#私が父の故郷に引越さなかった理由
今、旧Twitterに流れている #私が退職した本当の理由
は辞めた数だけあるのでポツポツ記録していこうと思っています。
このタグを見て書き留めたかった事が、今回のタイトルです。
四半世紀前、両親と同居していた時、
父の実父の認知症の悪化で、両親が本籍地へ転居を決めました。
父は次の転職先も決めた上でのキャリアの放棄でした。
彼の選択は、当時勤務先で起こった事故が表沙汰になり、
人身御供に自ら名乗り出たようにも見えました。
住んでいた土地で問題も起こりそうだったこともあり、
母も、「ここを出て行くタイミングは今」と腹を決めていました。
彼女にとってはほぼ生まれ育った場所、決断は辛かったでしょう。
母にとっての義父は、自身を「商売屋の娘」扱いする人でしたから。
その人の介護と父のサポート。
周りは父の親族ばかり。
でも、彼女は決めた。
当時の私は仕事は安定していましたが、
何だかな?の日々を過ごしていました。
「お前も行くか?」
と言うよりは、
「お前もついて行くよな?」
が父から私への問いでした。
当時住んでした土地も家も手放すことになり、
私がここに居るとなると転居先を探す事になり、
父は私が同行すると思い込んでいるようでした。
私は、「同行するなら死んだほうがマシ」と答えました。
母は面白がって、実父と実母の手伝いもあるからと、
あなたのためじゃない、私のためだと一緒に家探しをして、
母の都合のいい場所を決めました。
「私の別宅を管理すると思って頑張って」
そこで10年独り暮らしをすることになりました。
父の実家は昭和の時代は嫁入り道具が派手さで有名な地域で、
父の父、私にとっての父方の祖父は、
明治生まれでしたが魂は江戸の人でした。
農家の次男坊でそこそこの農地を持ち、士農工商で生きていました。
母の実家は商売をしていたため、
母を下に見るのが常でした。
でも、生まれた子供である私と弟妹は宝物扱い。
何が差別か分からない頃からの違和感でした。
母は気丈な人なので、苗字に名前が合わないから名前の漢字に人偏をつけなさい、と言われても平然と従わず、
「商売屋の娘」と言われても表情を変えず、
台所で奥歯を噛み締めているのを私は知っていました。
10歳になった年の暮れ、祖父に年齢を聞かれ、
「もう嫁入りできるな」と言われた時に、切れました。
盆と正月には毎回家族でそこに行っていましたが、
毎回ストライキを起こし、引きずられるように移動しました。
父は祖父母に合うのは子供の義務だと言いました。
父にとっては故郷でも、私にとっては違うと主張し続け、
大学入学と同時にようやく義務から解放されました。
弟妹は鈍感で、
また姉がじらくってる(我儘を言っている)と思われていたようです。
母は、私の妙な鋭敏さは理解していたようです。
私の代わりに怒ってくれているんだよね、
まさか死ぬと言うとは思わなかった、と笑ってました。
鈍感ならよかったのかもしれないけれども、
私は田舎のどす黒い差別を幼いながらに受け止めて、
嫌悪しか抱けなかった。
血縁と男女で差別のある場所に秒も居たくなかった。
その地は今は大手自動車メーカーのベッドタウンとなり、
昔のような閉鎖的な空気はなくなってきたと聞いています。
それでも嫌なものは嫌、なんです。
入籍して一度だけ、夫と共に行きました。
以来、父の葬儀はコロナ禍で欠席し、今に至ります。
のぞみで3時間でも、そこから鈍行列車で2時間ですから。
お金も時間もかけて、なぜ嫌な空気を吸いに行かなきゃいかんのか?
田舎から若い女性が居なくなるの、良く分かります。
そんじょそこらの時間薬では差別の空気は消えません。
でも、差別する側にとっては当たり前の事で悪気は多分ないでしょう。
差別者と受容する人々が消えなければ、
田舎は消滅するしかないんじゃないのかな?
産む性にとって居心地の悪い場所なんですから。
たとえ自然豊かでも、今のままでは消滅するしかないんですよ。
差別は儲からないんです。
差別は人を豊かにしないんです。
皆に気付いてほしいです。
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