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『マザー・スノー』歴史が変わる瞬間。

かれこれ30分以上はこうして、泡を吹いたブタゴリラを尻目に煙草を吸っている龍。


換気扇の音がやたらとうるさく響いた。
あれだけ大騒ぎして参上したこいつが、急に『物言わぬ豚』になったのだ。
ひょっとしたら異変を察知したご近所さんたちが、警察に通報しているのかも知れない。


別に警察に突き出されても構わない、と龍は思った。


1DKのアパートには、2年前に引っ越してきた。事故物件かと疑うほどに賃料が安いからだ。


築数は30年の4階建て。風呂トイレは一緒のユニットバス。


奥の部屋には『お値段以上』でお馴染みの店で買ったマットレスに、布団を敷いてある。慌てて起き上がったものだから、掛布団はだらしなくフローリングの床に放り出されたままだ。


高さが80センチほどの木製の本棚には、上2段には少年漫画が差し込まれている。下2段には数冊の青年誌が置いてあるだけで、それ以外は全部、英語・ポルトガル語・ベトナム語の語学勉強本や辞書がびっしりと揃えられていた。


彼がよく行くクラブに日系ブラジル人の友だちがいるというだけでなく、建設会社の職場仲間にも外国人が数名いる。外国人の彼らと会話を始めるにあたって、何かしらの取っ掛かりが欲しくて、龍は独学で彼らの母語を習得しているのだ。


不慣れな土地に出てきて、親しい人も身内も居ない心細さがどれほどのものなのか。
それは龍が一番よく理解していることだったからである。


天井をただぼんやりと見上げていた龍はふと、また昔のことを思い出した。


それは、自分の布団の中に初めて父親が入り込んできた、その翌々日のこと。


意味ありげで薄気味の悪い笑顔を浮かべたブタゴリラに連れられて、デパートに行った日。
なんでも好きなものを買ってよいと言われたものだから、龍は無言でとびきり高いゲーム機を指さした。
その日は少し肌寒かったのを覚えている。
デパートの出口付近にアイスクリーム屋さんがあって、色とりどりのアイスクリームの看板が眩しくて綺麗だった。


龍がその看板を何気なく見ていると、珍しくもブタゴリラがアイスクリームを2つ、黙って買ってきてくれたのだ。


肌寒い日に、しかも外のベンチで、ふたりで並んで座って食べたのを覚えている。
『寒いな。』
そう言いながら、ブタゴリラはブタ鼻をブヒッとすすっていた。


傍から見たら、ふたりは普通の父と子に見えていたのかも知れない。
そんなことを思い出していたら、龍の胸は無音でひりひりと痛んだ。
喉の奥が潰されたみたいに痛くなって、上手く声も出せない。
まるで、自分の首も胸も、何かに締め付けられているかのようだった。
あいつの首を締めあげたのは、紛れもなく自分自身だというのに。


横たわるブタゴリラのド派手なピチピチパンツが、龍の視界に入る。


そのピチピチパンツの下から順に、目線をその身体の上の方に動かすと、嫌でも目に入るのが、ブタゴリラのセンシティブゾーン付近だ。
幾度となく布団の中で擦り付けられてきた、ソレを、龍は黙って凝視している。


「これがなかったら。」


吐息に近い、発声しているかしていないかくらいの小声で、龍はそうつぶやいて、おもむろに立ち上がった。


天井に頭が付きそうなほど大きな24歳の彼は、土管のように太くて固い筋肉質な脚をしている。現場仕事で自然と身に付いた、筋肉龍龍・・・筋肉隆々なその身体は、実に圧巻だ。


すると彼はなんと、いきなり右の足を、自身の腰の高さまで大きく振り上げた!


丁度ブタゴリラの、ミニブタゴリラ目掛けて振り下ろそうとした、その時(歴史は動いた。)


「ちょっ・・・!あんた!そこはクリティカルヒットポイントすぎるやろ!!」


誰も居ないはずの奥の部屋から、関西弁の女の声がする。


その声に反応した龍はそのまま真後ろに、まるで吉本新喜劇のように倒れこんだのであった。

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