”生まれてこないほうが良かったのか” 第七章について

これは森岡正博著 ”生まれてこないほうが良かったのか 生命の哲学へ!” 第七章部のメモである。私は基本的にこの森岡氏のベネター批判部分は不明瞭で見直すべきという立場である。

前提

ベネターの主張を森岡氏がまとめた箇所を以下に挙げる。

P.49 (基本前提)
まず基本的な前提は、「苦痛が存在するのは悪いことである。快楽が存在するのは善いことである」というものだ。

P.53 (誕生害悪論の存在命題)
ある人が存在するときには、苦痛を経験することは悪であり、快楽を経験することは善である。これに対して、ある人が存在しないときには、苦痛を経験しないことは善であり、快楽を経験しないことも善に等しい。したがってこの二つをトータルに比較すれば、「存在する」ことよりも、「存在しない」ことのほうが、いかなる場合であれ、より善いことになる。この論理を人が生まれてくることに適用すれば、どんな人間であれ、「生まれてこないほうが良かった」のである。

P.275 (誕生害悪論の生成命題)
人が存在しないよりも、存在するほうが「より悪い」のだから、人が生まれてくることはつねに害悪であるcoming into existence is always a harmことが導かれる

森岡氏のベネター批判

森岡氏は以下のように「誕生害悪論の生成命題」を一般化し、それが成り立たないことを主張する。

P.277 (誕生害悪論の生成命題の一般化)
ベネターが主張するのは、「人が存在しないという善の状態(より善い状態)」から「人が存在するという悪の状態(より悪い状態)」が生成するのは悪である(生成しないのと比べてより悪い)という命題である。これは、「善から悪が生成することは悪である」(より善い状態からより悪い状態が生成することは、それが生成しないのと比べてより悪い)というさらに一般化された命題の、ひとつのバリエーションである。

森田氏は反例を挙げてこれが成り立たないことを挙げる。貧しい境遇(悪い状態)の人が宝くじに当たって生活に余裕が出てきた(善い状態)が、抑圧されていた物欲が爆発して苦しめられる場合がある(結果的に悪い状態)という例だ。

想定される反論をいくつか挙げて棄却したうえで、以上の例について静的に見れば善だが、動的なプロセスをトータルで考えると悪なのだと総括している。

私の見解

私はこの森田氏の反例に大きな違和感を抱いたため、その違和感について少し考えてみた。

  • 善悪の評価について

本書には善悪の評価について体系だって述べられている箇所はない(はず)。基本的には本書の善/悪とは、先に引用した「苦痛が存在するのは悪いことである。快楽が存在するのは善いことである」(基本前提)に依存している概念である。
ところで、この反例でいうと宝くじに当たって「生活に潤いが出ていい気分」(快楽)と「浪費してしまうことに自己嫌悪を感じる」(苦痛)は同時間において両立してもおかしくはないと思わないだろうか?むしろ量的なものではないのか?そのような観点が抜け落ちているように思える。
善/悪の静的な二項対立で考えるところ、まるでプラトンなどギリシア哲学者の話を聞いているようだ。

  • 善悪概念と存在/生成概念

森田氏は善悪の概念を(基本前提)と(存在/生成概念)二つ結びつける形で拡張しているが、それについて十分な説明がない。森田氏の挙げた反例は存在-善悪的には善だが、生成-善悪的には悪であるという話だが、(基本前提)を第一原理と考えるならば主体が快楽を感じるか苦痛を感じるかに立ち返ればならない。

その他

  • 「私の非存在/非生成問題」

論理命題において自己言及と呼ばれているものの仮定文バージョンか。確かに質的に両文は異なる。が、私がここで森田氏が述べていることの妥当性を判断できる段階ではないので保留する。

まとめ

森田氏が想定される反論に対してその欠点を挙げ棄却しているが、そこが理解できない。
森田氏、若しくはベネターの客観主義的な善悪=快楽苦痛議論が理解できないだけか。なにか誤解があるのか。なにかコメント頂けたら幸いです。


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