雨燦々
九段下駅で電車に乗り、乗車ドアの近くに立ちながら発車を待っていると、ドアがまさに閉まる直前に女子高生が駆け込み乗車をしてきた。
必然的に彼女の真後ろに陣取ることになった私は、距離が近いこともあり、両手で持っていたカバンを左手だけで持ち、右手は意味もなく携帯電話を取り出して画面を見ることにした。
私も中年であるし、見た目も小汚いため、ちょっとした仕草でたとえば痴漢だとか盗撮だとかを疑われても仕方ないし、また真後の見えないJKに対してもそれなりの安心を見せなければならない。
あえて携帯の位置も高い場所で見て、私の両手は塞がっていますよというアピールを誰も見ていない場所でもやらなくてはならないのだから、老いとは悲しいものだ。
しかしそのJKは場所を大きく陣取り、何やら手元の紙をパシャリと撮影し、スマートフォンを操作している。
真後であるため画面が見えてしまったが、どうやらInstagramのストーリーを電車内で投稿しているようで
【駅員さんに15分からじゃないと遅延証明出せないって言われたからお願いします〜ってすっごい甘えたら時間改竄して遅延証明くれた。ラッキー✌️】という文字が絵文字満載で踊っていた。野村萬斎。
大学生くらいの頃はとにかくJKと付き合いたかったし、ダブルデートもしたこともあった。
あの頃であれば彼女のこのストーリーズ投稿に関しても、かわいいなあ、JKは良いなあとなっていたはずだ。
けれども月日を経て、すっかりその熱は冷め、本件に至っては「しょーもないことするなあガキは」とすら感じてしまう。
投稿を終えると彼女はその遅延証明書をスマートフォンカバーの中にしまい、次の駅でまた急いでホームを駆けて行った。
なんだかその光景は音楽のMVの1シーンのようで、なぜか彼女が雨の中びしょ濡れになりながら線路沿いを錆びついた自転車を立ち漕ぎで走らせる姿が想像できてしまい、とても絵になるものだった。
そんなことを感じてしまう部分も含めて、総じて歳を取ったということだ。
◯
小学校の時に通っていた進学塾の同窓会のような集まりがあった。
そんな会、よく集めたなというぐらい非常に繋がりの薄い関係性ではあったが、15人ほどいたクラスのメンツは10人くらいが集まっていた。
それぞれがやはり最初は警戒しあうような形だったが、お酒が入るにつれ徐々に打ち解けていったように思う。
私が仲の良かった海老原くんは海上自衛隊に入隊しており、いまも遠征先は家族にも明かせないんだと苦笑しながら誇らしい顔をしている。
もう1人いつも一緒にいた山川くんは見事に医者になっていた。
また、この会を集めた古山さんに関してはキャビンアテンダントであり、いまは若手の教育も行っているという。
集まった10人のうち6人が明らかに勝ち組であり、残りの4人は負け組の人生を歩んでいるように思えた。
そしてその4人のうちの1人が紛れもなく私だった。
「俺は単なる営業マンだよ。どこにでもいる」
近況を報告する際、それ以外の言葉を出すことができなかった。
それくらい彼らとの差は歴然であり、厳しいものだ。
あまりにも自分が惨めだ。
踊る大捜査線で東北大学出身の室井が東京大学出身の新庄に「あの時、遊ばずに勉強しておいてよかった」と嫌味を述べるシーンを今でも覚えているが、それが自分に突き刺さる日がくることなど夢にも思わなかった。
私はこの場において致命的なドロップアウト者であり、敗北者であり、場違いな人間であった。
普段はお酒を飲むと口数か多くなるのだが、この場ばかりは口を開くとそれが自分の惨めさに直結する気がして、私はとにかく隅で誰かの発言に相槌を打つことしかできなかった。
一通り近況報告が終わると、今度は誰が結婚して誰が子供がいて誰が恋人がいるかという話になった。
「俺、天野のことが好きだったんだよ」
クラスのお調子者で、よく授業に出ずにトイレでチョコレートを食べていて、現在は教職に就いている黒田くんが言った。
「え、俺も!」
美容師になった元川くんが続くと、それを皮切りに参加男性がみんな天野さんを好きだったと告白しだした。
海老原くんも山川くんも「俺も!」と追随する。
私も漏れることなく、「俺も!」と続いた。
ノリでそう発言したわけではなく、事実天野さんのことが私は好きだったし、彼女は紛れもなくクラスのマドンナだった。
『いやいやいや、ノリ過ぎでしょ』と照れる天野さんに、古山さんが『ほんとみんな好きだったよね。私の親もよくその話してたもん』と言う。
そこからはいまも独身の天野さんに男性達がノリ良く話し掛ける展開が続いた。
私はやはり人生におけるコンプレックスから輪に入ることができなかった。
会計が終わり店を出ると外で参加者全員が集合しており、黒田くんが「二次会行く人ー」と出欠をとっている。
私は参加すべきか迷っていると、後ろから天野さんが話しかけてきた。
『慎ちゃん、この後飲みにいこう』
海老原くんがすぐに反応し、
「え?別で行くの?」と言った。
天野さんはすかさず
『うん。友達だから』と返す。
一斉に人生の勝ち組達が落胆するのがわかる。
散々コンプレックスに苦しむ3時間を過ごした私自身も、まさか最後の最後でクラスのマドンナに選ばれ彼女を独占することで、絶対に敵わない勝ち組達を一掃することになるとは思いもよらなかった。
◯
天野さんが私を誘ったのにはカラクリがある。
実は私が大学生の時に2年間付き合っていた彼女が、たまたま天野さんの親友だったのだ。
私は恋人の親友として紹介された天野さんと偶然の再会をすでに果たしており、彼女が慎ちゃんと呼ぶのはまさにその当時の恋人が私を慎ちゃんと呼んでいたからにすぎない。
「なんか何も喋れなかったよ。自分が惨めで。そこに居るのが恥ずかしかった」
『私も無名会社の事務員だからね。負け組だよ。だからしんどかったね、あの会』
彼女も私同様ドロップアウトしていた。
高校の時は理由あって休学もしていたと元彼女から聞いてもいた。
『なんでメイと別れたの?』
「いや特に…忙しくて会わなくなってて、必要無くなったんじゃない?」
『どっちから別れたの?』
「向こうだよ。22くらいの時だよ。随分昔だね」
『それからずっと会ってないの?』
「会ってないよ。天野さんは?」
『5年くらい前に一回会ったよ。でもいまあの子は九州だから』
「みたいだね。一回LINEはきたよ」
『会おうってなんなかったんだ』
「うん。なんかね。変に他人行儀にこっちの予定を思いやって、"もし嫌じゃなかったら"会おうって言われたのがすごい気持ち悪くて」
『まだ中野とメイが浮気したこと許してないの?』
「いや、それは別に」
付き合って1年くらいの時に、私の彼女の浮気が発覚した。
相手は彼女とも天野さんとも同じ小学校出身の男で、私と同い年の男だった。
当初彼女は中野くんをただの幼馴染だと言い張っていたが、たまたま私が目にしてしまった彼女の日記帳に赤裸々に浮気の実態が記されていて発覚したのだ。
「あれは許してその後も付き合ってたし」
『じゃあそれが原因ではないんだ』
「あー、でもその浮気発覚以降逆になぜか俺への束縛が厳しくなったし携帯もいつもチェックされたのは本当にウザかったけどね」
天野さんは無表情でカシスオレンジを口にし、『何か食べよう』とメニューをぱらぱらめくった。
「天野さんこそ、大志と付き合わなかったの?」
『付き合ってないよ』
「でもライブとか二人で行ってなかった?」
『行ったけど、付き合いはしなかったな。なんか私も色々あって』
大志は私の高校時代の友人で最も仲の良かった1人だ。
私の元彼女が天野さんを連れてきたので、私も親友としてタイシを連れていき、以降二人は何度かデートをしていたのを知っている。
『なんとなくメイと慎ちゃんは結婚する気がしたんだけどな』
「俺は天野さんと大志はお似合いに見えたよ」
『結局この二人がまさかいまになってまた繋がるとはね』
たしかにそれは皮肉なのかもしれない。
4人の中では一番最初の知り合いであるが、4人の中では最も関係性は薄かった。
『またメイと会いなよ』
「嫌だよ」
『やっぱり嫌いなの?』
「嫌いじゃないけど、逆に元カレとまた友達になりたいと思う?」
『私は別に』
「ところで中野くんっていま何してるの?」
『なんか通訳の仕事してるみたいだよ』
かつての学友が医者や自衛官になるのも耐えがたかったが、彼女の浮気相手が平気で良い職業に就いていることを知るのは、この世で最もしんどいことであるように思えた。
「俺も人生、頑張ってきたはずなんだけどな」
『仕方ないよ。運だよ』
「じゃあこれから医者も自衛官も通訳も羨ましがるようなことするわ」
『何するの?』
「メイちゃんと天野さんと3Pする」
『え?何それ。私と?』
「そう」
『それ私がしてあげるメリットある?』
「"親友の彼氏を誘惑して本人の前で寝取った"って武勇伝になるんじゃない?」
『まずもう彼氏じゃないでしょ』
「そうだね。冗談だよ」
『あんまり張り合わなくてもいいんじゃない?どうにもならないものはどうにもならないし』
「いやでも何かしら勝ちたいじゃん」
『人生は勝ち負けじゃないよ』
「は?何言ってんの?勝ち負けだよ」
『そんなことないよ。こだわらなくても幸せな人いっぱいいるよ』
「こっち側がそれ言い出しちゃったら、それこそ"負け"確定だよ」
◯
『もう一軒くらい行く?』と天野さんは言った。
「いやいいよ。明日もあるし」と私は断った。
住居の最寄駅での飲み会であったため、隣駅へ帰ることになる天野さんを私は駅まで送ることにした。
少し駅から離れた場所で飲んだ選択は見事に裏目に出て、駅までの道のりは予想外の大雨に見舞われることになった。
『私の折畳傘があるけど入る?』
彼女の誘いに甘える。
小学生の頃はできなかった彼女との相合傘を20年余り経って経験することになろうとは。
折畳の面積は当然ながら小さく、お互いが濡れないようにした結果、必然的に私と天野さんの肩は触れあった。
『今日楽しかった。すごい久しぶりに』
駅までもうすぐの場所で彼女は言った。
「天野さん彼氏いるの?」
『いないよ』
「昔、まだメイちゃんと俺が付き合ってた時、天野さん俺のこと"痩せすぎててマジでナシ"って言ってたよね?大志から聞いてるよ」
『そんなこと言ったっけ?覚えてないよさすがに』
「どう?今の俺。痩せすぎどころか太り過ぎだよ。めっちゃデブ。これってつまり天野さんは俺と付き合いたいってことだよね」
『いやあ、全然ナシかな』
「通訳の仕事って凄そうだけどぶっちゃけ単なる名もなきサラリーマンでしかないよね」
『なんの話?』
「いややっぱ中野クソムカつくなって」
『うん』
「天野さん、高校休学したのって担任の先生と不倫したからだよね。33歳男性教諭。しつこく言い寄られたんでしょ?最低な奴だな」
『何それ。誰から聞いたの?』
「彼氏持ちの女を寝取る幼馴染、女子高生と不倫する担任教師、親友の秘密をベラベラ喋る女、同窓会で独身女性を口説こうとする医者、自衛官。天野さんの周りの人はクズばっかだな。一番のクズはどうやらこの状況でスパークしだした俺っぽいけど」
『そんなことないよ』
右手に傘の柄を持ち、彼女が濡れないように気を遣いながら、私は少しずつ傘の中から出た。
やたらと大粒な雨が、私のギンガムチェックのシャツを数秒でびしょ濡れにした。
「大志と付き合わないで良かったよ」
『なんで?』
「大志は俺の親友だよ」
『知ってるよ』
「天野さん、中野とヤッてたでしょ」
『メイからきいたの?』
「天野さんが再会させたんだよね?二人を』
『やっぱりそのこと、浮気のこと怒ってるんだね』
「いや、メイちゃんも中野もなんとも思わないよ」
駅の庇の下、雨粒の音にかき消されつつも言葉を繋ぎ、私は傘を閉じて伝えた。
「でも天野さんのことは嫌いだな」
『…ごめん』
「逆恨みだよ。さっきうっすら付き合って感だしたら即断ったから。意趣返しだよ。付き合ってくれてたら全部許すし中野と3Pだってするよ」
彼女はそれに対し何も言い返さなかった。
表情は暗く、また怒っているようにも見えた。当然といえば当然だ。
酒に酔い、たとえここでぶん殴られようが喚かれようが、私にはもうどうでもよかった。
ただ彼女が次に発した言葉は、その類のどれでもなかった。
『傘、あげようか?』
「大丈夫。ちょっとくらい濡れても平気だから」
『ここまでありがとうね。小説とかエッセイ頑張ってね。売れるといいね』
「売れたら付き合ってくれる?」
『うーん。無理』
最後は少しだけ微笑んで彼女は改札口のむこうに消えた。
連絡先も交換していない。
共通の知人がいるにはいるが、彼女とまた会うことはきっと二度とないだろう。
そもそも今日自体が、存在していないのだから。
◯
バケツをひっくり返したかのような大雨は、時に轟音と稲光を伴い、それはもう傘を持っているとかいないとかの問題ではないように思えた。
視界も悪い。数メートル先の信号機の色がぼやけて見える。
コンタクトレンズでよかった。
メガネで帰宅するのは雨の高速道路をワイパーを掛けずに車で走るようなものだ。まともに前なんか見えない。
コンビニに途中寄ろうかと思ったが、これだけびしょびしょで店内に入るのはとても迷惑になるような気がしたので諦めた。
ズボンは下着まで濡れて重く、スタイリングした髪の毛は雨に溶け、私は何度も前髪を掻き上げた。
雷が強く近くなっている気もしてきたので、家まで土砂降りの中を走って帰ることにする。
走り出すとなぜかあの九段下で遅延証明をもらい、神保町駅を全力で駆けていく女子高生を思い出した。
同時に、この年齢になっても走らないといけないのか俺は、と少しだけ虚しい気持ちになる。
何が小説とかエッセイ売れるといいね、だよ。
売れるわけねえだろクソが。
クソが。
過去を謳う悲しみ達が、雲となり雨を打ちつける。
叫べよ気の晴れるまで
声は雨に掻き消され
今じゃ何処の誰にも届かなくても、手遅れになってしまった未来へさえも。
繋ぐよそのバトンを
静かに待ってる人がいる
雨燦々と悩ましく、生き惑う僕らの、悲しみさえも水に流してゆく。
線路沿い、風を切り
一直線に君へと向かうのさ
雨に濡れながら帰ろう
錆びついた自転車のギアを変えるかのように、私は駆け足の速度を速めたのだった。