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今の日本にこそ、昭和の12小節ブルースを醸し出す必要がある
世の中はすりばちだ 人生はすりこぎなんだよ
SNSのタイムラインに「とん平のヘイ・ユウ・ブルース」 のYouTubeが流れてきた。
いまの日本には、ブルースな環境がなくなりつつある。
ベースという楽器を始めて2年ほど経った高校3年生の頃、東京都足立区梅島。ライブハウス「ゆーことぴあ」の毎週火曜日はセッションデー。プレイヤーが各々楽器を持ち寄り、ブルースの12小節に合わせてセッションを繰り返していく。10代でこのセッションに参加していたのは私と、私をこのライブハウスに誘ってくれた先輩だけで、高校生は私だけだった。路面店みたいな感じでガラス張りの窓があって、演奏していると道端のお客さんがチラチラ見るという変わったシチュエーションのライブハウスだった。
ずいぶんと鍛えられた。演奏技術、グルーヴ。知らない大人と楽器だけで会話をする。同級生や後輩と組んでいたバンドで演奏するがチープだよねと、大人の階段を一つ一つ上がっていくのを、梅島という街で、白身魚の塩っ気が交じったフィッシュチップをつまみに、まだまだ苦いと感じていた●ールで流し込んで実感していた。
多様性溢れるハコだった。この頃はインタビュースキルなんか全くなかったので、酒に溺れた彼らの話をただ聞いていることしかできなかった。でも、勝手に話してくれた。生まれも育ちも足立区西新井で、西新井大師近くにある商店跡取りというグレッチ所有のギタリスト、スタジオミュージシャンとして活動していたけど一念発起してユニットを組んだフェンダーテレキャスのギタリスト。いっつもタンクトップで細身長身のロック大好きドラマーもいたし、この人とはコピーバンドを組んで相川七瀬の曲をライブで披露した。
それぞれに味わい深い人生がある。彼らの演奏はテクニカルではなかったけど、深い人生に裏打ちされた味わい深い演奏がある。平成初期のライブハウスで、演奏が完全に昭和だった。私は昭和時代を10年しか生きてないけど、昭和の半分や3分の1を生き抜いた人生を聞けたのは当時の木村少年には貴重だった。細かい話はあんまり覚えてないけど、「昭和のブルース」と呼ぶのにふさわしいエピソードだったのはおぼろげに感じている。
テクノロジーの発達は大いに喜ばしいことだし、生活が便利になる技術の進化はどんどん進むべきだと思う。一方で失うモノもある。時間軸に追いつかない感情、情緒、味わい深い人生を送るには感情のベクトルを自分自身に向けて咀嚼する時間が必要になってくる。
テクノロジーや技術発展は時間感覚を短くする。時間感覚の短さはブルースにはそぐわない。時間感覚の短さは人間臭さをなくすキッカケとなる。ブルースが醸し出す人間味溢れるペーソスは、アナログ感覚でゆったりと流れる時間から構成される。
あの頃、平成8年の足立区梅島のハコから流れていた毎週火曜日のブルースセッションには昭和後期を生き抜いてきた香りを幾分にも含んだグルーヴが生まれたのだ。
いま、日本のあちこちで、ブルースを生む空間がなくなっている。まだまだテクノロジーが進化してツールも多様化する社会において、「個」をいかんなく発揮して表現する手段のひとつとしてブルースの存在は欠かせない。
「キラキラ生活送っています的」な部分しか見せない連中の人生なんてなんの味わいもない。5時間かみ続けたガムよりも味わいがない。
もっと闇の部分を見せろ。泥水すすってた頃を泣きながら振り返れ。欲望にまみれた正直な気持ちを吐き出せ。
大丈夫。「俺も、私も、同じだ」と言ってくれる人が絶対にいるから。
それが「●●(あなた)のヘイ・ユウ・ブルース」になるから。
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