様々な体感がAIとのアライメントを見つけてくれる
書き出してしまえば書ける、文章なんてそんなもんだという認識があるけれど、LLMモデルのAIも次の文字列を並べているだけで考えて打ち込んでるわけじゃない、そんな統計的、確率的?な文章でどこまで心が奪われるような文章を書くことが出来るだろうか、また人間の書き出してしまえば書き終える文章はそれと同じようなものなのだろうか。
初来日した外国人が初めてのカツ丼を前にして、どんな味がするだろうと想像し、湯気に乗って出汁で味付けされた卵と玉ねぎととんかつとご飯を使い慣れない箸で持ち上げて口に入れる瞬間、これがカツ丼の香か〜と至福の時はもう中盤、口の中に入れてイメージを超えたカツ丼のそれらしさがいっぱいに広がる。食べ終える前にまた食べたいと思うかもしれない(よだれが出てきたので今日はカツ丼を食べるに違いない。いや食べよう。)
ここまで書いて思う、自分の文章というものが何のために存在してるのか、世の中に存在する本の中で選りすぐりのものに達するような文章を書くことができるのだろうか、誰かのためになるようなものを書くことができるのだろうか、LLMに書いてもらうよりもいいものが書けるだろうか…。
今日降っている雨の雫は近くで見ればその一粒がすごく綺麗に感じるけど身体に当たるのを避けて歩くし、綺麗だなぁという感覚も常にあるわけじゃない、むしろいつもは疎ましく感じているからこそ一粒になった雫が綺麗に見えて、自分の普段の傲慢さに気がつくことができるのかもしれない
自然の定義や意味合いが何処から何処までで何なのか、文章を書くという行為が自然と言われるように書けたとして、それが自分らしさやオリジナリティを持って書くという事なのか、更にそれが誰かの共感をよぶものであれば文字の羅列や組み合わせ以上の体験を伝える事ができるのだろうか
花屋に売っている花を見ても自然との結びつきは少なく花屋の花として見ている。
その花を買って家に飾って水を換えて茎を切ってやったり洗ってやる、開いたり枯れたりしていく様に自然のものだという認識が少し入ってくる。花屋に並んでいる時にその終わりまでを実感として感じるまでには行ないからこそ買って飾りたくなる。そんなふうに期待を超えて心が動くことだってある。実感したいのだろう。
AIと人間のアライメントがどのように進んでいくのか、AIとの間でなくても実感している事が少ないのにAIの進化のスピードに気付きが追いついていない
異国で初めてカツ丼を食べるような
疎ましい雨を手のひらで見た時のような
切花を買ってきて部屋で愛でるような
そんな体感をどのくらい持っているだろうか、今後はAIとの体感も何か掴みたい
どうせなら楽しんでと自分の文章を読んで尚更に思う。
先日だいごろうが初めてのゲロを吐きました。コンビニでもらうスプーンを袋に入ったまま噛みしごいていて、そろそろ怪しいなぁと思っていたらゲホゲホと言い出しました。袋の端がピシッと破け、それを飲み込もうしていました。飲み込もうとしている物を吐き出させるのは大変でましてやペラペラと張り付くものは難しくほぼほぼ飲み込んだと思います。咳混じりにオエっとしていて私が背中を叩いてゲボ〜っとミルクと一緒にペラペラも出てきました。
ふ〜っと安心したらちょっと面白くなる所があって、ゲボでたね〜よかったなぁ〜と。
勿論本人は大変だし、大事に至らなくてよかった(お前のせいだろ)。
ま〜でもなんか凛々しくなってました。
ピンチはチャンス!ね、よかったよかった。
また一つ成長させてもらいましたよ。
カツ丼や花や雫みたいな感受性だけじゃないんだぞ!!ペラペラは危ないという感性もあります。そしてゲボという体感もね、これで益々ゲボ吐いてる人に寄り添えるわけです。
いや〜ペラペラは危なかった〜。気をつけま〜す。
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