【小説】はんぶんこ
「やっちゃった」
私は呟いた。
「やっちゃったね」
彼女も呟いた。
「これ、どっちが悪いとか、あるかな」
私は彼女に尋ねた。
「どっちもどっちじゃない?」
彼女はそう答えた。
彼は悪い男だったのだろう。誰にでも優しすぎたし、そこに嫌味がなかった。天性の女ったらし、とでも言おうか。特に恋愛に免疫のない女なんてイチコロだ。彼女のように。
「いや、それは、どうだろう、言い方」
「恋愛経験皆無だって言っていたじゃない」
「彼とはしたことあるもの」
「たった一度きり?」
「……」
それを恋愛だと言うのだろうか。
「それを言うなら、あなたこそ」
「なに?」
「何人もの男と寝ているそうね。別に悪いとは思わないけど」
「どうも」
「でも彼としたことはないんでしょう?」
「……」
これも、恋愛だなんて言えるのだろうか。
陳腐な話。二人の女が一人の男を取り合った。男は一人を選べなかった。どちらにもその気があるような態度を取っておいて、僕はどちらにも興味はないよ、と言った。先に手を出したのは、彼女だった気がする。これだから処女は重くて面倒くさい。たった一度きりのその行為に責任を持てと言う。哀れだなぁ、と思いながら彼と彼女を見つめていたら、彼はこう言い放った。
「でも君の方が好きかな」
これには私の堪忍袋の緒も切れた。お前は何様だよ。ふざけるな。なんだ、その、その言い分は。気が付いたら私も彼に詰め寄っていた。
そして彼は決定的な一言を言ってしまった。
「うん、二人とも好きかな」
ここからは女の共同戦線だった気がする。あまり詳しく記憶がないが、彼女が彼の部屋にあった金属バッドを、そして私はキッチンから包丁を持ってきて、彼に襲い掛かった。怒りのままに振り下ろしていた気がする。彼はどんどんとただの肉に成り果てて行って、確か情けなく叫んでいたような気もするし、いつも通りへらへらと笑いながら、この冗談みたいな光景に身を任せていたような気もする。肉になっていく彼が見えなくなりながら、それでも妙に彼女のことだけは見えていて、たぶん彼女も私のことだけは見えていたのだと思う。私と彼女は無傷だった。
「どうしようか」
彼女が私に聞いた。
「なにが」
私が聞き返す。
「これ」
彼女が肉を指さした。
「……どうしようか」
私は途方に暮れた。
なんとなく、もう一度、彼の肩のあたりに包丁を突き刺してみた。ごり、と、骨の音。それをぐりぐりと押し込んで、ようやく包丁は彼の肩に刺さって静止した。
「ああ、なるほどね」
彼女は感心したように言った。
「ん?」
私はまた彼女に聞き返す。
「隠ぺい、ってヤツ?」
彼女はポツリと呟いた。
「あ、なるほどね」
私は彼女に賛同した。
彼の部屋を探っていたら、糸鋸が出てきた。彼のものではなく、恐らく亡くなった父親のものだろう。大工だったと聞いたことがある気がする。糸鋸は都合よく二つ出てきて、私はそれを納戸から引っ張り出して彼女に渡した。彼女はその一本を私に突き返した。
「はんぶんこ」
彼女が言った。
「ずいぶん稚拙な言葉ね」
私はそう言いながらも、糸鋸を受け取った。
「酷いわよね」
彼女は左手首に糸鋸を当てながら言った。
「ああ、彼ね」
私は先ほど抉った包丁を引き抜き、その右肩に糸鋸を当てながら返した。
「この左手が、憎たらしい」
彼女は律儀に彼の腕時計を外して呟いた。
「なんで?」
意外と服が邪魔だな、なんて思いながら、私が返す。
「左利きだったじゃない?」
彼女が糸鋸をいよいよ引き始める。
「左利きのAB型ね。一番タチが悪そうな組み合わせ」
私が服を引き千切って、肉を露わにする。
「だから、私を触るとき、左手で触っていたの。他の女にもそうしていたのかなって。思うと憎ったらしくって」
彼女が力の限り糸鋸を引く。
「ああ、そうね。まあ私は、触られたことないけど」
私もいよいよ糸鋸を肩口から引く。さく、と表面の肉は案外簡単に割れた。
「彼のどこが好きだった?」
ぎこぎこ。彼女が聞く。
「そうねぇ……何か今となっては、よくわからないわ」
ぎこぎこ。私が答える。
「私さ、彼とするまで処女だったら。男性のそういう状態のイチモツって、初めて見たの」
ぎこぎこ。彼女が少し弾んだ声で言う。
「へぇ。どうだった?」
ぎこぎこ。私って何本見たことあったかな。
「なんかねー、意外とつるんとしてた」
ぎこぎこ。彼女のその言葉に、私は思わず吹き出してしまう。
「意外とね。そんなにグロいものでもないのよね」
ぎこぎこ。私は肩で笑いながら返す。
「そう、もっと筋張ってて真っ黒で、グロテスクな感じを想像してたの!」
ぎこぎこ。彼女は至極、今度ははっきりそうとわかるように、楽しげに言った。
「あー、でも、私の初体験は、そういうイチモツだったかも」
ぎこぎこ。なんだか苦い思い出だ。
「え? そうなの?」
ぎこぎこ。彼女は少々驚いた声でそう言った。
「親戚のおじさんだったんだけどね、小学校六年生のとき。夜、私の部屋にいきなり入ってきてね、襲われたわけ。怖かったし痛かったけど、よく遊んでくれるおじさんだったから、子供心ながらに、ここで私が騒いだらおじさんの迷惑だ、って思っちゃって。ただただ泣きながら終わるの待ってたなぁ」
ぎこぎこ。ああ、なかなか骨が曲者だ。
「……なにそれ、トラウマ」
ぎこぎこ、ぎ。彼女の手が止まった。
「でもそれがさぁ、結構気持ちよかったのよね。気持ち悪さと気持ち良さが混ざり合ってすごい、こう、高まっちゃって。その時中出しされたんだけどさぁ、そのあったかい精液の感触で、私イっちゃったんだよね」
ぎこぎこ。今度は私が至極楽しくなってきてしまった。
「わー、変態」
彼女の台詞は棒読みで、そしてぎこぎことまた音が鳴り出す。
「そうね、それから私はビッチ街道まっしぐらって感じ」
ぎこぎこ。楽しさに少し虚しさが加わる。
「……イくって、さ、よく言うじゃない」
彼女はおずおずとそう口にした。ああ、もしかして。
「イったことないんだ」
ぎこぎこ。私はからかうつもりでそう返した。
「だって私、こないだが初めてだよ? みんな初めてなんてイけないものだって言うし、それが普通なんじゃない?」
ぎこぎこ。確かに。
「それもそうね。私が普通じゃないからなぁ」
ぎこぎこ。ああ、やっと骨の半分まで達しただろうか。
「ねー、これ、硬いね」
ぎこぎこ。彼女も骨に苦労しているようだった。
「人体って結構頑丈なものね」
ぎ、こ、ぎこ。私も骨を引きながら返す。
「でもさ、案外あっけないものでもあるのね」
ぎ、こ、ぎこ。彼女は思い出したように呟いた。
「そうかもねー」
ぎ、こ、ぎこ。私は気のない返事を返す。
「私今まで、本気じゃなかったのかな」
ぎ、こ、ぎこ。彼女が何か思い巡らすような声色で言う。
「何が?」
ぎ、こ、ぎこ。ああ、骨が硬い。
「人を殺すってことに」
ぎ、こ、ぎこ。彼女はふわりとその言葉を、この場に置いた。
「……殺そうと思ったことが?」
ぎ、こ、ぎ。今度は私の手元が止まった。
「もう何度も」
ぎ、こ、ぎこ。彼女は顔色を変えずにそう言った。
「誰を?」
何故か私の声は、申し訳なさそうな声だった。
「私を。自分自身を」
ぎ、こ、ぎこ。ごとん。彼女が切っていた左手が地面に落ちた。
「自殺?」
私が訊ねる。
「やっと切れたぁ。そう、私、自殺マニアなのね。でも世間一般的にそう言われているだけであって、別に私はふざけているわけではないんだけど。本気で死にたかったんだけど。でも死んでないってことは、本気じゃなかったのかなぁって」
こんこん。彼女が落ちた左手を弄ぶ。硬く冷たくなった指先で床を叩いている。
「ふぅん」
私は相槌を打って、再び作業に戻る。
「最初に死にたいって思ったのは、記憶にあるのは五歳のとき。親から虐待されていてね、殴られるのは日常茶飯事で。食事摂らせてくれなかったり、ガスコンロで炙られたり。結構、毎日毎日死にたかったんだよね。で、五歳の時、わざと線路に落ちてみたの。救出されちゃったけど。少し新聞沙汰にもなったみたい、奇跡の救出劇って。でもやっぱり親にはね、バレてね。猛烈に怒られた。バスタブに沈められたの」
こん、ここん。彼女の手の中、彼の指がリズムを奏でる。
「死にそうになったこと怒って殺そうとするなんて、本末転倒じゃない?」
私が少しお道化てみせる。
「その辺、馬鹿なのかもね、うちの親は」
彼女の声に、ほんの少しの怒気が籠った。
「馬鹿、ね」
私はそれを気づかないふりで流す。
「まあ、そんな悪行もね、私が小学校二年生のときにさすがに近所のおばさんに通報されて。晴れて私は地獄から救出されたのね。でも、それまでさ、生まれてから八年間、ずっと生きていることを否定され続けてきたわけだから。もう、死ぬこと以外考えられなのよ。少しでも辛いことあるとすぐ死にたくなるの。あー、遅刻した、死にたい。あー、忘れ物した、死にたい。あー、好きな人から虐められた、死にたい。あー、好きな人から鞄隠された、死にたい。あー、好きな人から机の上にゴミ箱の中身ぶちまけられた、死にたい。あー、好きな人に恋人ができた、死にたい。あー、好きな人から死ねって言われた、死にたい。これ、私の中学時代」
彼女は切り落とした左手をひらひらとさせながら喋る。
「悲惨ね」
私は肩口にいよいよ馬乗りになって、目一杯の力を込める。
「自殺癖が付いちゃって。でもなかなか死ねなくて。そんな時に、彼が言ったんだよね。『可哀想に』って。私それに感動しちゃったの。私に同情してくれる人もいるんだなーって。だから、彼に全部預けたの」
彼女の言葉は少しずつ、静かになっていった。
「……今は?」
私が手を止めて訊ねる。
「え?」
彼女がきょとんと私を見る。
「人、一人殺してみて。死にたい?」
私は彼女を見据えて聞いてみた。
「そうだな……どうだろう……うーん……」
彼女は少し考えながら、彼の指を指先でつまんで、ぎゅ、と力を込めた。
「私も何度か死にたいって思ったことあるけど、だからあなたの気持ちも全く分からないでもないけど。それでも私、変ね、とても生きたいわ」
私ははっきりそう言葉にした。見えない何かに、宣言するように。
「……殺しておいて?」
彼女が何か含みのある言い方で訪ねた。
「そう、殺しておいて」
私は再度、はっきりと、生きたいと主張した。
「……私も。私も、生きたいと、思う」
彼女は曖昧ながらも、生への誓いを口にした。
「早く片付けましょう」
私たちが生きていくのに、彼の生死は障害だった。
「分かった」
彼女は切り落とした左手を放り、次は足の付け根に手を付け始めた。
「……頑張ってね」
私の口からふと、彼女への祈りが零れた。
「……うん」
彼女は、あなたもね、と付け足して、作業に戻った。
私たちは共犯者になった。