「殺人依存症」「残酷依存症」

先日「死刑にいたる病」を観た。

いつだって残酷なものは人を惹きつける。勿論、性的嗜好に加虐性や被虐性をもった人はそうだろう。でも、私みたいな残酷なものを見ると一週間近く気分が落ち込んでふとした時に泣きそうになるような人間でも、この世に蔓延る残酷さからは逃れられない。

色々な理由があると思う。
一つは、残酷なものを非日常と捉えていて、自分の知らない世界に憧れるから。
一つは、幸福な自分を実感するための道具だから。

そういう意味では浜真千代の「自分より惨めな人間を見ると安心する」という台詞はわかる気がする。私はその惨めさを自分から作り出すだけの衝動性や強い欲望はないけれど。


死刑にいたる病と同じ作者の作品、プラスたまにエンタメ性の強い殺人ゲームだとかの小説が読みたくなるからそんな感覚で購入したけど、ちょっと目線が違う小説だった。


二冊でセットみたいな、対照的な作品。

まずは共通しているところから。

二つの話の多くに散りばめられているのが男性優位な社会構造。「殺人依存症」では躊躇なく少女たちを嬲る性犯罪者や、主人公の刑事の妻の宗教に対する発言。「残酷依存症」では性犯罪者は勿論、性同一性障害の被害者がたどった運命にそれが表れている。

両作品に共通して描かれていた性犯罪者たちのホモソーシャルな精神もとても上手だったし気持ちが悪かった。私は男性嫌悪なので発言が偏ってしまうけど、ホモソーシャルって男性が内輪で勝手にやってくれるならワラって感じだけどいつだって自分たちより弱い女性子供老人を巻き込む。そして多くの男性がその連帯感を「男の友情」「絆」といって楽しむの本当に怖い。セクハラとかもそうだと思うけど、男性優位な社会構造が根深すぎて女性自身ホモソーシャルな楽しさの対象にされた際、楽しむための道具にされていることを男性に認められているって感じる人も多いと思っている。大学のサークルとか会社とか特にそうだしね。


「性犯罪は心を殺す」って、有名な言葉だけどきっと被害者以外絶対に理解できないだろう。軽く口にするのは簡単だけど、あまり詳しく書くことはできない。

対照的だなと思ったのは被害者たち。「殺人依存症」の被害者は罪もない弱者たち、対して「残酷依存症」では犯罪者が標的にされる。その分「残酷依存症」の方が読みやすかった。
どちらも「世界への復讐」と「犯人への復讐」で「復讐」というキーワードは同じだけど、後者の方が圧倒的に共感しやすいし不条理に憤らなくて済む。勿論「残酷依存症」に出てきた加害者たちのせいの被害者もいるわけだけど、加害者が全員酷い目に遭うからスカッとする一面もあると思う。そこが二つをシリーズではなく別作品に仕上げている。


殺人依存性の方で主人公の刑事が選択を迫られあの子を選んだ理由は、生命の責任を取りたくなかったからだと思う。異なる方を選んだら、彼の選択のせいで人が1人死ぬことになる。彼はそれを恐れた。愛情の問題ではない。
結局人間保身が大事。


また適宜書き足したいけど取り急ぎ。

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