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第7回 経済学的仏教法話 ~近くて非なるは仏と経済~

お坊さん(おっさん)二人の仲良し交換日記第7回。前回はこちらです。

小路さんからのご質問です。

Q:信州大学大学院で経済学を専攻されていた白馬さんに一度聞いてみたかったのが宗教(仏教)と経済について、似てるよね。と感じたところや、違うわと思ったことを教えてください。

 私は高野山から信州の自坊に帰ってきてすぐに、信州大学大学院に通いました。学位は経済学なのですが、研究のテーマは「寺院と地域社会の関係を再定義する」というもの。(自分の研究について、あるいはなぜ社会科学専攻の大学院に学んだか、などは長くなりますので、別の機会にお話するとしましょう。)研究領域としては社会学に近かったのですが、学部は経済学部だったので、経済学の先生方にみっちりしごかれました(笑)。ろうそくの明かりで墨書の経論を素読する生活をしていた私には(もちろんそればかりではありませんでしたが)、カルチャーショックの連続でした。


 実は私、経済団体から講演のご依頼をいただいたら、こんな内容どうですかと提案しようと思っていたのが「経済学的本格仏教法話」なんです。(もちろんそんなご依頼は全くありません。)
 ・・・というのは、半分冗談なのですが、どこかで大学院で受けた衝撃の数々をまとめて発表したいと思っていました。そこで今回は本格法話!とまではできませんが、「経済学的仏教法話 ~近くて非なるは仏と経済~」と題しまして、高野山から帰ってきたばかりのお坊さんが信州大学大学院 経済・社会政策科学研究科で四苦八苦したお話をお届けいたします。

お寺は一体誰のもの?公共財・クラブ財?

 大学院に入って、最初のカルチャーショックは先生の忘れられない一言でした。
「お寺は公共財ではなく、クラブ財でしょ?※1
というものでした。
 なぜこの話になったかというと、私も小路さんと同じように、お寺は公益的な活動をするもの、と考えていたからです。
 お寺は公共的に維持されているものでなく、檀家さんによって維持されているので、檀家さん以外は排他的な存在でしょ?というわけです。
 実際にお寺の現場に立つ者からすると、明確な線引きができないというところです。確かに、郷福寺は檀家さんによって維持されています。しかし、郷福寺の活動に参加してくださる方は檀家さんだけかというとそうではなくて、活動によっては檀家さん以外の割合が多いものもあります。他のお寺でも例えば、本尊さんが国宝などの文化財指定がされていると、国や自治体から補助金があったりします。広く社会全体で護るべき文化財という考え方があってのことですし、檀家さんでなくても(拝観料は必要かもしれませんが)拝むことができますよね。経済学では、現実に起こる事象をできるだけシンプルなモデルにして分析していきますので、このように考えるのはある種当然ではあります。しかし、現場の立場からするとなかなかそうもいかないところがあります。
 あ、ちなみに私は低い排除性と競合性を持った半公共的クラブ財だと思います。

※1 公共財・クラブ財 クラブ財とはメンバーシップで維持され、供給される財・サービスのこと。公共財とは、道路や水道、公園などの公共的な財やサービスです。

みんなが幸せになるための方法とは。仏教と経済学の立場から

 「経済学」はお金儲けのための学問ではない、と言われたのがある授業の第一講目でした。経済とは、経世済民という言葉から訳語になっていますよね。済民、つまり民、いや衆生を済度する(全てのいのちを救うこと)、なんと仏教的なことなのでしょう。仏教と経済学は根底に流れる考え方は共通すると私は考えます。
 共通すると思ったことの一つに「ゲーム理論」の「囚人のジレンマ」があります。※2
 実際に起こっていることでは「地球の温暖化」が考えられます。各国が自国の利益を追求し二酸化炭素を際限なく排出すれば、地球の環境は悪化していき、全ての国が不利益を被るという事例です。この問題に対してゲーム理論を用いて解決を試みたのが排出権取引です。
 このような相互依存の関係性を分析していく理論なのですが、個人の利益を追求することが全体の利益を損なうという関係性が示すものは、仏教に通じるものがありますね。
 真言宗の教えの中に「大欲」という教えがあります。ご飯をいっぱい食べたいとか、大きい家に住みたいとかいう大きな欲ではありません。そのような個人の利益追求を「小欲」と言います。大欲というのは、自分が仏となってすべての命を救いたいという欲です。小欲を転じて大欲にする。小欲は生きていく上で必要なものですから、否定されるべきものではありません。その欲を正しく生かして「大欲」つまりより多く、多数の幸せへとつなげていくことが自分自身の幸せになっていくということです。
 仏教と経済学、どこが一緒でどこが違うかというのが今回のテーマ。経済学は社会事象を分析してどのような社会を作っていくかという学問であり、仏教ではどのように生きて、どのような精神性を持つべきかという教えですので、全く性質が異なるものです。しかし、その根底において共通する一つの真理を取り扱っているように思います。
 社会の様々な場面で、囚人のジレンマのような事例がたくさん存在しています。例えば街中のゴミ捨て問題。自分さえ良ければで、好き勝手に捨ててしまえば世の中ゴミだらけになりますよね。これを社会制度的に解決するのが社会科学の分野なのだとしたら、その中に持つ精神性を考えるのが仏教であると思います。もちろん、モラルだけで社会問題は解決するものではありませんが、日本人の精神性によって社会がキレイに保たれている部分だってありますよね。

※2 AとB、二人の囚人がいるとします。二人がともに罪を否認すれば証拠不十分で無罪、ともに自白すれば有罪となります。ところが、それぞれに自白すれば司法取引で無罪にするよ、と言った場合、二人ともそろって自白してしまい、ともに有罪となってしまう、というジレンマです。ウィキペディアの記事を貼っておきます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E

仏も経済も一処に通ず

 そこで私は、経済学などの社会科学と仏教などの宗教は、互いに背反する関係なのではなく、補完して相乗効果を生むことができる関係であると考えます。
 今現在、我々にとって最も幸福であること、というとやはり新型コロナウィルス感染の早期収束でありますが、医学などの自然科学が物理的に治す、あるいはワクチンを開発するという役割なのだとしたら、社会科学は社会全体のバランスを考えて感染拡大を防ぐ政策を立案するのが役割なのでしょう。そして、宗教は感染症に向かう心の拠り所やあり方を提供することにあると私は考えます。
 かつて私たちの先人は、大きな疫病が流行ったときに神仏に救いを求めてきました。奈良の東大寺大仏殿にお祀りされている大仏は、疫病の終息を願ったものですし、弘法大師のお書きになった般若心経秘鍵には、天皇陛下が自ら写経を行って疫病の終息を願ったと書かれています。
 では現代、科学の発展により仏教はその役割を終えた、と言うことができるでしょうか。長引く感染拡大によって、医療従事者への差別の問題や地域外からの往来者への偏見など、社会の中で心の荒廃とも考えられる問題が起こっています。この背景には、未知のウィルスへの恐怖や先の見えない不安など、精神的な側面が存在すると考えます。私達の先人が仏教に救いを求めてきた背景には、物理的な終息ももちろんですが、精神面での救いや強さを求めた部分もあったのではないでしょうか。
 非常事態宣言による自粛要請の中で、郷福寺ではご自宅での過ごし方の一つとして「おうちでお写経」をお勧めし、ご希望の方にご自宅でできる写経セットをお渡しいたしました。多くの反響をいただき、たくさんの方にお持ちいただきました。非常事態宣言終了後には「ソーシャルディスタンス瞑想」として、新しい生活様式に配慮した瞑想の場を提供しています。こちらの方はまだたくさんの方にお越しいただける段階ではないのですが、参加いただいた方とお話する中で、精神面での安らぎを提供する意義の大きさを感じています。
 今、この大きな災禍に立ち向かうとき、自然科学や社会科学、そして宗教。私たちが持つ叡智の全てを結集することが私達の利益を最大化する、私達が最も幸せになる方法であります。私達が時代を超えて継承してきたもの、日本が今日まで伝えてきた仏教こそがその一翼を担っていると私は考えています。

最後に小路さんへのご質問

Q;小路さんはもともと工学部のご出身であり、エンジニアとして活躍されていました。経済学、というか経営学の分野になりますが、社会科学の分野でもITの発展は大きな変化をもたらしました。ITによりネット上の様々なサービスが無料で提供されるようになり(なおかつ無料でも収益が上がるようになりました)、ほぼ無限の在庫を有した仮想店舗が誕生するなどの数々のイノベーションをもたらしてきました。
 そこで、ITによる寺院イノベーションの可能性についてどのように考えますか?

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