そうじゃないところに向かいたいと強く思う。
それは「無責任な可能性の提示」と「可能性を閉ざしてしまうこと」の間の部分を模索するという未来だ。

良くも悪くも、自分が大人だという自覚を持った人間は、それなりの人生経験を持っている。あらゆる辛酸と、その中での幸福の在り方を知った大人だからこそ伝えられることがある。

それは、可能性の海の中で、たくましく泳いでいく方法を教えてあげることだ。

その結果、教えた相手がどこに向かっていくかまではコントロールできないし、するべきではない。でも、大きな波にさらわれそうになった時、「ああ、そういえばあの時あの大人はこう泳げばいいと言っていたな」と思い出すかもしれない。それが窮地を脱するきっかけになるかもしれない。

そういう形でしか、人生経験というものは若いエネルギーに対して役に立てないのではないか。

そして、誰かの人生経験を教えに変える「次世代の教科書」というプロジェクトが担うべき役割も、きっとそこにある。

圧倒的な知の体系にはなれないかもしれない。
誰にとっても目から鱗が落ちるような画期的な情報ではないかもしれない。
それでも、誰かの人生のある瞬間を支えられるようなものにできれば。
それはきっと、次の時代の教科書と言ってもいいのではないか。

変わるべき未来と、変わらない価値

次世代では、そもそも大人と若者という区別そのものが意味をなさなくなるのかもしれない。
そもそも、私自身がまだ大人でも若者でもないような曖昧な存在だと思っている。
やがて、年齢や属性や経験に関係なく、必要な知識を柔軟にインストールしていくことが常識になるのかもしれない。
きっと、そういう価値観を持った人たちの人生も学びに変えるべきだろう。
大人は、大人であることに安住せず、常に新しい存在に変わっていくべきだとも思う。

それでも、大人として若い世代に残せるもの(それはずっと昔から変わらず続いてきた営みだと思う)が、確実に存在するならば。
「なにを偉そうに……」という非難も真っ向から受けながら、これからを生きる若者たちが、可能性の海で溺れないための本当の知恵を届け続けたいと思うのだ。

(「次世代の教科書」編集部デスク 松田)

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