君がくれる飴はいつも少しだけ期限が切れている。

僕が麻理亜さんと出会ったのは、大学二回生の夏のことだ。

ふいにのどかなアルバイトがしたくなった僕は、海浜公園のイベントのバイトを募集していたので申し込んだ。

熊のように筋肉質な店長は「時給なんて殆どないも同然だよ」と愛想なく言った。


その時のバイト仲間が麻理亜さんである。


麻理亜さんは髪を涼しげに短くして、理知的な眉をしていた。
じっと何かを見つめる目付きが柔らかく、誰にでも平等に優しく接するんだろうなという印象を受けた。

彼女は主にスタッフに飲み物を配る役割を担っていたのだが、あの瞳で冷えたスポーツドリンクを渡されれば、どんな硬派な男でもひとたまりもあるまい。

それだけ周囲の注目の的だったのに、彼女はいつもひとりで休憩を過ごしていた。


ある日の片付けが終わった夕暮れ、彼女が新しいおもちゃを与えられた子供のように嬉しそうな顔をして、一心不乱に青い花を見つめているのをみかけた。


「それはなんですか?」


僕は訊ねた。


彼女はふわっと口元を緩めて笑った。

『ネモフィラだよ。綺麗でしょ?』

と言った。


彼女はネモフィラを自分の家でも育てていて、いつか家の花壇に綺麗な青色が輝く日を心待ちにしているそうだ。

“ネモフィラ”という名前も聞いたことがなく忘れがたかったが、彼女が『綺麗でしょ?』と笑ったときの顔は、よりいっそう忘れがたかった。


こうして僕は、彼女に惚れたのである。

×××

先日の当時のバイト仲間での飲み会ではみんながみんな麻理亜さんが好きでたまらないという話に終始した。

なかでも竹内や斎藤の麻理亜さんに対する気持ちはガチだと坂本が言った。


僕も麻理亜さんが好きだった。

酔っ払った僕はこの日麻理亜さんに20回くらい好きだと言った。


「麻理亜さんの瞳を一目覗きこんでみたいです。そこから何が見えるんですか?」

と僕は彼女に訊いたが、麻理亜さんはただ悪戯に微笑むだけで答えてくれなかった。

数分後、僕はトイレに立つ前に坂本に「何か適当に飲み物を頼んでおいてほしい」と伝えた。


トイレから戻ると僕の席には何やら淡い色をしたカクテルが置いてあった。


「これは何ですか?」

僕は坂本に訊ねた。

『麻理亜が選んだんだよ』

坂本が答えた。


「これは何ですか?」

僕は麻理亜さんに訊ねた。


『セックス・オン・ザ・ビーチ』


と彼女は答えた。


「ずいぶん積極的なお酒ですね」

『映画“カクテル”って知ってる?主人公のトムクルーズがとあるバーでポエムを詠むの。すっごくロマンティックなポエム。そのなかに“セックス・オン・ザ・ビーチ”ってフレーズが出てくるの。あの映画のトムにはいまみたいな色気はなかった。でもいまのトムにはない純真さがあった。ただ一途に人を愛するって意味とはまた全然違う純真さ。そんなトムを見て、世界中のバーテン達は独自にあるカクテルを作ったの。それが“セックスオンザビーチ”。レシピのない、幻想的なカクテル』

「名前に似合わず随分と素敵な由来ですね。そして麻理亜さんは随分と饒舌にこのカクテルについて語る。まるで数々の男の前でカクテルを飲むのが当たり前であるかのように」


そう僕がいうと麻理亜さんは少しだけ笑い、小さく肩をすぼめておどけた。

「麻理亜さん、いつかそれで身を滅ぼしますよ」

僕はそういうと目の前のセックスオンザビーチをグイッと飲み干した。


嬉しそうに『どう!?』と尋ねる麻理亜さんに僕は

「なるほど。麻理亜さんの魅力に酔いそうです」

と答えた。


このくだり、おおよそ正気ではない。


ちなみにこの日、飲み会の開催場所が渋谷であり、職場の銀座から15分の場所であった。

なので僕は女子を1人か2人、口説きおとすことでラブホテルにでも泊まり、朝はゆっくり出社しようと思った。


麻理亜さんは次の日が休みだといった。

なのに僕はおよそ本調子とはいえない口説き文句でおよそ正気ではない口説きかたをした。

まったく。どうしようもない男だ僕は。正気じゃない。

×××

最後に僕らは全員で円陣を組み、再会を大声で誓い解散した。


円陣を組む麻理亜さんも綺麗だった。

彼女はあの時と同じで、僕らのアイドルのままだった。


しかしながら当時のままとはいかないこともあった。


それは何かと言えば、僕の現状だろう。

あのころ小説家を目指して毎日していた書き物はもう何年もしたためていない。

食っていくために当り前のように、全く興味のない仕事に就いてしまった。

毎日が嫌で嫌でしょうがない。

「僕、もうちょっと頑張ればよかったですよね。小説家になれば麻理亜さんと結婚できたかなー」

そんな僕に、麻理亜さんは言う。

『小説家目指してるなら、私の知り合い紹介しようか?』

「え。知り合いいるんですか?そっち方面に」

『うん。たまに会ったりしてるかな』

「ぜひお願いします」


可能性があるなら掴みたかった。

それは小説家になる、というよりは麻理亜さんと今後も繋がれる可能性だ。


もうあの頃の時間は過ぎ去ってしまった。
戻りたくても、戻れない。時間は待ってなどくれないのだ。

ならばまた、すがりつけば良い。


『でもその人だいぶ面倒くさいよ』

彼女は続けた。


『他人を信用しないし、気難しい。何事にも厳しい採点をする。嫌わたくないくせに嫌われ役を好んで演じる。ストレスしかないかも。それでもいいの?』

僕は答えた。

「‟今“よりは全然マシです」


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