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信念とは、あらかじめ決めておいたもの

先日、駅構内でホームに向かって走っている人をみかけたのだが、その人がホームに着いた瞬間、電車の扉が閉まり出発してしまった。

このとき、電車に乗れなかった状況に対して、人間は意味づけをしないといられない。「ああ、もう一分早く家を出ていたら」と思うわけである。

信念/観念とは、前提(プリサポジション)である。

自分に起こること(刺激)に対して、一定の反応をするように決めておく

これはもちろん意識下のレベルではあるが、信念/観念は、私たちが世界に対してどんな反応をするのかの指示を出している。

つまり、「地図」(自分が信じていること)とマッチするようにその振る舞いを選んでいるといえる。

しかし、反応を選択する前の時点で、選択肢は既に制限されているのか、拡大されているのか、自分では分からない

なぜならば、信念/観念は、色眼鏡のようなフィルターの役割を担うからである。

信念/観念が、その人がある事柄は知っていて、ある事柄は知らないという、そのようなことまでも指示しているのです。

そして普通、人は自分の信念/観念と一致していることだけを信じる傾向がある。

そうなると、「では、現実とは一体何なのか」という質問が出てくる。

人は、自分の信念/観念に一致したことにだけ気づくものなのである。

一致しなかったものは、見えていても見ていない。

ふたつ、例を挙げましょう。

信念/観念は、それが想定していることの正当性を証明しようとする

たとえば、「積極的に誰かを愛するたびに相手の人が去ってしまうのは、何か私にいけないところがあるに違いない」という信念/観念。

これは、「私はたぶん、愛される存在ではないのだ」ということを想定している。

ここでふたつの出来事が起きます。

根底にある信念/観念が、自分は愛されない存在だということだとすると、誰かが愛情があるようにもみえる振る舞いをしてくれたときでも、その振る舞いは自分の信念/観念とは一致しない

そうすると、その人はその出来事を「削除」してしまう。

または、信念/観念に一致させようとして「歪曲」してしまうのである。

歪曲するときには、再解釈するような言葉を使う。

たとえば、このようなことを言う。

きっとあの人は私を操ろうとしているに違いない」「あの人は本当の私の姿を知らないんだ。本当の私を知ってしまったら愛してくれるはずがない」、と。

起きた出来事の価値を低く評価したり、それをなんらかの形で取り除いてしまうということが起こるのである。

とても興味深い引用があります。

ノーマン・カズンズの「信念/観念の定義」です。

「人間の脳の中にある百五十億個のニューロンが、思考と希望とアイデアと態度を、化学物質に変換する能力はまさに脅威だ。従って、あらゆることが信念/観念から始まる。すべての選択肢の中で最も強力なのは、本人が何を信じているかなのだ」。

また、ゲーテは、「信念/観念は、知識の始まりではなく、終わりである。信念/観念は、既に想定していることを『確認』するために存在するのであって、それを調査検討するためではない。正当性を調査検討するのではなく、正当性を『立証』するのである」と言っている。

いずれにせよ、あらゆる信念/観念は、歪曲によって作られているのである。

たとえば、洗車をしてピカピカに磨くと翌日必ず雨が降る、というものである。

でも本当はそうではなくて、ピカピカにしても翌日晴れるときもあるのだが、それは「削除」されてしまって、雨のときのことだけ覚えている。

その人は、特定の出来事(洗車しても晴れることがあるという事実)を「削除」してしまうのだろう。その人の現実の中には、それがもう含まれないかのように。

信念/観念は、元々は自分を守るために生まれたものと考えられている。

たとえば、人間が火に手をかざしたらやけどをしてしまうので、火を見たらそれは触れてはいけないものだ、といったようなシステムが、どんどん独自に発展していってしまったと考えられる。

あらゆる信念/観念は、学習の結果である、と考えられている。

なので、しばらくの間、信念/観念のシステムについては、批判や判断をせずに、ただ気づきを持っている状態でいたいと思っている。

信念/観念とは、私たちがこの世の中を生きていくときに、どのように自分自身をケアし守るのかというところのものである。

ひとつひとつの信念/観念は、学習の結果であり、ひとつひとつの信念/観念が、そこに選択肢を提供している

なので、信念/観念を捨てるということは、ある種の選択肢を捨てることでもある。

しかし、脳の仕組みは、すべてを保存していくアーカイブ的に機能するものなので、本当の意味では、信念/観念を捨てる、ということはできない

ただ、信念/観念を再組織化して、五年前のその人ではなく、現在のその人にフィットするような形にすることはできる

電車は信念/観念のようである、というたとえ話を終わらせてしまおう。

信念/観念はフィルターであって、私たちはその知覚フィルターを通して物事を見ている。

なので、信念/観念としての電車は、もう既にそこにいるのである。

その電車に乗り込もうとする。

常に、信念/観念は、私たちの前を走っているものなので、つまり、信念/観念は、その状況に投影されていて、私たちは常にそれにマッチするように振る舞いを調整している、ということなのである。

その信念/観念を立証するために。

◆参考文献:クリスティーナ・ホール博士の言葉を変えると、人生が変わる NLPの言葉の使い方 2009 ~信念/観念と現実 より

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