サヨナラサヨナラ
同じ課の大谷が急遽の人事異動が発令されてから始まった業務引継ぎは、大谷の性格的な部分もあわせ、誰もがまともに受けることができなかった。
もともと大谷は同じ課の人間と会話することもあまりなく、また客先に対しても自身のやり方を優先するため"塩対応の大谷"と関係各署から専らであった。
当然ながらその大谷自身が積極的に引継ぎを行うわけもなく、引き継がれる側の裁量に今後は委ねられることとなった。
大谷異動から5日。
置き土産の大谷の書類を整理していたところ、入社2年目の安田が私に話掛けてきた。
『松岡さん、それなんですか?』
「大谷さんの書類だよ。各案件キャビネットにまだ残されてるやつがあるんだよ。安田さんも大谷案件引継ぎあったよね?確認しといたほうがいいよ」
それを聞いた安田はすぐにキャビネットへと赴き、数分後に厳しい顔つきで戻ってくるやいなや私にこう言った。
『山ほど残されてました。整理一切されてません』
「ああ。やっぱり?早めに気づけてよかったよね」
『大谷さんってほんとクズですね』
クズて…
大谷は入社20年を越えるベテランだ。
その大谷に対して2年目の安田がクズ呼ばわりした部分への引っ掛かりはそれなりにあったが、安田は続けた。
『大谷さん、引継ぎ一切しないんですよ。責任感とかないんですかね。松岡さんは引継ぎありました?』
「あったよ、一応」
『はあ?人で選んでるんですかね?』
「いや俺は自分から引継ぎの時間取ってくださいってお願いしたから…」
『なんで松岡さんが頼むんですか?マジでクズだな』
「…いやその。俺は引継ぎは引継ぐ側の全責任だって教育されてきたからさ」
『なんですかそれ。そんなこと言い出したらどうにもなりませんよ』
「いやあ…同じ立場だったら俺も引継ぎしないで行っちゃうタイプだからさー。俺も異動することになった際の保険だよ保険」
『へー。でもありえないっすけどね。私なんか一切今回引継ぎ無しですよ』
ならキミからなんで引継がれにいかないんだよ…
心の中ではそう思っていたが、おわかりの通りこの安田という若い女性はやたら気が強いし、そもそも私は同じチームでもなければ教育係でもないのでそれ以上は特に言わなかった。
「まあ頑張ろうよ。やるしかないし」
『そうですね。最悪だなー』
自席に戻る安田を見送りながら私は、あーああいうのを本当は注意しないといけないんだよなーと思った。
同時に、まあ俺がやる必要もないか、と思った。
さらに同時に、そういうところがダメなんだよなー俺は、とも思った。
安田は美人だしやたらプライドが高い。
何か指導しようものならそれなんでですか?やってますよそれ!とああいえば上祐史浩されてしまい、こちらの心が削られてしまうので、その役割を進んで受けるなんぞ考えもしなかった。
そういうタイプはどうせ3年くらいで結婚して辞める。
いまの時代そういうことを言ってはいけないこともわかってるがこのタイプはどうせ3年くらいで結婚してやめる。
ならばいいだろう…仕事自体嫌いなのにわざわざ傷つかなくても…多分ちゃんとこういうのを指導することも私の給料の中には含まれているがまあいいだろう。
だがいよいよこうなってくると私の存在意義は無い。
このまま誰からも必要とされないまま、自分のことだけを考えて私は終わっていくのだろう。
○
秋葉原ガールズバーのゆうちゃんから新たに返信されたLINEに、それは記載されていた。
【前回松岡くんが来たときに、私は心の底から笑いました。
私は入店してすぐコロナで緊急事態宣言になって、他の女の子と馴染めなかったけど、その日、松岡くんと会話してる姿を見た他の女の子が『ゆうちゃんがあんなに大笑いするの初めて見たw』と話し掛けてくれました。
それがキッカケで、他の女の子たちとも打ちとけて、今では気を遣うことなくノビノビ楽しく仕事ができてます。
だから松岡くんは私にとって恩人です】
こんな私でも、誰かのためになっているみたいだ。
かつては長きに渡る男子校生活で女性と目も合わせられず会話ももちろんできなかった私が、今では女性を笑顔にすることができるのだ。対価として大金を投じているわけではあるが。
何よりも、単発で終わると思われていたゆうちゃんとのLINEがわりと続いているのが驚きだ。
ゆうちゃんは
『松岡くんがしつこくLINEしてくるせいで私もあんまり得意じゃないのにLINEしまくる羽目になったよ。そのせいで完全に気持ちが松岡くんに向いているとみんなに思われてるからね。そんなことないからね』
と言っていた。
ジェスチャーを使いながら言っていた。
なんて上手な女性なのだろうか。手玉なんですけどマジで。
とにもかくにも私はゆうちゃんが好きだ。
付き合いたいとかではなく好きだ。
いやあわよくば付き合いたい。
しかしそこに至るまでの気概や行動意欲はほぼゼロだ。
もう33だ。ガールズバーの女の子が好きて…
仮にうまくいくとしてもそもそも私はひどい見た目だ。
美人と一緒に行動するのはコンプレックスどうこうは一切関係無いとしてもとにかく億劫だ。
じゃあ万に一つ肉体的関係を結ぶに至ったとしてもそれはそれで面倒だし億劫である。
もう時間という有限の資源を相手への気遣いで消費することにとんでもないレベルの億劫さを感じる。
昔は昔で振られるのもまあネタになるなーくらいに思っていたので自分の容姿など関係なくゴリゴリ行けていたし、なんなら草食系だの絶食系だの言われる男達に対して嫌悪感すら抱いていた。
だがいまはその気力がない。
そのため私はただただ金だけを払い、もうネクストを望むことを諦めてしまった。
このまま終わってしまうのだろう、と最近はよく思う。
無価値。不毛だ。
○
『私、研修でそういうの教えてもらえてないんでできないんです』
安田はうんざりしたように私に告げた。
安田だけじゃなかった。
本郷も遠山もミャンマーからやってきたグエンも呆れながら私を見ていた。
この日、普段は固定電話の対応を全て行う総務課が会議に入っており、従って社内に固定電話応対をする人間がいなくなった。
だがそれでも容赦なく電話は鳴る。
数本の電話は私と隣席の西川さんで対応していたが、社内には我々以外には上記の2年目達しかおらず、彼らは鳴り続ける固定電話に一切出なかった。
私と西川さんが電話応対に入ると、他の誰も電話に出ようとせず、ただひたすらプルルルルルという電話音が鳴り続け、最終的に会議室から井元さんが飛び出してきて電話に出ていた。
彼らは出る素振りもせずに、ずっとパソコンに向き合っていた。
それが二度続いたとき、さすがにこれはどうにもならないと感じ、近くの席で同様にパソコンを打ち続ける安田に私は声を掛けた。
「安田さん、いま総務いないから電話鳴ったら出て」
『私、研修でそういうの教えてもらえてないんでできないです』
時代が変わってしまった。
かつてはまず配属されたら固定電話に出ろ、なんならそれが仕事だ、という教育を受けてきたが、現在は電話応対はあくまでセクション別。より効率的な業務のためにマストではない項目に電話応対が入ってしまったのだ。
なんなら先輩社員に電話応対しろと強要されたことをパワハラと訴えたという事例さえある。
黙して何もせず。
それで良い。
我々が電話に出ている間に、彼女の仕事が進むならそれで良いじゃないか。
けれども何度も会議室から飛び出してくる井元さんの姿を見ると、私には到底そう納得することができなかった。
「よし。なら次、一緒にやろう」
『でもやり方がわかりません』
「大丈夫。電話とって会社名言ってお世話になってますさえ言っとけばあとは勝手に相手が喋るから。とりあえずそれ取り次ぎさえすればいいから」
『私たちが電話に出る意味あるんですか?』
「仕事の電話出ることに意味が無いって発想ヤバいよ」
『でも私、ほんとにできる自信がないんです』
「なら俺がやるから。それ聞いてて。見てて。それ見本にやってみて」
『わかりました』
そして電話が鳴った。
結局、その後の電話は全て私が出た。
彼女はずっと私の横で私の電話応対を見ていた。
いや俺が研修生か。
安田はもちろん、本郷も遠山もミャンマーからきたグエンも電話に出なかった。
彼らに至っては引き続きパソコンを打ち続けていた。
鳴り続ける電話はやはり都度井元さんが会議室から飛び出してきて対応していた。
む、無意味…そして無価値。マジこうなってくると仕事辞めたい。
こんなんだったら何も言わなければよかった。
安田からすれば私は仕事の邪魔して電話出ろという非効率おじさんなのだろう。
自分のちょっとした行動が何かを変えるなんてフィクションの世界だけだ。現実は甘くない。
でも神よ。この私に罰と少しの勇気と変化した明日を。
『松岡さんはこの仕事好きなんですね』
安田が私に問いかける。
「え?いや俺マジこの仕事っていうか仕事自体めちゃくちゃ嫌いだよ?」
『なら固定電話なんて出なければいいじゃないですか。別に自分の仕事じゃないんだから』
「それもそうだね」
こうして私は二度と固定電話に出ることをやめた。
おいコラ井元。
さっさと会議室から飛び出して電話出ろやコラ。
遅えよコラ。