ヘルマン・ヘッセ「クヌルプ」
今日は夜の間ずっと暇があったから、読んでいなかった本を読む時間に宛てた。これを書いたらお風呂に入る。
ヘッセが本当に好きだ。ヘッセみたいな人がパートナーとして側にいてくれたら、苦しいけど私の求める幸福の一端が埋められそう。傲慢すぎて笑う。
青春小説なのかなと思ったけど意外と違った。でも青春の喜びを表現する場面を見ていると心が搾り取られる。別に私はこんな青春経験してないけど、青春の内容が重要なのではなくて「輝かしい青春時代」を目の当たりにしてもう戻れない憧れを追体験することが青春小説の楽しさなんだろうね。だから青春が終わらないと面白くないのかもしれない。だって終わらないと、自分たちの青春が楽しすぎて、他になんて憧れを抱けないから。
テーマ:刹那
流浪者としてさすらうクヌルプ。この物語は主にクヌルプと時間を過ごした三者を軸に描かれているけど、全員がクヌルプにとって刹那でしかない。そして三者にとっても刹那でしかない。刹那の瞬間だけが切り取られて並べられている。クヌルプは本来人の人生においてスパイス、楽しむ材料にしかならない人。共に生活を営む相手として決して選ばれない人。その人が主題。
2章で語っていた花火の話とても共感というか感動した。私は今22歳になったばかり。きっと人生の中で最も美しく輝ける年代(若干終わってしまったとは思う)何故美しいか?それは刹那と結びついているから。美はその儚さをもってこそ永遠となるし、人は美だけでなくその儚さに感動したがる。美に願望ではなく意味を求めるから。だからこそ、刹那と美が紙一重で結びついた花火が何よりも美しい。確かに。
美はそれだけではないと思う。永遠を求めるのも美だと思う。でも、本当にそれが永遠になったら?きっと退屈してしまう。永遠そのものよりも、永遠を願う心に人は惹かれる。永遠は幻想。愛でも、愛を形容するための美でも。本当にそれが永遠でいることを人は求めない。永遠を願う祈りや願いたくなるほどの眩さに人は引かれるのではないかと思いました。
最後のクヌルプと神様のやりとりが心苦しかった。クヌルプは定住者たちに自由への切ない憧れを持ち込み続けた。願望のままに生きた?クヌルプが他者に残した「意味」や「価値」がそれなのであれば、その重荷を背負わされることは選ばれし者であると同時にどんなに孤独なんだろう。それができる人は今の日本にどのくらいいるのだろうか。最後クヌルプが故郷に戻ってきたのも結局そうなのだろう。彼が少年時代を何よりも輝かしい時代として思い出していたのは、土着した基盤があった時代を心の底から求めていたからなのでは?
願望を求め続ける漂流者は定住者にとってスパイスにしかならない。でも定住者はスパイスに憧れる。漂流者は芸術家。苦しみの中でしかスパイスは生まれてこない。
クヌルプは願望を思い続けて意味を残すことができた。でもそれは彼の人生の渦中において幸せではなかっただろう。意味を残すことの幸福をクヌルプはフランチスカへの失恋のせいで教えてもらえずに成長してしまったから。漂流の苦しさは私には一生わからないだろう。漂流の人生は普通の人にはできない、だから憧れるし崇高なものに思える。でも、定住者でいることの幸福感を捨て去れない。「春の嵐」読了後の感想とここは似ているかもしれない。
クヌルプは最期、願望だけで生きた漂流の人生の願望の喜びを思い出すことができた。他者への還元も実感することができた。ヘッセという人が自らの人生をどう捉えていたか知らないけど、「春の嵐」から5年後の作品。ヘッセも意味を残す人生に憧れを感じたのか。もちろんヘッセは死して尚後世に作品が残され、それを読んでいる私が今長々と感想文を書いているわけだけど、「意味」って自分が思わないと感じられないものだから。
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