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2022/09/09(金) ただ稽古場にいる存在として

この日のお茶会で11月の本番のことを聞く。あぁまたあの作品が再演されるのかととても楽しみに。
不思議なただ稽古場にいる存在として、何か書かせてください、多分積極的に動いたり写真撮ったり映像撮ったりはしないです。と相談して、ちょっとやってみましょうと言っていただいた。

そこで早速作品について何か書けないか考え出す。南さんが以前にあげていたこの作品のテキストはこうだ。

複数の身体が万華鏡のように映し映され合いながら動き続ける。
何かが突出することもなく分断されることもない滑らかな触れあいの中で私達は、柔らかに同一化されていき、調和的に流れていく。
しかし、私達が異なる身体を持つ者/人間同士である以上、完全無欠の調和が実現されることはない。

ある瞬間に、はたと逃れようのない個/孤を自覚させられたり
またある瞬間には、通じ合えたような束の間の安堵を味わったり
人と人との間に働く求心的な引力と摩擦、衝突、
その営みが「super reflection」となる瞬間を求め続けている。

タイトルになっている「スーパーリフレクション」って、なんなのだろうか
=リフレクションを超えたリフレクション、ということだろうか

点対称の真俯瞰から撮ったダンスって重力の方向性がない
→これはいったい誰のためのダンスなんだろうか

反射(リフレクト)というより →ちょっと早い円環関係(≒ 循環)
自他の境界が失われていく感覚も相まって、これは「私」っていない、ということがキーになるのだろうか

などと考えてみる。

**super reflection**

決して「完璧」には届かない私たちのリフレクションへの努力は
誰に捧げるものだろうか

かつて人類は空からしか全体像の見えない地上絵を描いたというが、それは人間らしくない視点を感じながら、しかし同時に、一構成要素としての自らの役割を完全に理解し遂行していく行為である。自らを超えた存在に対しての祈りと、自らの身体の実感を同時に表出させることができないか。

普段は近い事に慣れていて気にも留めない、身体に対する視点と自らの身体の実感との距離を十分に取った時にこの作品が出来上がった。

また一方で、この重力のない世界で捉え直された身体を鑑賞して楽しむ私は、何者であろうか。

自他の境界を軽々と飛び越えて、誰でもない私たち、果てしなく差異のある私たちでこそ、そのノイズの瞬間的距離をもって完璧なるリフレクションに行為として抗い、越えようとする試みである。

複数の身体が万華鏡のように映し映され合いながら動き続ける。
人と人との間に働く求心的な引力と摩擦、衝突。

その営みが「super reflection」となる瞬間を求め続けている。

一度、私が初演を見たときの感じとお話しとを考えてテキストにしてみたが、これは11月の本番を迎えるまでに変化していくのだろうか、それとも言い当てているのだろうか。

とにかく、南さんは面白がってくれたのでこの方向で考えながら何ができるか、逆に積極的に消極的に何もしないで稽古場に居れるか実験してみようと思う。さてさて。

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