エッセー.1 | シャカイの所感
二十五歳にして初のシャカイジン。
新卒採用という制度を利用した、割と流行っているらしい。何せ金がない。
起床の感じ
誰かにゲームのカセットを入れられたかのように始まる。けれど決して無理な起動ではなく、至って自然に立ち上がる。
ついこの前まで半日眠っていたのに…
規範や集団、それはシャカイと言えるかもしれない。その上位存在が俺を起こす。
しかし実に妙なのは、このロードに一定の安心感を得られることだ。
言われた時間に起動し、指示通りの回転数で回り、規定の手順でシャットダウン。
起動、回転、シャットダウン、起ドウ、カイ転、シャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウカイテンシャットダウンキドウ…
このシステムに間違いはない。安全保証されたシステムの中で、俺は何も間違えてない。
満員電車の感じ
以前にこんなことを思ったことがある。ただ今はなんだか少し違うように感じる。
当たり前だが満員電車はもっと閉塞的で人工的で、海のような母性は持ち合わせていなかった。
どちらかというとプール?
人の呼気と表情が滲みた肉で充填された。
そんな蓋の閉められたプールで、私はわずかな空気を求め立ち泳ぎする。
ただガラス越しに映る私の顔は、何ら差異がない。
ない。
時間の感じ
不思議なことに時間は相応に流れる。もっと長く感じるかと思っていた。
いままでの時間を振り返れば、幸せは瞬間で悲しさは永遠だった。
伸び縮みする時間のテクスチャを逃すまいとして、自分の表面積を最大にして触れていた。
シャカイにおいて八時間は八時間であるし、一時間休憩もまぁ大体こんなものだ。
よく考えれば、長さの単位(M)も17世紀のヨーロッパにおいて単位を統一する議論が起こった結果、この惑星の北極から赤道までの子午線の距離の1千万分の1をとして定義されただけであるし、時間の単位(h)だって人間が共同体を円滑に運営するにあたって発明したのだから、シャカイのプロポーションに即していて当然である。
あの頃は憎かった不定形な時間を今は愛したい。
自分のだけのリズムで自転の速度を乗りこなしていた日々のこと。
おわりに
改めて文章を書き始めてよかった。
上に書いたようなこともきっと忘れてしまうから。
今や社会は大地の如く我々の基盤であるが、
アスファルトが捲れては所詮土だ。
機械仕掛けの静物も容易く均衡が失われ塵だ。
私は、ものがどこからやってきて、なぜここにあるかについて常に思いを馳せなくてはいけない。
この移動と社会の連関について、注意深くあらねばならないだろう。
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