ブレス
これは、記録である。
戯曲でもなければ小説でもない。
単なる面白味のない記録である。
ここから記す、私の日常について興味の無い人間は多いだろう。
その場合はただただ別の面白い戯曲や小説を読めばよい。
今回のような記録を読むくらいならばたとえば“偉人ちゃん2020”や“黒味かかった雲は雨粒を落とさない”のほうがバカバカしく笑える。
それをわかったうえで私はただただ面白味の無い話を書き連ねるつもりだ。
×××
私が小学五年生の時、岩手からやってきたディケンズは、山本くんに気に入られ、クラスの一員となった。
彼は実に面白く、奔放に教室を走り周り、私のお気に入りのクラスの女子にちょっかいをだした。
初めて二人でナンパに行ったときは、二日酔いで翌日百貨店のトイレで互いに何度も吐いた。
二人で何度も適当な女を褒め、嫌われるたびに空に向かって吠え、施錠してないのをいいことに相手のプライベートを踏みにじり、朝方の漫画喫茶の一室に静かに座り朝を待った。
色んなところで誰かに嫌われ、また多くの人に呆れられ、それが時には迷惑と言われる時もあった。
最近の彼は薬ばかり飲んでいた。
身体を動かすのも億劫そうに立ち上がり、ゆっくりと薬を飲み、またゆっくりとリビングのフローリングに寝そべり、窓の外を見るわけでもなく、ずっとどこかを見つめていた。
そして今朝、眠るように彼は死んでしまったそうだ。
×××
君が願ってるよりも
君はもう僕の全部で
どうぞお望みとならばお好きに切り刻んでよ
今ならば流れる血も全部
その眼から零れる涙は落ちるには勿体ないから
意味がなくならないようにそのコップに溜めといてよ
それも全部飲み干してみたいよ
閉じ込めたその涙には人を人足らしめる全てがつまっていて
触れたら壊れてしまいそうで
触れなきゃ崩れてしまいそうな
君をここでただ見守るよ
偉大な歴史の一部を残すように
僕は歌う
×××
何年前かの3月、東日本を襲った未曾有の大震災の際、ディケンズは何もしゃべらなかった。
あのときは大混乱で、それでも誰もが互いに助け合って、誰もが互いの身を案じた。
パニックの中でも私は、ディケンズに無事か?と何度も連絡した。
余震が残るなか彼は、テレビの映像を観ていた。
何度も利用していた三陸鉄道が、半分以上、“無くなって”いた。
「さすがに泣けるよね」
そう言うと彼は、一切言葉を発しなかった。
いま思えばこれが、彼が沈んだ表情をしていたのはこの時だけだった。
以来彼は病気がちになった。
食事は制限され、一時期は太りすぎとまで言われた身体はみるみる痩せ細ってしまった。
「なんかねー、視力がすごく落ちちゃってさ」
生活に不自由を感じることもあると彼は言った。
階段の昇り降りはいつも辛そうだった。
それでも彼は、私と遊び続けた。
身体を動かすのも億劫そうに立ち上がり、目の前の女性に向かい、また時には見ず知らずの女性と共にリビングのフローリングに寝そべり、窓の外を見るわけでもなく、ずっと嬉しそうに笑っていた。
いい加減にしてと怒鳴られても、満足そうに笑っていた。
来る日も来る日も、ずっと遊んだ。
何が楽しくて、傷つくことをするのだろうか。
×××
その口から落ちる言葉はどこまでも真ん中目指して
深く突き刺さらぬように身をよじって躱す僕です
この絶望も希望も今も平穏も機微も快楽もてっぺんも奈落も狂乱も
全ては君の指揮次第で
今日もその掌で好きに踊ろうと思うよ
どうせならばとびきりのスウィングを
飛ばされて降り立った国に今なら過不足なく愛を説けるでしょう
触れたら壊れてしまいそうで
触れなきゃ崩れてしまいそうな
君をここでただ見守るよ
万物に渡る定理を残すように
僕は歌う
×××
『眠るように丸くなって亡くなってたんですよ』
彼の同棲相手はそう伝えた。
中学生の頃、担任の先生が心筋梗塞で亡くなった。
「最後まで苦しいそうだった」と誰かが言い、私達は死に方に初めて考えさせられた。
しかしながら彼の死にはそういう苦しさがなかったように思う。
安らかだ。
同棲相手が抱えた小さな段ボール箱には映画の半券やライブのチケット、フェスのリストバンドが等間隔に入れられていた。
『あんまり趣味が多い人じゃなかったんですけど、思い出は保存しておくタイプで』
私は一通り箱の中身に触れた後、彼女は段ボールを返した。
『一応大事に保管しておきますね』
「それがいいと思います。捨てることが得意ではありませんでしたし」
彼女が立ち去ると、まるで彼自身も完全に去っていったような、虚無感とは似て非なる複雑な感情に襲われた。
彼女が渡してくれたパンフレットにはたくさんの感謝のメッセージが彫られたお墓の写真が載っていた。
綺麗な花が、風景にしっくりと溶けていた。
どうやらこの安息の場所で、彼もゆっくり眠るようだ。
意識のない人間が夢を見る、ということは有名だ。
それならばきっと、彼自身も直前まで夢を見ていたのだろう。
一体どんな夢を見ていたのだろうか。
×××
おさがりのキスでも
使い古しの「愛してる」も
大事にするよと笑った顔の頬に走った二つの線が僕を呼んでる気がした
触れてしまったんだ
壊れてしまわぬように
ずっとギュッと抱きしめた
触れたら壊れてしまいそうで
触れなきゃ崩れてしまいそうな
だけどそれでも僕は手を伸ばすよ
壊れても拾い集めるよ
いいだろ
×××
小学生の頃、クラスのリーダー格だった山本くんはとにかく人気者だった。
ディケンズが私と初めて二人で遊んだ時も、山本くんはクラスの女子たちとプールへ遊びに行っていた。
「好きじゃないんだよね山本くん。なんでも持ってるし」
とディケンズは笑いながら言っていた。
そういえば山本くんがクラスで発言したとき、ディケンズはいつも無意味に彼の発言に反論していた。
そこで私はようやく気付いたのだ。
ディケンズは自分が傷つくことをなんとも思わなかった。
何かを求めるように渇いた言葉を発した。
「本当に顔ばっかりどうしようもねえ女だな・・・」
彼はその瞳で何かを見ていた。
「嫌な思い出、ここでリライトしよう!」
バカみたいなクラブミュージックに身を任せ、呆れながらも楽しそう踊り狂った。
「キミは割烹着でも着ていろ!!」
情けないくらい惨めな醜態を晒しても、傷つくことをやめなかった。
「不毛だ。でももしそうならそれは僕の本望だ」
だが最近はそういうこともしなくなった。
なぜ。
最近はただただじっと、私の話を聞いていた。
「大丈夫だよ。松岡さんは運がいいから」
何を考えていたのか。
震災のあの日、消えた三陸鉄道を見ながら彼は何をしていた?
「人生は、勝負したほうが面白いに決まってる」
山本くんに無意味に反論する映像。
「ムカつくんだよ」
彼が生き続けることで、私に残したもの。
「それって、もう僕は生きる意味ないじゃん」
彼という生き方。
「人は概ね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ」
そして、彼がいなくなり、終わったもの。
「しかしもう死んでもおかしくないくらい何もないね。やっぱり次に死ぬのは僕だな」
風の音が大きくなる。
そうか。何も終わってないんだ
「仕方ないよ。生きよう」
渋谷の夜の街を走るディケンズを空まで届くほど大きな望遠鏡が、ぼやけながら捉えた。
曙光があたりを包む。
×××
触れなきゃ今すぐこの手で
触れなきゃ崩れてしまう前に
君の丸ごと全部に僕は触れたいよ
壊さぬように崩れぬように育つように始まるように
僕は歌う。
終