変わらなくて、いいんです
今これを読んでいるあなたは、
「自分を変える」ということを、どう感じているでしょうか?
・変わらないといけないのは、分かっている。でも怖くて踏み出せない
・変わりたい。変わるための努力もしている。だけど上手くいかない
こんな風に感じている方も、いらっしゃるのではないでしょうか?
私も長いこと、そんな風に感じていました。
どうしたらいいのかいつも悩んでいたので、地味にキツかったです。
今、振り返ると
あの頃の私がいう「自分を変える」って
【自分のダメなところやダークなところを削ぎ落として、ツルツルでピカピカの、光り輝く美しい宝石のような存在になること】
だったんだと思います。
そして
削ぎ落として、削ぎ落として
「自分を変える」ことができたなら、自分を好きになれるし、しあわせになれる。そう感じていたんだと思います。
でも、
いくらダメで、ダークなところだとしても
自分の一部を「削ぎ落とす」のは、
心がつらくて、悲しい。
それが体にも現れるから、あちこち痛くなる。
そうすると、何かをする前から「怖い」と感じるようになります。
ひとは「怖い」と感じると、頭も心も体も緊張します。
頭が緊張すれば、アイデアが湧きませんし、
心が緊張すると、そもそも元気がでません。
体が緊張すれば、すぐに疲れて、続けるのが難しくなります。
気がつけば、いつも似たようなパターンで悩んでいる。
それが、2年ちょっと前までの私です。
では今の私は、「自分を変える」ことをどう感じているのか?
それは「自分に還る|《かえる》」ことだと思っています。
だから、「自分を変える」ことは怖いこと、というよりうれしいことだと感じています。
こんな風に私が変わったきっかけは、AFP(アート・オブ・フェミニン・プレゼンス)との出会いです。
AFPでは私たちを、ダメで、ダークな部分も含めて、「この世界に存在する、ありとあらゆる質(要素)を内包する、豊かで無限な存在だ」と捉えます。
ちなみに、私たちを「豊かで無限な存在だ」と捉える世界観は、珍しいものではなくなってきています。
「もう知っている」という方もいるかも知れません。
でも、AFPではこの世界観を、頭(マインド)で知識として知って終わるのではなく、プラクティスをとおして、実際に体験・体感し、感覚レベルで理解していきます。だから言葉での理解は、後からついてくる感じです。
私の体験をお話すると、プラクティスのプレワークの段階で、この世界観に初めて触れた時、とてもほっとして、脳の緊張と興奮が一瞬で溶けていくのを感じました。
全身の力が抜け、長い人生で感じたことのない深い安心感と寛ぎに驚きました。
「私が欲しかったものはこれだったんだ!」と感じ、「ようやく手にすることができた」という喜びで、思わず泣きそうになりました。
その喜びから振り返ると、「ダメなところやダークなところも含めて、私は私を丸ごと愛したい。同じように、周りの人も丸ごと愛したい」というのが、私のほんとうの願いだったんですよね。
そして、その愛には、今までのように「自分や誰かが、何かを削ぎ落として変わることができたなら、愛せるようになる」みたいな条件をつける必要は全然なくて、愛したいという願いのままに生きていい。
そのことが、ただただ、うれしかったんだと思います。
もちろんすぐに、自分を丸ごと愛せるようになった訳ではありません。
プラクティスを使いながら、人生の経験を重ねていくうちに、気がついたら「ダメでダークな自分もかわいい」、そんな感覚に変わっていた感じです。
その道筋を言葉にするならば、「自分に還る旅路だったなぁ」と私は感じています。そして「自分を変える」とは、「自分に還る」なんだという意味で、自分を変えなくてもいいと感じるようになりました。
そんな訳で、この note には「自分を変える 自分に還る」というタイトルをつけました。そして、この記事には「変えなくても、いいんです」というタイトルをつけています。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この記事が、あなたがあなたに還るきっかけになるならば、とてもうれしいです。
実は、かつて私が考えていた
「ツルツルでピカピカの、光り輝く美しい宝石」のことを、中国の故事で「完璧」と言うそうです。
ツルツル、ピカピカ・・・とか書いている時には、それが完璧主義ってことなんだとは思ってなかったので、気づいた時にはびっくりしました。
しかも
私はずーーーーーっと、「カンペキ」は「完壁」と書くと思っていたんです
それが間違いだったなんて・・・
私、長らくがんばってきたんですよ。
「自分はカンペキ主義だから、そこを変えなきゃ」って。
なのに、なのに!「カンペキ」が、完璧に書けていなかったなんて。
ねぇ。
おもしろいですね🤭