【小説】彼女
「……できない……」
「貸して、やってあげる。……ほら」
「ありがとう」
彼女は私よりもずっと器用だ。彼女に任せれば、私の決して形の良くない爪も、綺麗な曲線を描いて短くなる。ネイルだけじゃない、彼女は料理も上手い。調理師の免許を持っている。頭もいい。あくまで私から見れば、の話だけれど。中学すらまともに通っていなかった私は、彼女の持つ広い世界に憧れる。せめて義務教育くらい、真面目に卒業しておけば良かった。
でも彼女に勝るものが、こんな私にも一つだけある。私はピアノが弾けた。小学生の頃、まだ私に家族というものがあった頃、五年ほどピアノ教室に通っていたことがある。もうずいぶんピアノには触っていないが、楽譜さえ見れば、頭の中で音楽は奏でられる。でも彼女といったら、カラオケすらまともに歌えない。音痴なのだ。
「でも音痴だからって、日常で困ることなんて一つもないもの」
「カラオケでいつも恥かいてるの、誰だっけ?」
「……あのね、自分の部屋すらまともに片付けられない女の子の方が、世間一般から見たらずっと恥だから」
「部屋なんて誰も見ないよ、アンタ以外」
私と彼女は一緒に暮らしている。安いマンションの一室。一応それぞれの部屋もあるけど、私の部屋なんて必要ない。昼間はリビングで足りるし、寝るときだって彼女の部屋を使っているから。私の荷物なんて引っ越してきた時のまま、ほとんどが段ボールの中に眠っている。
「もう……だったらもっと小さなアパートだって良かったじゃない」
「金あんだから使っちゃえよ、ケチケチしないでさ」
「……自分のお金じゃないでしょ」
「アンタのそういうトコ、嫌い」
私は働いていない。彼女は就職ではないにしても、アルバイトはしている。私はニート、彼女はフリーター。金ならあるのに、わざわざ自分で稼ごうとする意味が分からない。
この金の出所を説明するなら、私と彼女の出会いに触れなければならなくなる。
二か月前、私のカレシが主催するパーティーがあった。パーティーと言っても、都内の高級マンションの一室で騒ぐだけのもの。薄暗い部屋でアルコール片手に、バックにクラブミュージックでもあれば完成。女でも男でも好き勝手つかまえて、良いのができたらドラッグと一緒に個室へ消える。人数制限なんてなし。ドレスコードもない下卑たパーティー。
彼がどこのツテでこんな良い部屋を入手したのかは知らない。ただ彼は、いつでも金回りが良かった。見た目こそ誠実そうな、いかにも好青年の出で立ちで、私と彼が二人で並べば、私はさぞかし悪い女に見えただろう。でも彼の方がずっとずっと悪い人だった。私が知っているのはそれくらいだ。
彼女はその部屋でパーティーには参加せず、エントランスでただ黙って佇んでいた。
「こっち来ないの?」
私から声をかけた。彼女は、一人でいたい気分なの、と答えた。
「アンタみたいな可愛い子がいるって知ったら、ここの男の子みんな集まっちゃうかも」
「興味ないな」
「へー」
「男の人、嫌いなの」
「……へぇ」
それが私と彼女の出会い。
私はその日、初めて女の子と体を重ねた。
それから石が転がるように事は進んで、出会ってからたったの二週間足らずで一緒に暮らすことになった。金の工面は例の彼から受けている。一応、まだ関係は続いている。同時に、私は彼女とも関係を持っている。彼がそのことに気付いているかどうかは分からないが、彼が私を愛しているのかも分からない。大体、あんなパーティーに恋人を毎回招く時点で、愛情なんて疑わしい。彼女からそう指摘されるまで私も気付かなかったが、彼女から言わせれば、そんな私もおかしいのだと言う。
「好きなの? 彼のこと」
「うん、好き」
「ならどうして、他の男とも寝られるの?」
「嫌いじゃないから」
「私は?」
「好きだよ」
「……そう」
彼女は笑いながら、私と彼の関係を許した。そして彼女は、自分と私の関係も許した。
「はい、おしまい」
「じゃあ次、足」
「はいはい」
私の十個の手の爪が見事に整った。足の爪も同じようにお願いすれば、彼女はすんなりと承諾してくれる。彼女と出会う前までは長い爪でネイルアートを楽しんでいたのだが、女の子同士の情事は爪が伸びていると痛い。だから切るようにした。彼は私のそんなちっぽけな変化には、毛ほども気付きはしなかった。
なぜ彼女のような人間があのようなパーティーに参加していたのかはよく分からない。男が、と言うより、異性(との性行為)が目的ではないのだとすれば、あそこにあったものは酒と料理とドラッグと喧騒くらいだ。あのパーティーは残念ながらゲイやレズビアンのハッテン場ではなかった。詳しく問い質したことはないが、彼女は以前ふと、ただ暇だったから、と零したことがある。私は、そう、とだけ答えておいた。正直どうでもよかった。
私の足を膝に乗せ、彼女は器用に私の足の爪を切っていく。俯いている彼女の睫毛の長いこと。綺麗だな、と素直に感心する。そっと足に触れる彼女の感触がまるで曖昧な愛撫のように思えて、笑えた。いきなり口元を歪ませた私を見て、彼女が首を傾げる。なんでもない、と答えれば、変なの、と彼女はぽつり呟いた。
彼女はよく私を「変だ」とか「おかしい」とか形容する。だが私から言わせれば、彼女の方が私なんかよりずっと不思議だった。私はそのことを彼女に隠すことなく指摘する。
「なにそれ。私がおかしいってこと?」
「おかしいって言うか……」
「面倒くさい?」
「ああ、面倒くさい女っているよね。最悪だね。って言うか女って大概面倒くさいよね。最悪」
言っていて気づいた。私も女だ。とりあえず、今はその問題は置いておくとする。
「私が最悪なの?」
「違うよ。不思議なの、アンタは」
「……あ、あれ、天然ってヤツ?」
「それはない。アンタは頭の回転速いし、ボケたところなんてない」
「じゃあ何なのよ」
「んー……。アンタは、掴めない」
彼女は掴めない。考えていることというより、彼女という存在自体が。謎だ。ミステリアスな美人だ。男にモテそうな恰好のポイントだ。だが彼女は男に興味がないという。なんだか少し勿体ない気もする。
そう、彼女は掴めない。全てにおいて寛容に構えているようにも見えるのに、小さなことですぐむくれた顔をしたりする。一見とても上品な物腰をしているのに、缶ビールを缶のまま一気に呷ったりもする。しかも胡坐で。そんな彼女を見るのが、私はちょっと好きだったりする。おしとやかで口数が少ない印象を受けるのに、人と話すときの彼女はとても饒舌になる。口数が増えるというより、発言に機転が利いているのだ。水商売をしている私たちの共通の友人が、彼女がその世界に入れば確実に店のナンバーワンになれる、と以前豪語していた。やはり男ウケは良いのだ。
私は彼女のことをあまり知らない。私と出会う前の彼女はどんな生活をしていたのか、どこで生まれどこで育ったのか、なぜフリーターなんてやっているのか、こんなに頭が良いのだからまともな教育は受けてきたのだろうに。家族はいるのか。いるのならそれはどんな人たちなのか。私より前に付き合った人たちはどんな人たちだったのか。いつから同性愛に目覚めたのか。何かきっかけのような、もしくは男へのトラウマでもあるのだろうか。まず男との経験はあるのだろうか、そこまで男というものを嫌悪しているようにも見えないが。夢とか、目指すものはあるのだろうか。調理師の資格は持っているのだし、それに関して何か将来への展望があってもよさそうだ。私のことは、本当はどう思っているのだろうか。彼のことは。彼女自身のことは。
私は彼女のことを、何も知らないのかも知れない。
「……それは」
彼女は私の顔を見ないまま、呟く。
「うん?」
「あなたが、私のことを知ろうとしてないだけじゃないの?」
「……」
パチン……、爪を切っていた高い音が止む。しん、と一気に静まり返る空気。私も口を噤んでしまった。否定することが出来なかったから。
「あなたは私のことも……彼のことも、深く知ろうとしないじゃない」
「……」
「関わろうとしないじゃない」
「……」
「なのに、必死で交わろうとしている」
「……」
「……ずるいわよ」
「……」
彼女の静止した手を引き、その中の爪切りを取り上げる。
彼女の長い髪に指を絡ませる。とてもしなやかで清潔感のある黒い髪。白い頬は柔らかく、少し体温は低い。目が大きくて唇が赤い。彼女からはとても心地好い甘い匂いがする。穏やかな声は耳に優しい。
これが彼女の情報。私が知り得る、彼女の確かな。
「触れるものじゃないと、ね、嫌なの」
私にとって彼女とは、それで充分な気がした。
「ちゃんと見えるものじゃないと……感じられるものじゃないと、嫌なの、私は」
「怖がり」
「……」
「弱虫」
「……」
「好きよ」
そう言って、彼女は私にキスをした。
ずるいのは、彼女の方だ。私を抉るだけ抉って、言葉とキスとをたった一つずつで全て塞ごうとするのだから。
そうは思ったが、私は与えられる確かな感触に身を任せることにした。