村田沙耶香『信仰』より「最後の展覧会」
余談だけど、ドヴォルザークの「新世界より」がとても好き。メロディーも曲名も全てが。
『信仰』は途中まで読み進めていて、この話だけ読んでいなかった。最後の一話だった。
電車の中でKindleで読んで、涙が出てきた。冬の夜の人気の無い電車で、外の暗さと車内の暖色の光のコントラストにやられて、センチメンタルな気分だったのかもしれないけど。それでも泣いちゃった。小説を読んで、こんなに心が苦しくなって今の感情を言葉に残したくて仕方なくなるの、久しぶり。お行儀悪いけど歩きながら必死にスマホに打ってる。
何で涙が出てきたの?なんでこんなに苦しいの?その気持ちを書きたい。
あらすじを書くのはもどかしいから省く。
Kとマツカタ、芸術の概念を知らない二人がそれぞれの言葉で守ってきた芸術が邂逅して、展覧会が開かれる。芸術を見ると体に花が咲く。なんて綺麗な言葉なんだろう。知的好奇心とか、そんな言葉も素敵だけど、その概念を知らない二人による「花が咲く」という感情のすり合わせは、それこそ種から芽吹く植物を見ているようで、祈りたくなる。
芸術は人間、知的生物がそのものの快楽のためだけに行う最も高尚な行為、だと定義している。芸術の概念を持たない彼らも、誰かのために、まだ見ぬ知を愛する誰かのために展覧会を開く。そこにどんな芸術作品があるのかはほとんど語られないけど、それがいい。いくらでも想像できるから。そこに何があるのか夢見たくなる。
芸術が好きだ。特に絵画が好きだ。だから人間に生まれてよかったと思う。「グランドオダリスク」あの絵を見た時の感動といつまでも見ていたくなる焦がれる恋を一生忘れたくない。彼らにはその気持ちはない。でもその気持ちが存在することを知り、その感情と、それを引き起こす芸術という花を残そうとする。涙が出てきた理由は、ここだ。芸術は世界を越え、文化を越え、時を超える。でも、感情まで越えるところは想像したことなかった。フィクションの世界だけど、その感情を持たないものでさえ、愛したくなるのが芸術だと思わなかった。彼らは芸術作品自体に焦がれたわけじゃないの、でも芸術が引き起こす何かに、行動せざるを得なかった。物語は静かで、激情はなく寄り合って過ごす二人の時が流れていく。
最後、Kとマツカタが死んだ後、新たな宇宙人が芸術を見つける。このシーンも素敵だったけど、これは時を超え文化を超えたところだ。私が何よりも好きだと思ったのは、自分が信じていない考えたことがなかった芸術の可能性を見せられたこと。まだうまく言語化できない。でも本当に好きだ。この話が好きだ。
これからもあの絵のために祈れますように。
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