通院で得たもの
やっと精神科の診察。私の決めつけの酷さと最近のことについて話した。要約すると、「相手は動かせない」「難しい人間関係には突っ込みすぎない」こと。それが私の課題だと主治医は言った。
「大人の悩み事をしている」
そうやって先生は言うけれど、大人になんてなりたくなかった。一生子供のままでよかった。14歳の青春が懐かしい。あの春に戻りたい、あの春を永遠に続けていたい。そんな思いも虚しく、私は順調に成長を続ける。
大きいと言われる胸も、微妙に高いようで低い背丈も要らなかった。あの頃に戻りたい。あの頃が私は1番輝いていた。
悩みに真摯に向き合えて居た。ODなんてしなくたって良いと思っていた。だってそんな事しなくても十分に幸せだったから。
自分から幸せを手放してしまって、どんどん何も出来なくなって。昔からの人間関係と言えば幼なじみただ1人、あえて言うなら頭に響く声たち。
つまらないことをしている、その自覚はある。こんなことをするより、趣味をもっと磨いた方がよっぽど人間的である。
最近の学びは、「自分には忍耐力が足りない」ということ。ある人は動画の中で、「中途半端に賢い人は答えが出ないことに我慢ができない」と言っていた。私もそうだ、答えを出すことにこだわりすぎる。考えることに集中できない。主治医にも言われた。「貴方は人の背景を考えるのが苦手だ」と。
何故相手が今の状況になっているのか。イライラしているように見えたら自分が悪いんだ、と思ってしまう。つまらなさそうにしていたら私と居るとつまらないんだ、と思ってしまう。それが「人の背景を考えることの苦手さ」らしい。
イライラしていたら、「もしかしたら口内炎でもあるのかも」と考えるようにしなさい。そう言われた。自分が見えている状況以外のこと、それが「人の背景」である。と、私は解釈した。それと同時に、先生は「気持ちを確認するようにしなさい」とも言った。「何かあったんですか?」「空気が張り詰めてるような気がしますよ」と、確認すること。それが大事だと言っていた。かなり勇気の要ることである。けれど、人間関係とはそういうものらしい。面倒な確認を繰り返し繰り返し、間違いを戻って修正して、よりよく生きて行く。難しいことだ。
父親との喧嘩の話もしてみた。飼い猫の問題が起きた時、「めんどくさい」と発した父親に、酷く怒ってしまったこと。それがどうしても整理できなかった。だから話して少しでも整理をしたかった。
結果として、答えは出なかった。けれど、私の言葉にすごく寄り添った言葉が返ってきた。
「お父さんの言った“めんどくさい”に敏感になって怒ってしまったのは、お父さんに家族のことどう思ってるか確認したかったからじゃないかい」
今思い出しても涙が出る。そうだ、そうだった。ずっと疑いを持っていた、父親の家族への粗雑さ。それは家族を大事に思っていない証拠では無いのかと。そんな人間と住まいを共にするのが嫌だった。酷く苦しいのだ、昔からずっと。
私が言葉に出来なかったことをぴったりと言い当てられて、今までつっかえていたものが外れた。それは本当に嬉しいことだったのだ。何よりも、何よりもずっと嬉しいことだった。
父親への疑いは晴れないけれど、それだけで私はずっと気が楽になった気がしているのだ。