森美術館「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」
研修で身の周りが落ち着かなくて書くのが遅くなってしまった。記憶が薄れてしまって反省。
森美術館は今年度初めて?ではないか。でも土日に行ったのは確か初めて。そうだ、前回確かchimpomで行ったけど、平日だからかびっくりするほど空いていて見やすかった。だから土日の混み具合は想定外。ちょっと人酔いして具合が悪くなってしまった。
O JUN
非常に不勉強なので初めて知りました。とても素敵。
油彩画のあの見たときの迫力や衝撃、絵の具の重なりの持つパワーがとっても大好きで、油彩画は絶対に肉眼で見たい!という気持ちが強いです。そんな中最初が油彩画だったので嬉しかったな。あまり厚塗りな感じはしないけどしっかりと重厚で綺麗だった。
色合いが柔らかくて、何だか心がときめくような、安心感に満たせれるような、幸せな絵でした。初恋みたいだね。
松田修「奴隷の椅子」
森美術館らしい展示だなあと思った。
ちょっと話が逸れちゃうけど、私が美術館に行くのは単純な視覚的快楽を楽しみたい以上に、何かを思考する機会を与えてもらいたいという願望ゆえなのもあるので、困った時は森美術館にいけ!という思いがある。そういう意味でこれは私の求めていたものでした(でも時間が経ちすぎて忘れてしまった。馬鹿だな)
まず入って映像を見た瞬間AIの喋り声と映像の不協和音さにゾッとしてしまった。あの背筋が粟立つような感覚と作品タイトルの「奴隷」という言葉の持つイメージが合わさって結構な恐怖を感じました。
話の随所随所に笑いを誘う部分があるんだけど、あのトーンで聞くとそれもまた不気味で怖い。それに最後の閉店、救いがない小説を読んだ気分になった。
ある程度の知識があって好んで美術展に行くような階層の人間があれを見て何を感じるか、きっと人それぞれだと思うんだけどきっと多くの人は建物から出た瞬間に忘れちゃうんじゃないかなって。私もそうだけど。格差の天井って二重で、下からはガラスになっているから上が見える、でも上からの天井はコンクリだから何も見えない、みたいな比喩表現聞いたことがあるんだけどまさにそれ。でも、話の途中で話し手の息子がこの作品の作者であることを匂わせれられる。そこで世界が地続きになった気がした。でも、ただの鑑賞者であり傍観者であることを許さないことを呼びかける作品はいっぱいあるけど、それから何を考えるか、どう行動するかはあくまで鑑賞者自体に委ねられてしまう。だからアートって難しいなと思いました。インプットはするけどアウトプットはできない(しないじゃなくて)な人がこの日本はほとんどだから、アウトプッターから提示されたものに対する化学反応ってなかなか起こせない。
キャンチョメ「声枯れるまで」
私はこれとても苦手でした。名前が持つある種呪いのようなパワーはとてもよくわかるし、自分で自分を名付けた時に生まれるアイデンティティの重要さは実感している。名前とまではいかないけど、自分を定義づけることは大事。
でもこの作品は何を求めているのかよくわかりませんでした。見始めたのが途中からだったのもあったので、100%の鑑賞はできなかったから、個人の感想といえど断定的なことは言えないけど。与えられた名前と与えた名前、どちらも重要であり自分であるという考えは素敵。でもそれなら壁に描かれたキャッチコピー的な一文は少しミスリードでは?と思ってしまいました。
市原えつこ「未来SUSHI」
今回行くに当たっていinstagram等で展示風景を調べた時、出てきた写真のほとんどがこれだったけど、納得。エンターテイメント性が強くてとっても楽しかった。アミューズメントパークに来た気分でした。
文章的な文学的な作品だなあと思った。これを文章ではない視覚的な作品に起こすってすごい才能でとっても素敵。お品書きも面白かった。いつかこういう世の中が来るのかもしれないし、来たときは何の疑問も抱かず受け入れられて行くんだろうね。
やんツー「永続的な一過性」
今回出展されていた作品は「アートって何?」を考えさせられるものが多いなあと思った。これもまさしくそう。
アートって鑑賞者が決めるものだから、人間の感受性だけは機械に代替させたくないし、それがあるから人間社会が存在し続けてほしい。
って思ってたら全く違うことが書かれててびっくりしちゃったよ。
AKI INOMATA「彫刻のつくりかた」
※これが特に印象に残って、帰り道めちゃくちゃ酔っ払いながら書き殴ったメモ。
加筆しながら書いたものをこちらへ。
仕事柄、利用主体(というか制作主体)というテーマにとても興味が湧いたから書き残す。
アーティスト(そもそもこの定義が曖昧)が材木をビーバーに与えて自由に齧らせて、残った木をアート作品と名づける時、それの作者=アーティストは作家なのか?それともビーバーなのか?主体という考えで見れば製作の物理的主体者はビーバー、でも計画者はビーバーじゃなく人間。これってつまり感情か論理かの問題に繋がるのでは?と思った。
私の考えは、そもそもこれはアート作品に当たらないと思う。
私が定義するアートとは人間が人間のために作る自然界ではありえない最上級の視覚的娯楽作品(西洋美術史専攻だったせいで視覚的要素にかなり偏っているのは自覚している)
アートとは究極世界に必要のないものであるべきだと思ってる。衣食住には決して勝らない。人間が人間のためだけに作る最上級の娯楽であって、生命のためではなく感情のために存在し、世界の生物のためではなく私たちのためだけに存在する。だから人間はアートを高尚なものと見なす。私はそれが好き。最高の知的快楽だからアートが好きなのであって、衣食住に成り下がって欲しくない。だからビーバーが意思なく本能で齧ったものに知的快楽は感じないし、作家の計画性は作品自体には生じず、あくまで「ビーバーに齧らせた」という点だけに存在する。つまり、作品自体を美しいだとか面白いだとか感じているのではなく、ビーバーに齧らせたという行為自体にアート性を見出す。でもそれってアートって言っていいの?私は絵画ないし視覚芸術は視覚的美が優先されるのであって、昨今の活動自体にアート性を見出す現代美術シーンには疑問を抱いている。そもそもアートって高尚と見なされることは避けなければならない、あくまで目で見て「これ綺麗!素敵!」っていう感情を鑑賞者にあたえる、それがアートの意味。広く人に開かれたものであるために、必要以上の意味を考えさせるのは不毛。中性、芸術と呼ばれているものは識字能力のない市民のための教示だった。これが何を意味するかって目で見た時に何これ?って思うのは広く開かれていない。ある程度の知識階級だけに開かれたものをアートと呼ぶ風潮なんか消えてしまえばいい。老若男女、貧富、国籍、全てを問わず美しいものを愛する。人間のその感情こそが美術の根源であるべきだと思っています。
↑ここまでは酔っ払いながら書いたから今落ち着いてみると少し考えが違うかも。ビーバーに齧らせて、ビーバーが作り出した形状自体には確かに作為性はないかもしれない。でも、作家の目線がそこには確かに介在する。アートは知的行為であり知的探究心を満たすためのものだから該当するか。でもその場合、この作品の制作主体はアーティストであることが重要。
でもそもそも私はあの材木にしか着目していなかったけど、この作品は材木だけで終わっているわけじゃなかったよね。いくつもの木があの白い空間に立てられて、それプラスこの作品ができるまでの過程や参考資料が並べられて、あの空間そのものが作品であったはずだもの。ここのアーティスト自身の視線が、思考が、介在していない訳が無かった。酔っ払っていたにしてはなかなかいい文章書けていたと思うけど、ちょっと気が変わりました。
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