古くて新しいメッセージ『争うよりも愛しなさい』について
【0.はじめに】
2023年5月31日、沖縄の「平和運動」について以下の記事が出ました。
『「争うよりも愛しなさい」35歳シングルマザーが平和運動に吹き込んだ新たな風』
これはなかなか良いメッセージだと思います。
「古い」けど「新しい」、今の社会運動に必要なメッセージだと感じます。
今回は『争うよりも愛しなさい』というメッセージについて、私なりに考えて行きたいと思います。
【1.若者の「デモや集会に対する忌避感」】
平和集会に『争うよりも愛しなさい』というメッセージを取り入れたのは、沖縄で訪問介護やLGBT支援活動をされている「パーマーゆーりー」こと「平良友里奈」さんです。
彼女には「沖縄の平和運動に若い人の参加が少ない」という問題意識があり、シニア世代と若い世代との「パイプ役」になる決意をしたそうです。
そして幅広い世代が共感できる「愛」という普遍的なテーマを据え、平和集会に『争うよりも愛しなさい』というメッセージを掲げました。
確かに若い世代には「デモや集会に対する忌避感」があることは各種アンケートで明らかになっています。
1990年代後半以降に生まれた「Z世代」では、参加したくない社会運動のトップとして「集会やデモ、マーチ、パレードなど」があげられています。
その割合は圧倒的で、約半数の人が「参加したくない」と回答しています。
この現状では、若い世代に届く「新しいメッセージ」が必要だと感じます。
なぜ若者は「デモや集会に対する忌避感」が強いのか?
これには様々な要因があると思います。
若い世代と関わりを持って活動されている方々の座談会では、以下のような要因が指摘されています。
社会問題の解決について「声をあげる」ことは大変重要です。
「それが問題だ」と多くの人に認識されなければ、社会問題はいつまでたっても解決しないでしょう。
『これは問題なんだ!』と知らしめるためにも声をあげることは大事であり、そのこと自体を非難するのは間違っていると思います。
ただ「問題を知らしめる」ステップと「問題を解決する」ステップでは用いられる手法が違います。
問題を解決するステップでは、政府などの現在の意思決定者をはじめ、様々な立場の人たちとの「調整」が必要になってきます。
社会を大きく変える必要がある場合には、それによって影響を受ける人たちへの「配慮」も欠かせないからです。
問題を解決するステップになっても政権への「抗議」や「対決姿勢」を重視しすぎると、調整が上手く働かずかえって問題解決から遠ざかる場合もあります。
『手を抜かずに改革を進めろ』というプレッシャーを与える意味では効果もあると思いますが、やはり「過ぎたるは及ばざるが如し」だと感じます。
また「批判」の意味の変化にも注目する必要があります。
若い世代は「批判」を「否定・非難・誹謗中傷」などと結びついた「ネガティブな言葉」ととらえています。
なので「批判」や「議論」を怖れ、避けているのだという指摘もあります。
この状況で『若者は批判の意味が分かっていない』と「批判」することは簡単ですが、それではかえって若者を政治や社会運動から遠ざけてしまうでしょう。
批判の意味が変わってしまった原因は、今の大人世代がしてきた「いい加減な批判」にあると考えています。
それならば、まず大人が襟を正して「批判の質」を上げていく必要があると思います。
【2.聖書での記述】
『争うよりも愛しなさい』というメッセージの元になったのは、キリスト教の教えだと思われます。
新約聖書「ヨハネによる福音書」13章34節には、以下のように記されています。
これはイエスが十字架で処刑される前日、有名な「最後の晩餐」でのエピソードですね。
「あなたがた」というのは、「聖ペテロ」に代表されるイエスの弟子たちのことです。
なぜイエスは弟子たちにそんなことを言ったのか?
それは実際に弟子たちが争っていたからです。
弟子たちは「この中で誰が一番偉いのか」言い争っていました。
弟子たちはイエスを「救世主(メシア)」と信じていました。
政教一致の宗教国家である古代ユダヤでは、救世主とは強力な「宗教的・政治的・軍事的指導者」で、抑圧者を打ち倒してユダヤ人たちを解放してくれる存在でした。
弟子たちの目論見では、イエスがユダヤ人を抑圧する「ローマ帝国」を打ち破って国家の指導者になり、側近の自分たちが大臣になるはずでした。
なので弟子たち中の「序列」が大事だったんでしょう。
しかしイエスの考える「救世主」は、「国家の指導者」などではありませんでした。
事実イエスは『お前はユダヤ人の王か?』と問うローマ帝国の総督に、『わたしの国はこの世のものではない』と答えています。
イエスの考えは、弟子たちや民衆にほとんど伝わっていません。
神の啓示により自らの「終わり」が近いことを予見したイエスは、最後の晩餐の後で「弟子の足を洗う」という「暴挙」に出ます。
当時のユダヤ人は「サンダル」を履いて外を歩いていました。
ユダヤ人たちは一日の仕事を終えて家に帰り、足を洗ってからくつろいでいました。
そして足を洗うのは「奴隷」の仕事でした。
弟子たちはイエスの行為に驚愕し、激しく拒絶します。
当時の常識ではありえない「禁忌(タブー)」だったからです。
しかしイエスも強く迫ります。
自分はもうすぐこの世界から居なくなるから、「神の言葉」を伝えるのは弟子たちに任せるしかない。
でも、今の勘違いした弟子たちには難しい・・・。
弟子たちの勘違いを糺すためにも、暴挙に出る必要があったのでしょうね。
『互いに愛し合いなさい』という教えは、その後に『わたしがあなたがたを愛したように』と続いているのがミソなのでしょう。
イエスの教えはこのようなものだったと思っています。
【3.「愛し合う」とは?】
一言で「愛」といっても、いろんな種類があります。
「恋愛」「性愛」「友愛」「家族愛」などですね。
キリスト教の新約聖書には「エロス(性愛)」「フィリア(友愛)」「アガペー(無償の愛)」の3種類の愛が登場しますが、先ほどの『互いに愛し合いなさい』でいう愛は「アガペー」だと言われています。
ただアガペーという概念は難しく、宗教活動ならまだしも社会運動には適さないと感じます。
社会運動のメッセージに用いるなら、『互いに愛し合いなさい』は『互いに「respect(リスペクト)」しなさい』と読み替えるのが妥当と思われます。
リスペクトにもいろんな意味があります。
よく言う『○○さん!マジリスペクトっすよ!』なんかは、英語で言えば「admire(アドマイヤ=憧れ)」に近いですね。
リスペクトには他にも「尊重する」「敬意を払う」「大切にする」という意味があります。
『凄いからリスペクトする(憧れる)』ではなく『凄くないけどリスペクトする(尊重する)』という感じですね。
最初に触れた通り「愛する」にはいろいろな意味があるため、実際に「嫌いな人」「考えの合わない人」を愛するのは難しいと感じます。
しかし「愛する」を「尊重する」と解釈すれば、「嫌い」だけど「愛してる」が両立します。
べつに「嫌い」なら嫌いでいい、「考えが合わない」なら合わせる必要もない。
ただ「そういう人」がいて「そういう考え」もあるということだけ認めればいい。
仲良くなる必要も、友達になる必要も、仲間になる必要も、もちろん否定する必要もない。
ただ「認める」だけ・・・。
これが「日本国憲法13条」に記された『すべて国民は、個人として尊重される』という事だと考えています。
なので『互いに愛し合いなさい』は『互いにリスペクトしなさい』⇒『お互いに個人として尊重しあいなさい』と読み替える方が妥当だと感じます。
そして冒頭の記事の『争うよりも愛しなさい』というメッセージは『否定するのではなく(お互いに)尊重しなさい』と解釈するほうが良いと思います。
【4.メッセージは伝わったか?】
平和集会に『互いに愛し合いなさい』ではなく『争うよりも愛しなさい』というメッセージを掲げたのは、やはり宗教色を払拭したかったからだと感じます。
また主語と述語(誰が、誰を(何を))を省略したのは、幅広く解釈する余地を残すことでより多くの人に訴えたかったかもしれませんね。
それでは、『争うよりも愛しなさい』というメッセージは参加者に伝わったのか?
参加者の感想を見る限り、かなり正確に伝わっていると感じます。
例えば以下のような感想がありました。
私も『争うよりも愛しなさい』は「誰かに呼びかける」よりも「自分に問いかける」メッセージだと思います。
独善や視野狭窄に陥いることなく、常に『自分は他者を個人として尊重できているか』確認するのは大事なことだと感じます。
また次のような意見もありました。
私も『戦争を望んでいる者は誰一人いない』と思っています。
それでも「誰も望んでもいない戦争」がはじまってしまうこともあります。
なぜか?
それはやはり「人間にはいろんな考えがあるから」だと思っています。
人間は「損得」だけで判断するわけではありません。
「野望」「プライド」「意地」「面子」、はたまた「夢」「理想」「友情」「愛」・・・。
人間はそんなもののためにも命を懸けて戦うのです。
なので、人類は「なぜ戦争がはじまるのか」「戦争をはじめないためにはどうすればいいか」を研究し続けてきました。
決定的な答えはまだ出ていませんが、それでも望みまた求めていくことが大事だと考えています。
【5.結論 「心に愛がなければ」】
政治的・社会的な主張やメッセージを伝えるのは本当に難しいですね。
社会運動をする中で「主張が広まらない」「賛同が得られない」と悩んだ方も多いと思います。
中にはこのような人もいるかもしれませんね。
しかしそのような姿勢は「個人の尊重」からは遠いと思います。
確かに神ならぬ人間には「完全な相互理解」は不可能です。
でも賛同しない人を十把一絡げに「理解力に乏しい」や「悪意がある」で切り捨てていいわけがありません。
丁寧に「言葉の意味」を摺り合わせて意見の異なる相手とコミュニケーションを取り、相手にどのような考えがあるか知り、そのような相手にも響く表現を考える。
「言うは易く行うは難し」で何時いかなる時も実行できるとは限りませんが、努力はする意義はあると考えています。
その気持ちはわかります。
しかし、それを乗り越えるものが「愛=個人の尊重」なんだと思います。
なので最初に『争うよりも愛しなさい』を「今の社会運動に必要なメッセージ」だと評価しました。
これはキリスト教の新約聖書「コリントの信徒への手紙1」13章1節に記された「聖パウロ」の言葉から派生したメッセージです。
こちらも政治的・社会的な主張を届けるために必要なメッセージだと思っています。
【6.おまけ 「愛にできることはまだあるかい」】
最後に一曲
アニメ「天気の子」主題歌
RADWIMPS カバー 「富士葵」
「愛にできることはまだあるかい」
愛にできることは、まだまだあると思いますよ。
私も「愛」をもって伝える人になりたいな・・・。