Chim↑Pom展:ハッピースプリング


どうして人は美術展に行くのか?

ほとんどが新しい知見を得るためにいくのだと思うし、信じている。だけど実際に思考の化学反応が起きる人ってどれくらいいるんだろう。足を運んだという文化的事実に満足して終わりそう。勿論それでもいいと思う。だけどアーティストが本当に高尚な目的でアートを発信しているなら、受け取り手がいないとアートそのものが完成しないのでは?

ドントフォローザウィンドウのスペースにいた人たちが邪魔だっただけの書き散らし。



本題


上にもつながるけどとにかく「思考」させるアーティストだと思った。意味を求めていない。世の中のブラックに見える社会的問題を掬い上げて、綺麗に彩って、ハッピーにしてしまうイメージ?ラットを捕まえるシーンは特にそう思った。私が歌舞伎町で見たら乱痴気騒ぎにしか見えないような動画でも、こうしてアートとして飾られると意味をなす。

個人的に一番面白かったのは「道」

思考させる体験型アートの究極系だと思った。展示の雰囲気や内容がルール展に似ている気がする。

倫理と表現の自由はいつも対立する。だからこそアーティスト、観客に求められることがこの前の本で読んだ「美意識」を鍛えること。何が正しいかの審美眼を養うこと。「道」はそれを鍛えるためのプロジェクトでもあると思うし、アーティスト・展示会・観客の絶対的な関係を打ち壊すための手段の一つでもあると。新古典主義美術にしか興味ないマンだったから最近の現代アートってこういうの主流なのかな?知らんけど。

Don’t Follow the Windは見ることができないことも含めてとても悲しい気分になった。森美術館の窓から見える景色はてっきり福島に向かっているのかと思っていたけどGoogleマップを見る限り逆みたい。でもだからこそ帰るために背を向けた時真っ暗な展示スペースに前進して、まだ見ることはできない帰宅困難地域の会場に向かっているような気分になった。後ろにある明るい日常の生活に背を向けて。私が行った日が晴れだったのもあるかも。この展覧会が開催されるまで福島は終わらない。未来はもうすでに動き出していて多くの人が別の分岐を辿る。忘れてはならないなんて誰にでも言える。ならば忘れないために人は何をする?募金しろとかそういうことではないのかもしれない(そういうことでもある)

この方々がずっと向き合ってきたであろうヒロシマや東日本大震災の問題はとても触れるのが難しいなと思った。

気合い100連発?は少し涙が出てしまった。あの時は東北だけが絶望的な状況に追い込まれたけど、コロナ禍の日本では日本中の若者たちが大なり小なり絶望を感じている。だけどもう事態が起こってしまっている。そんな中であの叫びをするのは辛くもあるし楽しくもあるんだろう。東日本大震災で私は被災地域の住民ではなかったから彼らの気持ちは計り知れない。スケールは全く違うかもしれないけどコロナの時似たような状況に立った。(今も立っている、と思うべき)あの叫びをしなければならない理由がある。人間には鼓舞しなければならない時がある。それが例え不謹慎だと思われようとも。人は、社会は、必ず窮地に立つ。

ジ・アザー・サイドもこの前テスカトリポカ呼んだばっかだから胸がぎゅーんとしてしまった。私は、自分は「ジ・アザー・サイド」にいる側の人間だと思っている。だからこんな高慢な発言ができる。隣の芝生は青いって諺に似てる。ちょっと意味は違うけど。この世の中には色んなジ・アザー・サイドがあって人はさまざまな面でそのどちらかに属してる。社会的拘束力によって難しい場合もあるけど、どちらがジ・アザー・サイドなのかは自分で決めたいし、決められるような世の中になるためにアーティストは活動するのではないかと思いました。

原爆の残火と遺族の涙が対をなす作品、見ていてゾッとしました。

自分の思考の浅さと語彙力のなさが恨めしい。あれを見て自分が何を思いたいのか、何をしたいのか、全く思い浮かばない。

こうでもして可視化しなければいつか風化してしまう現実、忘れてしまう人間の記憶力の脆弱さ、無関心が恐ろしくなった。でも可視化の試みとしてとても面白いのでは。どんなに時が経とうと目に見える残酷。

ただの氷と蝋燭の火だけど、デュシャンの「泉」みたい。人間はいつだって物事に意味を求める。それが合理的だから。この世の中に真にそのものに感動できる存在がいくつある?人間は物事でなく意味に感動せざるを得ない生き物なのでは?でもそれこそが知性であり人間が獲得した最高の産物。

ウィー・ドント・ノウ・ゴッド 

最高の知性を獲得した私たち人間は誰も神を知らない。神を知らないこそこの世界がある。



May,2020,Tokyo

真っ青な看板を見た瞬間涙が出そうになった。誰がこんなことだ起こると、誰がこんな作品が生まれると予測できたのだろう。

コロナ禍で世界が変わり、東京が変わった2020年はまさしく歴史の1ページに刻まれただろう。私たちが生きている今この時代は脈絡と続く歴史の一部分に過ぎない。そもそも歴史というものが人間が支配できる時間軸の一部分を合理的に表現したものに過ぎない。この青写真があることによって、それを認識しやすくなる気がする。だってこれ教科書の表紙みたいだから。


この方々の作品は社会問題と向き合っている。社会のブラックな部分と。なら、例えばの話だけど、社会問題がなければこの方々の作品は生まれない。ならばアートとは何なのか?絶望の中からしか生まれないのか?


一番上の話に戻るけど、全体的にこの方々の個展を見ていて、アーティストが発信するだけでなく受け取り手が何をするかによってアートは完成するのではないかと思った。

やっぱりアートって何だろう。この前の授業でもやったけど定義が難しい。


ドミニク・アングルは「芸術とは真に美しいものである」といった。彼にとって美しいもの以外芸術ではない。彼の追随者である私もその考えすごくわかる。美しいものだけ見ていたいしそれだけを芸術と呼びたい。でも何百年も前からその構図は瓦解している。ならばアートとは何なのか?自分なりの定義を持って向き合いたいけど難しい。私は心が震えたものをアートと呼びたいし、自分の中で思考の化学反応が起きて感じるだけでなく考えることができるものをアートと呼びたい。


アートは常に変容する。誰にも定義づけることはできない。アートは作品そのものではなく、アーティストと鑑賞者の中に起こる科学変化を含めるのでは?鑑賞者とは広義で社会すら鑑賞者に該当する。

アートは何のために社会に存在するのか?何がアートなのか?アートを決定するものは?アートは人々に何を与えるのか?はたまた何かを奪うのか?

この問題に簡潔に答えられる人間はいないだろうと信じている。



途中からちょっと酔ってる。

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