見出し画像

国語は結局何を学ぶ教科なのか

 私は国語の教員です。しかし、教員になりたてのころは、上手く行かないことも多く、「何で国語なんか勉強しなければならないのか」と自問し、闇ループに入っていた時期もありました。

「古典とか漢文とか受験の時しか使わないだろ」「現代文は読めればいいじゃん」
「こんなのできなくても生きていけるじゃん!」

と思っていた時期もなきにしもあらず…。
国語の先生なのに…。

 まあ、実際勉強できなくても力強く生きている人は五万といるわけですし。そういう人たちにも会ってきました。勉強ができなくても、生きる力だけ強い人たちに出会うと、彼らの勢いに飲み込まれ、自分が勉強してきたことなんて、無意味だったんじゃないかと。本気で思うことがあります。

 しかし、十年以上この仕事に携わり、いろいろな経験をしてきたことで、自分なりの答えが見つかったと思います。それは、
「未知のものを正しく理解し、状況に合わせて自分の考えを相手に正しく伝える方法を学ぶ教科」ということです。

 あまり表現方法を知らない場合、一つの言葉で何もかも表現するしかないことがあります。

 子供たちを見ていると、最悪の場合、「キモイ」や「死ね」「ヤバい」しか言えないという生徒はいるわけです。
「大丈夫、社会に出ればちゃんとできるから」と言う人もいますし、そうお考えの保護者もいらっしゃいます。しかし、いざ職場体験などで外へ出すと、やはり思っていたようにはできなかった、というケースがありました。

 また、いろいろな生徒指導をしていると、自分の考えていることや思いを正確に伝えられないという状況に出くわします。しかし、それは大人も同じで、自分自身も人に説教できるほどではないです。先程の「アッラー」しか喜びを表現できないリポーターではありませんが、嬉しかったことや感動したこと、感謝したことを上手く伝えられず、相手とあまり親しくなれなかったりだとか。悪いパターンだと、人間関係で嫌なことを言わないといけないとき、適切な表現で自分の考えを述べられないときとか。どちらかというと、一般的には後者の方が多いと思います。だから、最近いろいろなハラスメントが話題になっているのではないか、という気がします。

 だから、先生になっている人たちがよく言われるのは、
「最近の先生たちはお育ちがよくて、苦労してない人が多いから、学生のうちにいろいろな経験をしておいた方がいい」と言うことです。
 しかし、お金もないのにいろいろな経験をしろって、一体どんなことをどれくらい求めているのか?といつも思います。あまりにもざっくばらんすぎて、学生たちに丸投げしすぎだと思うのです。

 そして、それは子どもたちにも当てはまることではないかと思うのです。最近は、子どもの体験格差というのがあるそうです。生まれた家庭環境によって、経験できることに格差が生まれるということですね。海外旅行に行ける家庭があるかと思えば、地元の公園に行くくらいしか遊び場がない家庭まで様々で、そこに格差があると。そうなってしまえば、もちろん感じることも考えることにも格差は広がっていきそうです。

 だからこそ、学校でできることはなにかと言えば、同じ教科書の文章を読むという同じ経験をして、みんなで考えることだと思うのです。

 そして、少し大人びた様々な文章に出会って「難しい」「理解できない」「意味がわからない」という状態から少しずつ「理解するにはどんなふうに読めば良いのか」ということをみんなで学んでいくことが大切なのではないかと思うのです。
 これが、低年齢すぎる文章や理解しやすい文章ではダメなのは、読み手の生徒たちが成長できないからだと思います。

 子どもは本人が望んでいるにしろ、望んでいないにしろ、否が応でも心身ともに成長するものです。身体ばかり大人になって、心のなかはまだ子どものままでは、最期に一番苦しくなるのは自分です。

 プライベートでは自分が好きなものや興味があるものに囲まれて過ごしているだけで構わない。けれど、大人になるのだから、少しだけ大人びた文章に触れて、世の中で話題になっていることや、世の中で名文と言われているものを読んで、視野を広げる必要があると思います。そして、読んだ上で「自分はこの部分について、どう考えるか」を適切な言葉を使って表現していってみることは、もっと必要。

 表現の仕方は、発表だったり、スピーチだったり、作文だったり、パワーポイントだったり様々…。時には緊張して顔が赤くなったり、冷や汗をかいたり、どもってしまうこともあるかもしれません。作文に沢山朱を入れられて、がっかりすることや、やる気を削がれることもあるかもしれません。
 でも、一人ではない。みんなとああでもない、こうでもない、こういう読みもできる、ああいう解釈もできると議論しながら、悩みながら自分で表現した言葉は、必ず社会を生き抜くための大きな力となり、糧になるはず。

 自分の推しだけ眺めて生活したい、成長なんてしなくていい、と思うかもしれません。しかし、もし本当にこれからも推しを眺めて生活したいのなら、その生活を成り立たせるためにもいろいろな考えや視点を持った人たちがいて、その人たちを説得して、推しを守り通す術を身に付けないといけないわけです。そして、説得する相手というのは、教科書の文章にあるような思考をもった、自分より年上のおじさんとかおばさんとか、またはそれに近い思考を持った人たちが多いでしょう。

 だから、学校で国語を学ぶ意義はあるのではないでしょうか。塾や家庭だけでは学べない、一人だけでは学べない。いろんな人と議論して、知恵を借りて、思考して、思ったことや考えたことを自分の言葉で表現できる力をつけていく。それが、自分だけの最強の武器になるのではないでしょうか。

 海外旅行に行っても行かなくても、自分で編み出した文章や言葉たちは、必ず人と人を繋ぎ、人生を豊かなものにしてくれます。他人から与えられるものではない。自分で自分の生活を豊かにするための、手段になるのではないでしょうか。

 だから、なんか難しそうなことを言っているおじさんの文章とか、一昔前の古くて暗い物語なんかは、ちょうど良い壁になるのだと思います。
 古典や漢文なんかはもっとそう。高校になるとさらに難しくなるけれど、世の中には古典や漢文以上に理解不能なことなんて沢山ある。
 それに比べたら、古典や漢文は上手くいけば人生の友になれるような名言も与えてくれるし、良き友にもなってくれると思います。
 しかし、残念ながら最近「漢文はいらないんじゃないか」と宣う国語の先生が出てきているのも事実です。もしかしたら、その人たちは実務的なところしか見ていなくて、自分の教える教科の意義について考える暇なんて、ないだけなのかもしれないけれど。

 いろいろ考えてはみましたが、私だって、また現場に戻れば国語を教える意味がわからなくなる瞬間がまた来るかもしれません。そうなってしまうのが、とても怖いのだけれど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?