信者へ

全知全能なる我が神はなぜ我らを不完全に作ったのだろうか。

野原の上に存在する、ただそれだけで我らは飢え、恐れ、奪い、殺す。
生きることは常に飢える可能性を意味し、それはあらゆる恐れの根源になる。だから木々の実りはもちろん動物から命を奪う。それどころか同じ人間からも奪うのだ。救世主が誕生してから2000年ほど経ち、それは悪化している。
我々もはや単に食に飢えるを超えて、かの人種がたむろする事実やかの思想がはびこる現象にすら飢えている。そのために何千万にも殺したのだ。

わが神が全知全能であるならば、なぜそのような愚かで弱い矮小な存在として我々を作ったのだろうか。私は教会行きの馬車の中で涙した。

同乗している病人が呻くので、包帯を取ろうと月光を頼りに車内を見回す。もはや赤を超えて黒に染まりつつある彼の包帯を新しい真っ白な包帯に取り替える。数秒だが見えてしまった傷口は血に濡れた骨と血管と脂肪と筋肉を露出しており、気分が悪くなった。口直し────というより目直しのために月を見る。そして昔のことを思い出した。

13年前、まだ子供だった私も同じく馬車に乗っていた。長時間移動しているのにも関わらずまだ月が見えることが不思議だった。私が鮮やかな羽を持つ鳥を追いかけてもすぐに見失なったというのに。
だから「月は一生懸命僕のことを追いかけているんだね」と両親に言ったら笑われたのを、今でもよく覚えている。

月の軌道が解明されたこの時代にとってはバカバカしい話だ。まったく、ナンセンスな誤解だ。全知全能なる我が神も笑うことだろう。

………………いや、本当にそうなのだろうか。

全知全能なる我が神は月の軌道を知っていたことだろう。だが、私も月に追いかけられていることを知っていた。それは結果的には嘘だったが、そのときの私にとってはなによりも真実だった。
今や月が私を追いかけているとは思わないが、もしそう思いたくても思えないだろう。私は軌道を知ってしまったから。
それでもあのときは、たしかに、月に好かれていることが嬉しかった。今やあの月になんの喜びも感じない。

───────そうか!我々はそのために不完全なのか!!

全知全能なる我が神は月の軌道を知っている!太陽の構造も知っていることだろう!!
しかし、だからこそ月に追いかけられてるとは思えない。我が神は全知であるからこそだった一つのことしか知り得ない。
だが私たちはいかようにも知ることができる。なにかを始めようと家を出たとき、快晴であるだけで祝福されていることを知るし、善行に善行で返されただけで善行は私のためになると知る。神はなにもかもを知っているようで実際のところ一つのことしか知らないし、私はなにもかもを知り得ないからこそなにもかもを知り得るのだ。

我々は無知な存在として作られたのではなく、あらゆることを知れるように作られたのだ。無知であるからこそ"知る"自由と力を手に入れたのだ!

であれば科学は無意味なのだろうか─────いや、それも違う。

科学は計算上のあるいは実験上の唯一の真実を知ろうとする試みである。それはつまり神の知に近づこうとする営みである。だが、どれだけ知ったところで知ることはできない。
つまり、どれだけ人類が歴史の中で真実を見つけたとしても、最終的に全ての真実を見つけられたとしても、それを1人の人間に詰め込んで全知にさせることはできない。寿命があるし、なくなったとしても、知ろうとするとは限らない…………それとこか望まないだろう。我々は幸せになりたいだけで、神になりたいわけではないのだから。月に追いかけられている幻想を捨ててまで神になりたいとは思わないからだ。

しかしそれでも脆弱な肉体に閉じ込められている我々にとって神の知は…………科学は有益である。神が我々を作ったのだから、神の知が我々のためになることは基本的に当然である。

ゆえに神学と科学もまた矛盾しない。それところか科学とは神学の一部であろう。

私は信じるために疑うのだ。

なるほと…………科学に神学が淘汰されようとする時代ですら神はその威光を示されるようだ。その一方で我々を光そのものにするのではなく、光に守られる存在として自由と力をお恵みくださったのだな。


私はそれを悟ると穏やかな気持ちで月に微笑んだ。
今までは私を追いかけるだけの月に、お返しをした。

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