【三国志・考】霊帝崩御と世継ぎ問題
186年、中国各地で起きた大規模反乱「黄巾の乱」は首謀者である張角の病死によって沈静化した。そして朝廷外での問題が収まれば、今度は朝廷内での権力闘争が激しくなってくるのがパターンだ。
人が三人、集まれば派閥ができると言われるが人間は同じ主義の者で群れたいものなのか、利害が一致する者と意気投合したいものなのか、筆者にはあまり理解できないのだがそういう傾向がある。
約2,000年前を生きた人間と現代の人間では死生観や価値観に違いはあれども本質的な部分はさほど変わりないのかもしれない。
劉弁と劉協
ときの皇帝であり、のちに霊帝と諡号される劉宏の後継者候補は二人いた。何皇后との間に生まれた劉弁と王美人との間に生まれた劉協だ。先に生まれたのは劉弁であり、そのことで母は皇后となった。その前に宋皇后がいたが霊帝が自身の叔父にあたる前皇帝の弟に帝位を奪われることを恐れたため、宦官はその一族を皆殺しとした。そして宋皇后はその叔父の一族であったことより無実の罪を着せられ廃されたのちに死去。
この時点で、すでに宮中はめちゃくちゃであるがまだまだ序の口だ。
何皇后は屠殺業を営む庶民であったが賄賂によって宦官に取り入り、貴人として宮中に入った女性。一方、王美人は両家の令嬢で聡明な女性であった。
筆者は出自で人間の能力を判断できないと思うが、この件にかぎっては何皇后の子・劉弁は暗愚、王美人の子・劉協は聡明であったようである。霊帝はこの聡明な子を自身の後継とすることを信頼する宦官・蹇碩(けんせき)に伝え、189年に崩御した。なお、その時点で王美人は劉協を生んだことに怒り狂った何皇后によって殺害されている。このとき霊帝はさすがに怒り、何皇后を廃そうとしたようだが宦官たちに止められ、怒りをおさめてしまった。宦官たちの口の上手さ(というか狡猾さ)や、まんまと言いくるめられた霊帝のお人好しのお坊ちゃん気質もあっただろうが、このとき宦官らはかなりの金を用いたようである。
劉弁、即位
さぁ困ったのは遺詔を受けた蹇碩。順番的には次期皇帝となるのは暗愚な劉弁だ。その母である何皇后は苛烈な性格であるのみでなく霊帝の正妻。そして、その異母兄・何進は軍事のみでなく内政の権力を握る立場となっている。遺詔があろうと劉協をすんなりと即位させることなどできないのは明らかだ。
ならば、まず何進を排除しようと蹇碩は考えた。非常に極端な方法を考えたものだが、何一族はそのくらい手に負えない存在であったのだろう。
しかし蹇碩による何進暗殺の企ては露見した。これで霊帝の遺詔はなかったことにされ、何進は妹の息子である13歳の劉弁を皇帝に即位させてしまう。間もなく蹇碩自身も消されたことは言うまでもない。
宦官排除計画
宦官たちのおかげで貴人となった何皇后(すでに皇太后)と、その恩恵を受けて大将軍まで成り上がった何進だが、劉弁即位後にこの異母兄妹の関係が徐々におかしくなってくる。
何皇太后は霊帝が父同然と信頼した張譲らを含む十常侍と呼ばれる宦官と蜜月関係にあった。しかし何進は部下であった袁紹の「宦官を一掃すべき」という意見に正当性を感じつつも具体的なことは何も実行できずにいた。妹の皇太后の手前もあったことで躊躇していたとも考えられるが宦官の蹇碩に陥れられかけたにも関わらず、この危機感と決断力のなさが後世で何進の評価が低い要因のひとつだろう。
ときの大将軍が宦官と同じ土俵で争っていたこと自体、何進の器は小さい。そして甘いと思わざるを得ない。
袁紹が宦官を排除したかった理由は、家柄からくるプライドではないかと筆者は考察する。袁紹の出自は四世三公を排出した名門だ。四世三公とは四代に亘り漢王朝の重職である太尉・司徒・司空のいずれかの職を務めたという意味である。いわゆる濁流派と呼ばれる賄賂などで官職を手に入れたのではない清流派のエリートだ。その名門の当主である袁紹は虚勢することで国家に潜り込んだどこの馬の骨ともわからない宦官に漢王朝が牛耳られている現状が我慢ならなかったのではないだろうか。
袁紹自身の上司である何進も濁流派の人間である。袁紹には宦官一掃後にも何か絵図を描いていた気がしてならない。
対立の激化
何進が自分たちを目の敵にしていることは宦官たちに筒抜けであった。武官でも文官でもなく(蹇碩はなぜか献帝に将軍職を与えられたが)本来は政治介入する権限もない宦官が己の身を守るためにできることは権力者を味方につけるしかなかった。案の定、宦官たちは何進の妹である皇太后に泣きついた。宦官に恩がある皇太后は何進を諌めた。宮中で恐れない者がいなかったと正史に記述があるほどの女性である。兄に対しても相当な剣幕で対したに違いない。こういう人って反対意見に耳も貸さずに自身の主張をまくしたてるものだ。何進もたじたじだったであろう。
そんな何進の態度に業を煮やしたのは袁紹。この状況がいつまで続くかウンザリしていたのだろう。彼は何進を説得し、皇太后を威圧するために都に武装した軍を率いた地方の諸侯を集めた。何進の下で働く臣(曹操や陳琳など)の反対を押し切っての決断だったが、武装もせず兵権も持たない宦官を相手にそこまで臆病になる必要があったのだろうか?
袁紹の真意はわからない。ただ、これは結果的に完全な悪手となる。
何進、暗殺
宦官たちはいよいよ追い詰められたと悟ったのだろう。後がなくなれば前に出るしかない。要するに何進を殺すしかないという考えに至る。
しかし何進は曲がりなりにも大将軍。一人でふらふらと公の場に現れることはなかったと思われる。宮廷ないでも常に前後左右に警護がいたことだろう。
そこで宦官らは皇太后の名で偽の詔を作り、夜中に何進を宮中に呼び寄せた。妹からの呼び出しであれば警戒しないと踏んだのであろう。宦官らの思惑どおり何進は単身、宮中へ向かってしまう。このときも袁紹は宦官の罠を警戒すべきだと忠告するが何進は無視してしまった。本当に機器察知能力のない呑気な男である。
そして何進は宦官らの手にかけられる。
このとき宦官のリーダー格は「かつて何皇太后が王美人を殺めたとき、我らが家財をなげうち泣きながら霊帝に許しを乞うた。お前の一族を助けた我らを絶やそうとは許しがたい」というようなことを吐いたとされている。宦官の言ったことにも一理ある。しかし私利私欲からでなく表向きでも漢王朝への大義の下に宦官の越権行為に起因する朝廷の腐敗を出そうとした何進の想いもわからないでもない。
宮中の騒乱
計画に成功した宦官らだったが、何進暗殺はすぐに袁紹らの知るところとなる。このことを知った何進の部下や兵たちは怒りと悲しみ、無念さで奮い立ったという。何進は後世に伝わるイメージよりも、人徳があったことが窺える。
そして袁紹らは軍を率いて、宮中へとなだれ込み宦官と思わしき者を片っ端から斬り殺していった。すると宦官のリーダー格・張譲らは即位したばかりの劉弁と陳留王の位に就いた劉協を引き連れて都・洛陽から脱出。しかし都の外には袁紹が呼び寄せた諸侯の軍がいる。途中、宦官らは「最早これまで」と川に飛び込み命を捨てたという。
さすがの宦官もここで劉弁と劉協を道連れにするような暴挙には出なかったが、野に放り出されたその二人を「待っていたぞ」とばかりに待ち受け、保護したのはよりにもよってあの董卓だった。
このことが漢王朝を事実上、崩壊させる暴政につながっていく。霊帝の時代は悪政だったが、今度は民衆や諸侯、皇帝までもが恐怖する暴政だ。
まだまだ三つの国家が鼎立する時代には遠い。しかし、そのような異様な時代となったのはなぜなのか?それは時勢や時流を時系列で語らねばならない。
漢王朝の腐敗どころか実質的な崩壊については、また次回に。
【参考文献】
後漢書
本紀八 霊帝紀
皇后紀 何皇后紀
列伝五十九 何進伝
列伝六十二 董卓伝
列伝六十八 宦者列伝