人と人を結ぶ愛のメッセンジャー KIMIE

沖縄でヒーリングと癒やし自然療法、リトリートの宿泊施設を運営している50代の元氣いっぱいのママです。 私のこれまでの体験や経験、氣づきを綴っていきたいと思います。よろしくお願いします。 https://www.facebook.com/kimie.fukui

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マガジン

最近の記事

指先のビリビリ痺れから分かったこと

7月26日ライオンズゲートオープンの日から、はじめたブログ。 他界した実家の家族のことについて思い出しながら時には泣きながら 書き記してきました。 書き進めていくことで私のインナーチャイルドが、どんどん癒されていきました。 そこから判明したことがありました。 それは、辛かった時のことを自分で封印していたということ。 指先のビリビリ 今年の6月21日の夏至の日。 朝から砂浴のお客様が来られて、主人と2人で砂地で穴を掘って、お1人づつ丁寧に砂を掛けました。 その後から急に腕が

    • 探し求めていた場所との出愛❤

      沖縄に移住して3年くらい経った頃、ようやく、ここだ!!と思う場所が 見つかりました!! それまで、仕事をしながら、ちょくちょく場所探しに行っていたのですが、なかなか見つからず、1年以上掛けてようやく出愛う事が出来ました!! 沖縄移住前からの夢 私たちは当初から沖縄に「理想郷」を創り、ヒーリングと癒しの場を提供する場所を探し求めていました。 移住前から、ありとあらゆる不動産業者をタウンページなどで調べて問合せしてみたり、当時は未だITの時代ではなかった為、情報を得る事が、と

      • 沖縄初の講演会主催~素晴らしい展開へ

        沖縄に移住してから次々に出愛(私は出会いをこのように書いています)があり、どんどん人脈が広がっていきました。 福岡にいた時にネットワーク「地球村」(環境NPO)のグループメールで知り合った沖縄支部の代表者の〇さんが、わざわざ会いに来てくださったり嬉しい出愛が、どんどん押し寄せて来ました。 沖縄で初の講演会主催 福岡に居た時に務めさせて頂いた福岡春日「地球村」の代表も私の代りに他の方が引き継いでくださる事になり、安心してお任せし引越しする事が出来ました。 その流れで、移住し

        • 沖縄での生活~愛❤ゆいま~る

          家族と沖縄に移住してから、たくさんの方々にお世話になりました。 困っている人を見過ごせない、優しく、あたたかい沖縄の人たち。 出会った人からのご紹介で、どんどん世界が広がっていく感覚。 「〇〇の事なら○○さんがいいさぁ~」と知ってる限りの情報を 教えてもらって、ご紹介を頂くと、そこから、また新しい情報を頂いて 今までにない嬉しい展開になりました。 優しさに感動❤ ある時、車で道に迷ってしまい、民家のおじさんに道を尋ねたら 軽トラにおじさんが乗って、ついておいで、と車を走ら

        マガジン

        • 自分史
          12本
        • 愛おしい私の家族
          7本

        記事

          沖縄移住~新事業立ち上げ

          私たち夫婦は、東京から福岡に移住し、開業して12年!! 更なるチャレンジで家族とともに沖縄に移住しました。] 自然案内のお店オープン 福岡ではスキューバーダイビングのプロショップを運営していましたが、 沖縄では海のプログラムとして、スキューバダイビング、シーカヤック、 山のプログラムとして、トレッキング、川と滝でリバートレッキングなどをガイドしながら自然解説を行うお店をオープンしました。 主人が福岡からスタッフ3名と共にオープン準備のため2002年12月に引越しをしまし

          人生2度目の大きな決断

          20世紀の総決算のように、いろいろな出来事があった2000年。 心新たに始まった21世紀初めの年。 公私ともに明るい氣持ちでスタート!! 夏までは全て順調にいっていました。 人生の転機 ところが、夏休みで初めてのハワイ島に家族で旅行に行って帰って来た、翌日の9月11日にあの事件がニューヨークで起きました! (オーマイガー!!ショック!!) 帰って来るのが1日遅かったら空港閉鎖で飛行機も飛ばず帰れなかったかもしれない、ギリギリのタイミングでした。 世界中の人が暗く重たい氣持

          尊い命と向き合う大切なとき

          開業して9年目、次男が誕生した2000年。 公私ともに全てが順調にいっていた時期でもありましたが、 同時に様々な出来事があり、激動の年ともなりました。 次男の誕生 次男を福岡の産婦人科病院で出産し、実家(神奈川県)から母を呼んで、しばらくの間、産後のケアをしてもらいました。 母は、持病持ちで、視力もあまり良くなかったので、お手伝というよりも ただ孫たちと一緒に過ごす時間を持ってもらいたかったのです。 母にとっても2人目の孫の誕生で、とても喜んでくれていました。 長男は当時

          子どもたちから教えてもらったこと

          子どもを授かってから「食と健康」が氣になるようになり、食から身につけるもの、洗剤、環境など進んで勉強するようになっていきました。 食と環境問題 離乳食で何を食べさせたら良いんだろう~出来る限り添加物が入っていなくて、食材も出来るだけ無農薬か減農薬の物を使いたい~等々。 ママ友たちからのアドバイスを聞いたり、自然食品を取り扱っているお店を 教えてもらったり、洗剤や石鹸類を変えたり、少しづつ生活を変えていきました。 子どもたちは、お陰様で健康状態も良く、たまに風邪を引く程度で

          子どもたちから教えてもらったこと

          結婚10年目の待望の出産

          店舗拡大 事業を始めてから、たくさんの方々のご支援を頂いて、全て順調な展開で、少しづつスタッフも増やしていきました。 2年後には早良区に1店舗、4年後には東区にも1店舗増やして南区の本店と3店舗の運営、そしてダイビング専門の旅行代理店と最盛期は4店舗を運営していた時もありました。 ダイビング業界の、ある指導団体のライセンスカードの発行枚数、九州で1番の実績を達成!! お仕事は、とても順調にいっていました。 悲しみからの脱却 仕事は順調にいっていたものの 開業してから3年

          新天地での開業

          私たちは、1990年の年末に福岡県の主人の実家に移転し、義母と同居させて頂き、ダイビングショップの開業のために早速、年明けから準備に入りました。 創業資金借り入れ 先ずは、準備資金の確保のために日本政策金融公庫から融資を受けるために創業計画書を作成。この計画書が、かなり重要で、緻密なものであればあるほど信頼され、査定が高くなり融資金額が多く借り入れできます。 これは主人が全て交渉してくれて、有難い事に最高額を借り入れる事が出来ました。(主人に感謝!) 今までの仕事の実績や

          結婚~独立・起業へ

          私は就職して1年半で退職し、以前からお付合していた、現在の主人と結婚しました。当時、19歳。 この年齢を言うとビックリする人が多いです。( ´艸`) 私の理想としては20歳になって成人してからの結婚を希望していたのですが、遠距離恋愛でもあったため、早く一緒になって起業するための貯蓄をしようという事になり承諾しました。 私たちは、お互い独立志向だったので結婚する前から将来の夢を語り合っていました。 主人は当時29歳、10歳年齢差の夫婦です。 婚姻届を提出しに行ったら未成年なので

          幼少期~成人するまでの私

          家族の紹介が一通り終わりましたので、私の事について 書かせて頂きたいと思います。 幼少期 私は、幼少期からお母さんの後追いをするような子で ちょっと、お母さんの姿が見えないと不安になって探し回る とても臆病な子でした。 どこかに居なくなったらどうしよう、置いて行かれたらどうしよう、と いった不安感がいつも心の中にあったのだと思います。 とにかく甘えん坊で寝る時も隣にお母さんがいないと安心できない、 目が覚めて隣にいないと探し回る、の繰り返し。 小学校低学年までは、そのよう

          父のお導き~不思議体験

          今年、父が他界した事で私の実家の家族は全員お見送りしました。 寂しい氣持ちもありますが、今まで遠くに離れていたので、今は、みんな 近くにいてくれて私たち家族の応援団になってくれたように感じています。 先日もフッと夜中に目が覚めて天井を見上げたら、なんと!!部屋の中だというのに「蛍」がいました!! 翌日も同じくらいの時間に目が覚めて、まさか!!とは思ったのですが、 場所を変えて「蛍」がいたんです!! ふわぁ~と飛んでいました。 以前、戦時中の特攻隊員が定食屋のおばちゃんに「

          将棋が大好きだった父

          今年3月に他界した父。 今回、ブログを書く、きっかけを与えてくれたのも父。 祖父、母、姉と他界して家族の中で最後に残ったのが父と私。 それまでの父と私の関係性は、縁が薄く感じていました。 姉が沖縄に療養のため移住したのがきっかけで、よく連絡を取り 合うようになりましたが、それまでは年に1回、電話で話す程度でした。 姉が他界して直ぐに自宅から高齢者住宅に移転し、しばらく好きな将棋道場や健康センターでお風呂に入ったり将棋を打ったりと楽しく生活していたようです。 たまに連絡がある

          前編の続き~沖縄での闘病生活

          私の姉は以前から沖縄が好きで、20代の時に1人で歌手の稲垣潤一さんのツアーに参加した事がありました。 引っ込み思案の姉がよく決断したな~!!と思いましたが、この経験がきっと良い方向にいく様な氣がして氣持ち良く送り出しました。 思っていた通り沖縄でたくさんのお友達ができて、とっても楽しかったようで、ますます沖縄が大好きになりました。 話は、前回の続きとなりますが、 緊急で担ぎ込まれた病院から見放された姉は、行き場を無くし、年老いた父との暮らしも不安定な状態だったので私も、どう

          前編の続き~沖縄での闘病生活

          心が少女のままの妹のような姉

          私の姉は4歳年上でしたが、何かある度に私に相談してくるような頼りない姉でした。 私と性格が正反対で私は活動的で姉は、あまり動きたがらないタイプ。 姉は幼い頃から祖父に大切にされ過ぎて過干渉で育ったため、臆病になって 1人では何も出来ないようになってしまいました。 その後に生まれた私は姉を見て育ったので、要領よく何でも自分でチャレンジして外に出るのが大好きでした。 そんな私を見て、いつも羨ましく思っていたようです。 一緒にチャレンジしよう!と誘っても「私は、いいよ」と断ってくる

          心が少女のままの妹のような姉