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「人間は幸せにならないようにできている」

 清水ミチコさんのインタビュー記事で語られているエピソードにとても印象的なものがあったので紹介したい。

 20代前半の頃、なんだか自分ばかりがついていない、人生がつまらないと感じていた清水さん。
 バイト先の尊敬する女性の先輩から「最近元気ないけど、どうした?」と聞かれた清水さんは思いきって自分の気持ちを打ち明けたところ、前向きな言葉をかけてくれるのかと思いきや「いや、人間は幸せにならないようにできているのよ。だから、頑張るとか頑張らないとかじゃなくて、淡々と受け止めないといけない。良いことがあったら喜べばいい」と言われたという。

 普段から同じようなことを考えている自分としては、自分のそういう理念のようなものが補強されたようで嬉しかった。その考え方を表明する人は少ないけれど、「こういう考え方もありですよね」と。
 幸せを追い求めることは決して悪いことではないし、その行為自体は全く否定しないけど、「自分にとっての幸せ」とは何かを定義しないで突っ走る人があまりにも多いように思う。幸せというのはあくまでも「幸せである」という❝状態❞を形容するものだからとても曖昧なものだし、「なろう」と思ってなれるものではない。
 だから最初から「人間は幸せにならないようにできている」と考えておけばとてもラクになる。これを受け入れることが出来れば幸せではない時も「人間は元々そういうものだ」と納得しやすくなるし、もし良いことがあった時は「幸せがない筈の世の中にこんなことがあるなんてめっちゃラッキーじゃん…!」と喜びが倍になる。
 そもそも幸せという状態には「稀有」「ラッキー」という要素が隠れていると私は思っていて、幸せが「常である」というのはまずあり得ない。幸せは一瞬で過ぎ去る、だからこそ価値がある。良いことがあった時は、焼肉屋で食べる上ミノ(980円)並みにクチャクチャクチャクチャクチャクチャクチャクチャクチャ…と味がしなくなるまで噛み締めるべきなのだ。
 インタビュー記事では他にも「あきらめる」ことの効用が語られていて、読み進める内に肩の荷が降りていく感覚があった。
 世間では「あきらめない」ことの美徳がクローズアップされがちだが、「あきらめる」という選択肢が有効である瞬間も絶対にあると思う。
 「あきらめない」はいいとして、「あきらめておかなければいい」という状態に入っていることはないだろうか? 「やめなければいい」というのは一種の思考停止なので、自分の理念や考えが入っていない状態での「あきらめない」は非常に危うい面がある。

 ウダウダ偉そうに語ってまいりましたが、普段から「あー道端に7000兆円落ちてねーかな~~」と考えているような程度の低い人間が言うことなので話半分でお聞きになってください。
 「人間はしょうもない」という定義を新たに設定し、私はこれを抱えて生きていくことにいたします。

〈参考〉
「人間は幸せにならないようにできている」―自分の好きなように生きる清水ミチコが大切にすること
https://news.yahoo.co.jp/articles/72b0cd621c237cd2697dd10aa1134029701b5f23

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