また君がそんな顔をするから
何を書こうとしたんだっけ。忘れてしまったけれど、とりあえずでnoteを開いた。
「自分が障害者だと言われたならば、どれほど良かっただろう」今日もそんなことを思いながら外を歩いた。母に言われた「障害者じゃないじゃん」という言葉は、思ったよりも細く痛い縄となって心を縛ったようだった。
もう私は他人がどう思うかなんて考えていられないのかもしれない。いや、昔からそうだったのかもしれない。私はどんな言葉でも、どれだけ鋭い言葉でも相手に投げかける。私の言葉は何も経由しない。思考の海から浮かんできた言葉は、そのまま口から吐き出される。船にも乗らないし、ましてやどこかの施設で検閲もされない。大体の言葉はそうだ。
私はそれを、「頭の回転が早いからだ」と考える。それは「頭がいい」という驕りでは無い。考える速度が速いのだ。たしかにそれは、私を助ける時もある。作文なんかは授業内で終わらせられたし、バイトでの作業もそこそこ上手くいく。
けれど、私はその速度によって「慌てる」し、「よく考えられない」のだ。焦った時なんかは次から次へと頭に言葉が流れる。それがいっしょくたになって、結果「どうしよう」になる。そうなれば次の行動もその次の行動も上手くいかなくなるので、どこへ行っても困るものだ。
それに、考える速度に喋るスピードや書くスピードが追いつかないために、口は変に絡まるし、文字はぐちゃぐちゃ。不格好なのだ。そのくせ言葉がよく詰まる。考えてる事はあるのに、適切な言葉が出てこないのだ。とても困る。
さて、私は困っている話をしたい訳ではないのだ。何が言いたいかって、「母親がこれと同じようなことが起こっているのでは?」ということである。頭の回転が速い、だから言葉を精査する時間はないし、どんな風に思うかも考える暇なく思ったことをポンと吐き出す。
やはり親子だ、口が絡まるところや手元がぐちゃぐちゃになってしまうところが少し似る。なら、頭の中でも似たようなことが起こっていないか?だから私は、その言葉で傷付いたのではないか?
いやここまで書いてから、自分がめちゃくちゃなことを言っていることに気付いた。私は私のことをあまり母に喋らないから、母はわたしが「障害者であれたら」と思ってることなんて知らない。それにたとえ親子でも、育った環境が違うんだ。頭の中で起こっていることなんて似るものか。ばかだな、愚かだな……
でもとにかく、入院前に何か書けて良かった