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『キリ子は切りたい』

 機械の先から毛束が生え、それが穴に収まっていく。すっぽりと自分の居場所に収まっていく毛束たちを眺めているとキリ子は自分の居場所はどこかを考え始める。
キリ子が生まれたのは瀬戸内海の小島で、親は漁師網を作る仕事をしていた。キリ子の豊かな髪の毛は磯の香りを家族に運んだ。自分の居場所は間違いなくあそこだ、とどこからともない確信がそうキリ子に囁いて聞かせていた。
「木村さん、あがりでいいよ。」
工場長に声をかけられ、時計の針が午後5時を指しているのにやっと気が付く。今日は金曜日。特に週末の予定は埋まっていない。出かける気力はあっても、誘う友人も恋人もいない。

木村キリ子は人間関係リセット症候群である。

 キリ子は惰性で携帯電話を引っ張り出し、誰かからの連絡がないかを確認する。もちろんそんなものはない。あるとすれば毎日午前10時の律儀な公式LINE。
自分から連絡を切っておいて、連絡が来るのは期待している。自分の矛盾にマスク下で苦笑いする。なぜ自分がこれまでの人間関係を断ち切ってしまったのかは、正直自分でもわからない。何も不満はなかった。家族にも比較的恵まれていたし、友人との関係も良好であった。結婚間近の恋人も居た。

 連絡先を消してゆく快感。これまで何かにつながって、自分の動きを鈍らせていた蔦を切り取っていく感覚。温かいが窮屈な庇護から野にでて、いくらでも駆けて行ける自由を与える正義。あるいは自らを孤独へと向かわせ苦しめていく、自傷行為に近い背徳の味。これが自分をおかしくした理由かもしれない。そうじゃないかもしれない。

 キリ子は寝る前に必ず、歯ブラシの毛束が土台の穴に収まる光景を思い出す。自分はたぶん、自分の居場所を誰かに見つけて提供してもらうのを待っている。あの歯ブラシのように。その誰かこそ、自分で画面から消していった誰かだとわかっているのに。
 キリ子は今夜も工場の歯ブラシで歯を磨いた。

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