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インド バンガロールでの生活1年目で感じたこと
インドでの生活1年目が終わり、折り返しを迎えるので、今年感じたことをまとめておく。
どうせこれからも聞かれることも多いだろうし、良い機会だと思う。
この1年は「生きる幸せ」を考え直させられた年だったのではないか。
この国で暮らしていると日本での生活が如何に欲求と消費に溢れ、飽和しているのかということを感じさせられた。
当然、この国でも自国民が満たされるものは溢れているし、決して何もないわけではない。
ただ、趣味趣向好みの違いがあり、私自身が欲しいものがすぐ手に入る環境ではない。
10分あれば生活用品がデリバリーされるサービスもあり、買い物に行く手間も省けるけど、買い物に行く楽しさが中々味わえない。
こうした発想こそ、贅沢でわがままなのかもしれないと自認はしている。
そういった前提の上だけど、これまでここでは手に入らないと思っていたものが売っていると日本では考えられない位嬉しい。
ここでえのきが買える、ニラが買える、生食できる生卵が買える、こうした発見があると仲間内で共有したくなる。小さな幸せになる。
だからこそ一時帰国して日本のコンビニやスーパーを回っていると、去年迄では感じることのなかった飽和された感覚を味わった。
インドで生活していると感じる幸せが、日本にいる当然の生活のベースとして無味無臭で蔓延している。
コンビニのホットスナックやチェーン店のありふれたメニューもこの国から見ると手の届かない魅力的なものだが、日本にいると当たり前、もはやそれ以下なのかもしれない。
日本に帰った時は貪るように食べたいものを食べたけど、インドで仲間内で持ち寄って食べる料理や良いレストランを見つけた時の心躍るような感動には勝らなかった。
幸せは絶対的な量でも質でもなく、相対的なギャップから感じられるものではないのかと考えるようになった。
期待してなかったものが期待を超える、諦めかけていたことができる等そういったことから感じられるのではないか。
当然逆も然りで、当たり前が当たり前ではなくなる、近くにいた人がいなくなる等は絶望を感じるのだろう。
こうして人生を振り返ってみると、なんでも買える・食べられる・いてくれる・満たされるような環境では気が付く事ができない幸せがこれまで生きてきてもっとあったのではないかと思う。
こうした気持ちも日本に戻り数か月すると忘れてしまうのかもしれない、そんなことはなかったと思うのかもしれないが今ここではそう思うし、忘れたくはない。
一方でインターネットを介して日本と同じエンタメが見え、それを共有できることには救われたと思う。
今なら日本と遅延なく流行りのドラマやバラエティも殆どが見えるし、こうした環境が当たり前になっている。
他にもスマホを媒介とした各種サービスも普及しているし、気軽に友人と連絡もできる。
昔は手に入らなかったものも少しずつ流通するようにはなっている。
こうしたものが当たり前ではなかったひと昔前の赴任とは感じた退屈さや隔絶感は比べ物にはならないと思う。
過去必死でこうした環境で生きてくれた人たちがいるから、今があると思うと簡単に現状を無碍にしてはいけないし、尊敬と感謝と共に反省させられる。
それでもなんだかんだいって赴任後3カ月位は何かと辛かったなと思う。慣れない環境、通じない会話、より感じる孤独感。
少しずつ環境に慣れ、言葉に慣れ、仲間が増えていき、前を向いて生きていけるようになったが、それまでは想像以上に不安だった。勿論会社に行けば知っている人もいるし、よくしてくれる人もいるが、不安だった。
フランクにフレンドリーに会話できる仲間が徐々にできてきて、人は一人では生きていけないと改めて感じた。皆で生活を少しでも楽しくと、イベントや飲み会を企画して盛り上がれることが救いのように感じた。人を受け入れて向き合ってくれることのありがたさをこれまで以上に感じた。人は助け助けられて生きていくのだと思う。
異国の地で暮らすということはこういうものだとは想像していたけれど、百聞は一見に如かず、人にこうだからやめておけと言われて回避するより、自分で選択して経験して気が付く事はより重たい。マンネリしている環境ではそのことの価値には気が付かない。日常が非日常だと気付けない。よく言われるインドに行くと人生観が変わるというのはこのことをいうのかはわからない。だけどこの1年で感じたことを肝に銘じておきたいと切に思う。
※バンガロールは気候がよく、インドの他の地域と比較すると住みやすい環境です。